第8回
漆黒の長い髪に、どこまでも透き通るような白い肌。赤い唇は薄く、頬はほんのり桃色に染まっている。薄手の黒いシャツに黒のニットを羽織り、ひらひらと風に靡くロングスカートもまた深い闇のように黒かった。片手にはこれもまた黒い傘を携え、奈央と同じように軒下に佇んでいる。
全身を黒衣に包んだその少女と奈央は幾度となく峠道ですれ違ったことがあり、また響紀との一件で何度も会話に出てきたのを奈央はよく覚えていた。いや、覚えているなんてものではない。彼女が原因で響紀はおかしくなり、そして居なくなってしまったのだ。
『彼女に関わると、行方不明になる』
そんな都市伝説のような噂話の通りに、響紀は――
「凄い雨ね」と少女は空を仰ぎながら、「でも多分、これが最後かしら」
「……さい、ご?」
奈央は震えながら少女との間に一定の距離を保ち、すぐに逃げ出して助けを求められるよう準備をしておく。コンビニの中には大樹も居る。店員も居る。何かあったとしても、何とかなるはずだ。
そんな奈央を、少女はクスクスと滑稽なものを見るように笑った。けれどその眼はまるで笑ってなどいなくて、奈央はゾクリと怖気を感じる。
「でも、漸く貴女に会えてよかったわ。貴女から預かったものを、返そうと思っていたから」
「……預かっていた? 私から?」
そうよ、と少女は言って再びにっこり微笑むと、徐にポケットに手をやり、
「はい、これ」言って四角い何かを奈央に示した。「貴女が峠道に落としていった、大事なハンカチ」
そのハンカチを目にして、奈央は思わず絶句した。
白く光るそのハンカチの隅には薄紅色の朝顔が一輪刺繍されており、まるで洗い立てのように奇麗に小さく畳まれている。そのハンカチと響紀が少女から受け取ったと言っていたあのハンカチが結び付き、やはりあれは私のハンカチだったのだ、と奈央は首を横に振った。全身の毛が逆立ち、思わず一歩後退る。改めて少女の顔に目をやれば、不敵な笑みを浮かべたまま、まるで人形か何かの様に立っていた。
「どうしたの? 貴女のハンカチでしょう?」
少女は小さく嗤い、すっとハンカチを持つ手を奈央に差し出した。白く美しい手には、しかしちらほらと赤黒い斑点が散っていて。
奈央は訝しみながら、震える手をハンカチに伸ばした。なるべく少女の手には触れないように、摘み上げるように。もしかしたら、急に腕を掴まれてあの廃屋まで引き摺られてしまうんじゃないかと恐怖したけれど、そんなこともなく安堵する。
だが次の瞬間、奈央を見る少女の顔から笑みが消えた。何の感情も感じ取れない程の無表情が、ハンカチを受け取った奈央の顔に向けられる。
「な、なに……?」
奈央は思わず少女に問い掛けていた。その無表情が怖くて、今すぐここから立ち去りたかった。しかし、足がすくんで思うように動けない。
大樹はいったい何をしているのだろう。傘を買いに行っただけのはずなのに、まだ戻って来ない。傘なんてどうでも良いから、早く帰って来て欲しかった。手を繋いで、安心させて欲しかった。
奈央は救いを求めるようにチラリとガラス越しに店内に目をやり、
「……っ!」
思わず、言葉を失った。
そこには誰の姿も見当たらなかったのである。
大樹はおろか、店員も、他の買い物客の姿すらそこにはなかった。棚の影に隠れて見えないだけだろうかとも思ったが、それにしてはひっそりし過ぎている。
「……どうかした?」
その声に、はっと我に返った奈央は間近に迫った少女の顔に思わずたじろいだ。すぐ目の前に少女の姿があって、奈央はまた一歩後退る。
ふと周囲を見回し、人一人、車一台通らない道路に違和感を覚えた。降り頻る雨は相変わらずの強さで地を叩き、雨のヴェールが遠くの山の姿を隠している。其処彼処に落ちる影はどす黒く、そこに何かが蠢いているかのように奈央には見えた。あの異形か、と恐怖したが、しかし目を細めても、そこにはやはり影しかなくて。
「何をそんなに怖れているの?」と少女はくすくす嗤った。「まるで、会ったばかりの響紀さんみたいね」
その途端、奈央の心臓が激しく鳴った。響紀の名が少女の口から出た事に動揺し、震えが止まらない。
「……会いたい? 響紀さんに」
ひっそりと、不敵な笑みを浮かべて、少女は言った。
奈央は目を見張り、ぎゅっと手を握り締める。本当は誰かと手を繋いでいたかった。この不安を払拭して欲しかった。けれど、ここには誰も居ない。私とこの少女以外、きっと誰も存在していないのだ。そう思いながら、奈央は書き割りのような世界に目を向けた。
あやふやな輪郭は時に揺れ、時に震える。降りしきる雨の向こう側には無人の世界が広がり、雨音以外の全ての音が遥か彼方へと消え去った。もはやそこにあるのは偽りの街並み。奈央の知る現実とは似て非なるものだった。
様々な感情が奈央を襲い、しかしそれを表現する事など、今の奈央には出来なかった。
『貴女に逃げ道はない』
再び蘇る、宮野首の祖母の言葉。
『だから、立ち向かいなさい』
この身はすでに彼女に捕らわれているのだと感じながら、ふと左手首に巻いたブレスレットを思い出し、右手でそれを握り締めた。ほんのりと優しい温かみが伝わり、それだけで僅かながら勇気を得たような気がした。
『このお守りが、必ず貴女を守ってくれる。だから、安心して』
この御守りにどれだけのご利益があるのか解らないけれど、今は信じるしかない。
恐怖に震える身体を叱咤し、奈央はもう一度、少女の顔に目を向けた。
少女は微笑みを湛えたまま、奈央をじっと見つめている。その表情からは彼女が何を考えているのかまるで解らなくて、それがより奈央の不安を増大させた。
けれど、もし彼女の下に響紀が居るのだとしたら――
奈央は意を決し、こくりとひとつ、頷いた。
少女は満足げにほくそ笑み、
「じゃぁ、行きましょうか」
言って豪雨の中を、傘もささずに歩き始めた。
その途端、急に雨足が弱まり、気付くと先程までの豪雨がまるで嘘のように止んでいた。
奈央は思わず目を見張り、周囲を見回す。世界は静寂に閉ざされ、町は灰色一色に染まっている。道路には車一台走っておらず、歩道には人っ子ひとり居なかった。再びコンビニの店内に顔を向けてみても、やはりそこには誰の姿も見えなくて。
その明らかに逃げ場のない異様な光景に、奈央は全身から汗が噴き出すのを感じる。異界、とでも呼べば良いのだろうか。相変わらず遠くの山は霞んで現実味がなく、じっとりとした空気は尚も身体にまとわりついて何とも気持ちが悪かった。
最早何が起ころうと不思議ではない。少女に対する恐怖が眼に見えて解るほどの震えとなって現れ、ただ立ち尽くす。
「――どうしたの?」と少女は振り向き、にっこりと微笑みながら、「来ないの?」
奈央はもう一度左手首のブレスレットに右手を添え、深呼吸を一つした。
何れにせよ、今の奈央には他に選択肢などない。ただ少女のあとをついて歩き、響紀の所まで案内してもらうしかないのだ。
奈央は恐る恐る足を一歩前へ踏み出す。その感触は普段と何も変わらず、けれど全身がぞわりとした。越えてはならない何かを越えた。その感覚が、目には見えずとも奈央の身体には確かにあったのだ。奈央は荒い息を吐きながら、更に一歩前へ踏み出す。何かが足元に絡みついているかのように、その足取りは重かった。
少女はそんな奈央を見てうっすらと笑みを浮かべると、背を向けて歩き始める。
奈央もそれに続いて足を踏み出した。
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