第25回
14
目を覚ました奈央はぼんやりと天井を見つめていた。窓の外から差し込む朝日が奈央の部屋をうすぼんやりと照らし出し、スズメか何かの鳴く声が遠くどこかから聞こえてくる。
ふと時計に目をやればすでに午前九時を過ぎていた。一瞬目を見開き、「遅刻だっ!」と叫びそうになったけれど、そう言えば今日は土曜日で学校は休みじゃないか、とほっと胸を撫でおろした。
上半身を起こして腕を高く上げ、思いっきり背を伸ばす。長い吐息とともにゆっくりと両腕を下ろし、奈央はベッドから抜け出した。欠伸を一つ、それからパジャマを脱いで部屋着に着替える。今日は特に予定はない。家でのんびりしてもいいし、いつものように図書館まで本を借りに行くのもいいかもしれない。授業の課題は全て終わらせているし、今日は何をしようと自由だった。
奈央はとりあえず朝食を摂ろうと階下に降りた。嫌に静かな家の中、台所にも居間にも家人の姿はない。小父も響紀も今日は仕事らしい。小母くらいは居そうなものだが、冷蔵庫に貼ってあるシフト表を見ると朝からパートのようだ。
誰も居ない家の中で、奈央は何となく寂しさを感じながら朝食の準備に取り掛かった。と言っても、食パンを焼いてホットミルクをレンジにセットするだけだ。程なくしてトースターとレンジの音が鳴り、さっと朝食を済ませると奈央は流しに向かう。今日はよほど急いでいたのか、全員分の食器が洗い桶に残っていたのでそれも一緒に洗っておいた。
他に何かやることはないだろうか。暇を持て余した奈央は洗面所に向かい、そこにまだ汚れた洗濯物が残っているのを確認すると、まずは小父と響紀の衣服を、次いで小母と奈央の衣服を二回に分けて洗濯機を回した。その間奈央は家中(但し小父と小母の寝室と響紀の部屋以外)掃除機をかけて回り、それでも余った時間は読みかけだった小説を読むことに費やした。しばらくして洗い終えた洗濯物を一階と二階にそれぞれ干し、居間に腰を下ろして一息吐く。ふと時計に目を向けると、午前十一時を少し過ぎたところだった。
辺りは静寂に包まれていた。ご近所からの生活音すら聞こえず、通りを歩く人の声はおろか足音すら聞こえてはこなかった。朝方は聞こえていた鳥の鳴き声もやみ、気味の悪いほど静かだ。その静けさは重く奈央の身にのしかかった。まるで世界に自分一人しかいないかのような錯覚に陥り、ついで昨日学校で見た恐ろしい夢が思い起こされる。
誰も居ない学校。どこまでも続く廊下。灰色に包まれた世界。そして、血塗れの石上麻衣――
そこには妙な現実味があり、実際、抓った頬には確かな痛みがあった。あとから調べたところによると『夢痛』というらしい。心が不安定だったり何か心配事があるとみる夢だということだったが、結局奈央には詳しいことはいまいち理解する事が出来なかった。ただ確かに今の自分の心は不安定であり、色々と不安を抱えて過ごしている。これまでずっと一緒だった父と離れて暮らすこともそうだが、小父や小母に迷惑をかけていないかとか、響紀との関係だとか、学校の事だとか……数え上げると多分、切りがない。それらの不安があんな夢を見る原因となったのだとしたら、或いは再び似たような夢を見ることになるかも知れない。そう思うとなおの事不安が押し寄せ、思わず奈央は身震いした。
独りでこんな静かなところに居るから、より不安になるんだ。そう思った奈央は立ち上がり、二階の自室へ向かうと服を着替えた。とにかく出かけよう。多分、人の多いところがいい。図書館でもいいけど、例えばそう、近くのショッピングモールに行くのもいいかもしれない。あいにく友達がいないのでやっぱり独りぼっちではあるのだけれど、周りに誰かがいるだけで多少は気持ちが楽になることもあるはずだ。
奈央はショルダーを肩にかけ、姿見の前に立ち身だしなみを整える。よし。特に用事はないけれど、本屋とかゲームセンターとか、色々見て回れば少しは気が紛れるだろう。
階段を降り、玄関を抜けて鍵を掛ける。それから家の脇に置いた自転車を取りに向かったところで、
「……あれ?」
自転車のサドルに何か白い液体が付着していることに気づき、奈央は眉を寄せた。
何だろう、この汚れ。いったいどこから落ちてきたんだろう。
思いながら奈央は空を仰ぎ見る。そこには細い電線が一本、けれど鳥が止まっている様子もない。いや、何より、どう見たってこれは鳥の糞とかそんなものじゃない。もう少し水っぽいように見えるし、それに――と奈央は人差し指で恐る恐るその液体に触れてみた。粘度を持ったどろりとした感触。それと同時に、ほのかに生臭さも感じられる。
「……なに、これ。気持ち悪っ!」
奈央は独り言ち、ポケットティッシュを空いた手で取りだすと指についた汚れを拭った。それからサドルの汚れも綺麗に拭き取り、さてこのゴミをどうしようかと僅かに悩む。
これを捨てるだけのためにまた家に戻るのも面倒だし…… まぁ、あとで捨てればいいか。
そう思った奈央は、そのゴミをさらに幾重にもティッシュで包み込むと、ショルダーの中に押し込んだ。
ちょっとの間だけだし、我慢すれば大丈夫。
奈央は自転車を引いて通りに出るとサドルに跨り、一路ショッピングモールを目指してペダルを漕ぐのだった。
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