第29回

   15


 結局その夜、奈央は一睡もすることができなかった。

 布団の中で何度も何度も寝返りを打ちながら、日が昇るまで、ただ無為な時間を過ごした。

 頭の中は疑問と恐怖と不安でいっぱいだった。なるべく何も考えないように努めたけれど、そんなことできるはずもなかった。


 小父と響紀はあの後、調書を取る為に警察官と共に警察署へ向かった。小母は家に残ったけれど、やはり眠れぬ夜を過ごしたのだろう。朝になって下に降りると、台所のテーブルに座ってコーヒーを前にして眼を擦っていた。

 小母と共に軽く朝食を摂り、向かい合って欠伸をしているところに、小父と響紀が刑事と思しき男たちを引き連れて帰ってきた。小母や奈央にも詳しい話を聞きたい、ということだった。


 刑事によれば、男はただにやにや笑いながら、「俺はあいつに呼ばれたんだ」と繰り返すばかりなのだという。あいつ、というのが恐らく奈央の事であろうと判断した刑事は、奈央にいくつかの質問をしてきた。面識があったのか、あるとすればいつからあったのか、あの男との関係は?


 奈央はそれに対してただ事実だけを述べた。会ったのは二度。言葉を交わしたのはそのうち一度だけで、その後はあの男を避けるためにわざわざ遠回りしていたこと、最初から何か怪しい嫌な感じがしたことを伝えた。


「他には? 特に変わったこととかはありませんでしたか?」


 その質問に答えたのは小母だった。小母曰く、数日前から家の周りを誰かがうろついている気配を感じていたという。その為、小母は小父や響紀にはなるべく早く帰ってくるよう、そして夜間に家の周囲を見回るようお願いしたという。一昨日の事は、つまりそういうことだったのか、と奈央はこの時初めて知った。脇に立つ響紀に目を向けると、響紀はふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。素直に感謝すべきなのだろうが、今はその言葉が出てこなかった。


「あと、もう一つ――」と小母は言い辛そうに奈央を横目で見ながら、「たぶん、なんですけど、この子の自転車に、昨日、その――」


 一瞬口ごもり、


「何があったんです?」

 と刑事に促されて、ゆっくりと、口を開いた。


「――サドルに、タイエキを、かけられていたみたいで……」


 その言葉に、奈央は小母の顔を見ながら思わずきょとんとした。


 ――タイエキ? 何、それ。


 漢字が思い浮かばず、首を傾げる。


「あ、あぁ……」と刑事は一瞬言葉を失い、ちらりと奈央の顔を見てから咳ばらいを一つして、「なるほど」と何度も頷いた。


「え、タイエキ? って、何?」


 奈央の質問に、周りの大人たちが一斉に視線を逸らせた。心底困惑しているように、ちらちらと互いに眼をやりつつ、僅かに唸る。


 やがて、

「えぇ、つまりね――」

 と意を決したように刑事が奈央に顔を向けた時だった。


「――精液だよ、要するに」そう吐き捨てるように口を挟んだのは、響紀だった。「あの男はな、お前の自転車のサドル――お前のケツが乗っかる場所に、わざわざ自分の精液を塗りたくって行きやがったんだよ――糞がっ!」


 最後の言葉は、果たして奈央に向けられたものだったのか、それともあの男に向けられたものだったのか。しかしそんなこと、奈央にはどうでもよかった。


 精液――あれが? と奈央は眼を見開き、茫然と床の上に目を向けた。そんな、だって、私、触っちゃった。だって、あれが何かわからなかったから。初めて目にするものだったから、何も考えずに……!


 奈央は全身から血の気が引いていくのがわかった。ただただ気持ちが悪かった。奈央の性的知識は所詮、小学校や中学校で行われた簡単な性教育程度でしかない。友人などが居ればそこから別の知識も入ってきたのであろうが、これまで誰ともつるむことなく暮らしてきた奈央にとって、そこは未知なるものであるのと同時に、母の件もあって忌み嫌う対象でもあった。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!


 胃の内容物が食道を駆け上ってきて、奈央は思わず口元を手で押さえた。堪らず立ち上がり、そのまま響紀の脇を抜けてトイレまで駆け出す。


「あ、奈央ちゃん……!」


 小母の声が、後ろから聞こえた。


 奈央はトイレのふたを開け、そこに盛大に未消化の朝食をぶちまけた。どぼどぼと吐瀉物が、まるで滝のように流れ落ちていく。激しくえずきながら、奈央は目に涙を浮かべていた。


 もう、あの自転車には乗れない、乗りたくない。それに、あいつの精液を拭いたゴミを詰め込んだショルダーも捨てなくちゃ。信じられない! なんで、どうしてあんなことするの!


 奈央は胃液が尽きるまで、何度も何度も、嘔吐を繰り返したのだった。

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