第24回
「――アァアアアアァァアアアアアアアッっ!」
奈央は肩を強く掴まれ、無理やり押し倒された。
何が起きているのかわからなかった。遮二無二手足を振り乱し、相手の腕を払い除けようと激しく暴れる。目の前の見知らぬ若い女の顔に恐れ戦き、彼女から何とかして身体を遠ざけようと踵で妙に柔らかい床を蹴った。ドンっと、背中が壁にぶつかる感触。これ以上逃げ場はない。奈央は大きく目を見開き、それが血塗れの石上麻衣ではないことを理解してからも動悸が収まらなかった。激しい過呼吸。手足の震えが止まらない。
「大丈夫だから、ね? 落ち着いて?」
長いこげ茶の髪に大きな瞳、うっすらと桃色に染まる頬と紅い唇。背は奈央と同じか少し低いくらいだろうか。茶色いニットの上着に黒いタイトスカート、そして同じく黒のタイツに包まれたすらりとした脚へと奈央は視線をやる。
奈央の記憶の中に彼女はいなかった。初めて見る顔に動揺と戸惑いを感じながら、ここが一体どこなのか辺りを見回す。
まず目に入ったのは白いカーテン、その隙間から見える灰色の書類棚。それから事務机とすぐ脇に置かれた移動式ラックには消毒薬などの薬品が並べられている。
「――ここは保健室よ」
奈央が結論を出すよりも早く、女の方が口を開いた。
保健室、と言われて奈央は今自分が白いベッドの上に居るのだということにようやく気が付いた。と同時に、ああ、やはりアレは夢だったのだ、と安堵する。なんて怖い夢。もうあんな夢は二度と見たくない。それにしても……
「あなたは教室で倒れたの。多分、貧血か何かね。もっと鉄分を摂った方がいいと思うよ」
落ち着きを取り戻してきた奈央はぽかんとした顔でその若い女――たぶん、保健室の先生だろう――を見つめた。顔に見覚えはない。けれど入学からのこの二か月間、奈央はまだ保健室をまともに利用したことがなかった。入学式か最初の学校集会の際に話があったような気はするが、まともに聞いていなかったのでその名前すら記憶にない。
「寝てたあなたを担任の先生が起こそうと肩を揺すったら、そのまま崩れるようにして床に倒れちゃったらしいの。先生、大慌て! そこにたまたま教室の前を通りかかった私が、他の子に手伝ってもらってここまで運んできたってわけ」
わかった? と女は奈央の顔を覗き込むように笑顔で言った。可愛らしさと美しさの両方を兼ねそろえたその顔は、奈央が見てもついつい引き込まれそうなほど魅力的だった。こんな先生なら、保健室に入り浸ってしまう生徒も多いんじゃないだろうか。或いは自分も今後は何かあれば逐一訪ねてみよう、そう思った。
「どう? 落ち着いた? まだふらふらする?」
「あ、いえ……」奈央は自分の胸に手を当てながら、「たぶん、もう、大丈夫です――」
動悸はすでに収まっていた。まだ僅かに手足が震えているような感覚があるが、呼吸も元に戻っているし、もう平気だろう。
「そう」と女は頷き、「念のため、ちょっと見せてね」
そう言ってゆっくりと奈央の顔に両手を伸ばしてきた。頬を包み込むように優しく手が添えられる。暖かく柔らかいその感触に、奈央は思わずどぎまぎした。まともに彼女の顔を見れず、思わず視線を逸らそうとして、
「あ、駄目よ。こっち見て。私の眼を、じっと見てて」
「あ、はい――」
奈央は慌てて視線を戻し、その大きく透き通った綺麗な瞳をドキドキしながらじっと見つめた。
「――えっ」
その瞬間、彼女の瞳の色が変わったような気がした。それまで薄茶色に見えていた瞳の色が、すっと灰色に変色したように見えたのだ。光の加減でそう見えるのだろうか?
彼女はしばらく黙って奈央の眼を見つめていたが、
「……うん、もう大丈夫そうね」
言って頷くと奈央から手を放した。そして瞬きをした次の瞬間にはやはり瞳の色は薄茶色だった。不思議な瞳だ。世の中にはこんな瞳を持つ人もいるんだな、と奈央が思っていると、
「どうする? 教室に戻る? それとも、もうしばらくここで休んでいく?」彼女は言いながら壁掛け時計に目をやり、「って言っても、もう次で今日の授業はおしまいみたいだけど」
そんなに眠っていたのか、と奈央は驚きつつ、昨夜の睡眠不足があったのだからそれも仕方がないか、と溜息を吐いた。
「教室に戻ります。せめて最後の授業は受けないと……」
それを聞いて、彼女は「まじめね」と小さく口にしてくすくす笑った。
「でも、無理はしないように。ちょっとでも辛かったら先生に言ってね?」
「はい、わかりました」
奈央は頷き、ベッドから降りた。足元が覚束ず僅かにふらついたが、何とかバランスを保つ。
「すみません、ありがとうございました」
頭を下げる奈央に、彼女は首を横に振った。
「ううん、気にしないで。じゃ、頑張って」
「はい。ありがとうございます、先生」
言って奈央は、保健室をあとにした。
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