第30回
16
翌朝、月曜日。空は雲一つないほど晴れ渡り、太陽は燦燦と輝いていた。朝の天気予報によれば、もうすぐ梅雨が明けるらしい。鬱々とした天気が続いていただけにそれは喜ばしいことではあったのだけれど、今の奈央の気持ちは不幸のどん底と言って良かった。
昨日の事を思いながら、大きく溜息を吐く。
あの後、刑事はすぐに帰っていった。奈央の様子にこれ以上話を聞くべきではないと判断したらしい。ただ、「もしかしたらまた話を聞きに来るかもしれません。その時は」と言って立ち去ったので、奈央の気はなお晴れなかった。
深い溜息を吐きながら、奈央はバスセンターから高校までの道のりを重たい足取りで進んだ。自転車が使えなくなってしまった所為で、しばらくバス通学を余儀なくされたのだ。自転車でなら数十分の距離も、バスを利用すると倍以上の時間が掛かる。ただでさえ寝不足なのに、そこへ更にいつもより早く起きて支度しなければならないのが余計に辛かった。
はぁ、と何度目かの溜息を吐いた時だった。
「相原さん、おはよう!」
背後から聞き覚えのある声がして、奈央は我に返った。これは――木村くんの声だ。久しぶりに聞くその声に、何故か奈央の心は軽くなる。
「あ、おはよう、きむ――えぇっ!」
振り向いた瞬間、奈央は驚愕の声をあげた。
そこには、顔中傷だらけなうえに、右腕に包帯を巻いた木村の姿があったのだ。
顔の傷自体はさほど大したことはないようだけれど、腕の方は折れでもしたのか肩から固定されている。
「ど、どうしたの、それ!」
思わず目を丸くしながら問うと、木村は、あははは、と笑い声をあげ、
「いやぁ、うちの近くに公園があってさ、そこに五十段くらいある階段があるんだけど、そこで思いっきり転んじゃって。折ったわけじゃないんだけど、ヒビはいちゃってさ。しばらく固定してろって。全治一か月弱だったかな?」
「……そうなんだ」言って奈央は痛々し気なその腕に目をやりつつ眉間に皺をよせ、「――大丈夫なの?」
「たぶんね」と木村は頷き、「物に当てたり無理に動かさなければそんなに痛くもないし。ただこの状態だから自転車も運転できそうになくて、しばらくバス通学」
と、そこでようやく気づいたように木村は首を傾げた。
「そう言えば、相原さんは? 今日は自転車じゃないんだね」
「え、あぁ、その――」と奈央は言葉を濁す。まさか変質者に精液を掛けられて自転車に乗れなくなった、なんてこと言いたくなかった。その単語を口にすることすら気持ちが悪い。「ちょっと、壊れちゃって。買い替えるまで、私もしばらく歩きなの」
そうなんだ、と木村は言って、二人並んで歩き始める。
あんなことがあって何となく男性不信にでもなるんじゃないかと自分自身思っていたけれど、特にそんなことはなく、小父とも響紀とも(響紀とはもともと折り合いが悪かったが)普段通りの会話ができた。身内だから平気なんだろうか、とも思ったけれど、こうして木村とも普通に会話ができているところを考えると、内心ほっとする。
「……いい天気だね」
不意に木村が言って、奈央はその横顔に顔を向けた。
そこには木村の、傷だらけだけれど清々しい笑顔があった。その笑顔を見ていると、何だかこころが軽くなったような気がした。
友達、と思っても良いんだろうか。一緒に居ると、何だか安心する。
「――そうだね」
奈央も微笑み、二人はどこまでも続く青空を見上げた。
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