第28回

 そこには見慣れた天井があった。特に何か変わったような点はない。試しに頬を抓ってみると痛かった。とはいえ、昨日のような夢の件もある。これが夢の続きではないとは言い切れない。本当に現実なんだろうか? 実はまだ夢の中にいるんじゃないだろうか?


 そんなことを考えていると、


「――逃がすかっ!」


 カーテンのかかった窓の外から、激しい物音と(たぶん)二人の男の叫び唸る声が聞こえてきた。片方は聞き覚えのある声――たぶん、響紀の声だ。響紀が何事か叫ぶ中、ガタガタと何かを倒すような音がする。


 奈央は布団から跳ね起きると、慌てて窓辺に寄り、カーテンを開けた。目の前に見えるのは薄暗い住宅街。所々に見える街灯がひっそりと辺りを照らし出している。それだけならば普段通りの光景だ。けれど、と奈央は窓の下、丁度玄関に当たる辺りに目を向ける。そこには二人の男の影があって、今まさに激しい取っ組み合いを繰り広げていた。


「ひ、響紀っ?」


 あともう一人は誰だろう。いったい、何が起こっているんだろう。


 奈央は思わず部屋を飛び出す。階段を駆け下りると、丁度そこに小父と小母の姿があった。


「奈央ちゃん! ダメ、部屋に戻ってなさい!」


 奈央の姿に気づいた小母が、奈央の肩を階段の方へ押しやりながらそう口にした。その後ろでは、小父がスマホを片手に誰か――恐らく警察だろう――に電話を掛けている姿が見える。二人ともパジャマ姿だ。やはり響紀たちの声に目を覚ましたのだろうか?


「あの声は響紀? 何があったの? 大丈夫なの?」


 奈央の質問に、けれど小母は首を横に振りながら、


「いいから、部屋に戻ってなさい!」


 初めて見る物凄い剣幕だった。まるで突き飛ばすように奈央の背中を押した瞬間、どんっ!と外壁に物がぶつかるような音が響いた。その場にいた全員が思わずそちらに目を向ける。


「ひ、響紀!」


 小父は叫び、たまらず玄関から外へ飛び出していった。


「――あなた!」


 それを制止しようと小母が手を伸ばしてその背中に叫んだが、しかし小父の背には届かなかった。ばたんっと音がして玄関の扉が閉まる。小母の眼は大きく見開かれていた。わなわなと震えながら、力なくその場に崩れ落ちる。


 奈央はそんな小母に寄り添うように、黙ってその背中に手をやった。


 いったい何が起きているんだろう。もしかして泥棒? 響紀はそれに気づいて、一人で飛び出していったってこと? でも、もしその泥棒が凶器なんて持っていたりでもしたら――いったい響紀は――小父は――どうなってしまうのだろう。無事に帰ってきてくれるのだろうか。


 不安に駆られる奈央の脳裏に、再び血塗れになった石上の姿が浮かび上がった。あの悲惨な有様が響紀や小父と重なり、居てもたってもいられなくなる。けれど、こんなところで自分にできることなんてあるはずもない。小母と一緒に、ただ二人の無事を祈るだけだ。


 ガタンっ、パリンッ! 玄関先で鉢植えの割れる音が聞こえた。と同時に、男の唸り声が響いてくる。次いでガシャンッガシャンッと聞こえてきた金属音は、恐らく玄関の門の音だ。何かが激しく門にぶち当たり、どさっと鈍い音がする。


「糞がっ! 暴れんなっ!」


 この声は響紀だ。どうやら無事らしい。奈央は内心ほっとする。


「離せ! 離せぇえええ!」


 聞き覚えのない男の唸り声が聞こえ、奈央も小母も思わず戦慄した。恐らく響紀が小父と二人でその泥棒と思しき男を取り押さえているのだろう。男はどたどたと暴れているようだったが、さすがに男二人を相手にするのは無理だと悟ったのか、やがて大人しくなり、けれど口だけは響紀たちを激しく罵っていた。


 ……聞き覚えのない声?


 奈央ははっとなり、まさか、と青ざめる。


 違う。聞き覚えがある。どこでだった? 学校――教室――小林くん――違う、彼の声はもっと低い感じだった――図書館――木村くん――ううん、木村くんは逆にあそこまで低くない、もっと落ち着いた感じの声だった――なら、あとは――


 その時だった。遠くからパトカーのあの甲高い音が聞こえてきたのだ。それはあっという間に近くなり、やがて家の前で止まる。


 ――警察だ。


 外から複数の男たちの声が聞こえてくる。声は入り乱れ、もはや誰が何を言っているのか、全く判らない。


 奈央はふらりと立ち上がると、玄関の方へ足を進めた。


「あ、駄目、奈央ちゃん……!」


 後ろで小母の声が聞こえたけれど、奈央はそれを確かめずにはいられなかった。


 玄関扉を恐る恐る開け、外の様子を窺い見る。


 そこには警察相手に何かを話している響紀と小父の姿があった。二人は奈央の姿に気づくと静かに頭を左右に振る。来るな、と無言の声が聞こえたような気がした。その傍らの警察もまた鋭い眼光を奈央に向ける。


 その後方、通りに止まる赤いランプを灯したパトカーの方へ眼を向ければ、二人の警察に肩を掴まれ歩いていく一人の男の姿があった。


 間違いない。峠で出会った、あの怪しげな若い男だ。どうやってか知らないけれど、やはりあの男は私の居所を突き止めていたのだ。


 そんな奈央に、不意に男が振り向いた。


「――っ!」


 一瞬目が合い、息を飲みこむ。


 ――にやり、と男が不気味に笑んだ。


 奈央は背筋が凍り付き、思わずその場に立ち竦む。


 それから男は警察に促されて再び前を向くと、パトカーに押し込められるように乗り込んだ。


 奈央はそのパトカーが走り去るまで、眼を放すことができなかった。


「奈央ちゃん――」


 後ろから小母の声が聞こえて、はっと奈央は我に返る。


「あとは和幸さんと響紀に任せて、あなたは部屋に戻りなさい」


「え、だけど――」


「お願い。今は言うとおりにして」


 小母の強い一言に、奈央は「……はい」と小さく口にした。

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