第26回
ショッピングモールは土曜日ということもあって多くの客で賑わっていた。家族連れや恋人同士をはじめ、親しい友人たちや奈央のように一人で来たのであろう人らも多く居て、気を紛らわすには十分だった。
本、文具、アクセサリー、オリジナルTシャツ、衣服や下着などの専門店など、気を惹かれた店を順々に巡っていく。あいにく予算の関係で特に何かを買うなんてことはしなかったのだけれど、ただ見て回るだけでも十分に楽しめた。
どれくらいの時間、ここに居たのだろうか。奈央はスマホに目をやり、時間を確かめる。午後四時。そろそろ小母がパートから帰ってくる時間のはずだ。
そうだ、と奈央はその足を一階の食品フロアへ向けた。確か、新しくできたロールケーキのお店があったはずだ。それをお土産に買って帰って、あとで小母さんと一緒にお茶でもしよう。
奈央は小父と響紀の分も購入し、なるべく形を崩さないよう、気を付けて自転車を漕いで帰路についた。歩道の途切れる段差ではスピードを落とし、上下左右に揺れないよう努める。
やがて家にたどり着いた奈央は自転車をいつもの場所に戻し、玄関の鍵を開けて中に入った。小母の靴があるのを確認し、「ただいまぁ」と声をかけながら奈央も靴を脱ぐ。
「あ、おかえりなさい、奈央ちゃん」と台所から小母が顔を出し、パタパタとスリッパの足音を立たせながら出迎えに来る。「あら、それは?」
「これ、ロールケーキ」言って奈央は微笑んだ。「小母さんと一緒に食べようと思って」
「あらあらあら、ありがとう! じゃぁ、お茶入れるわね」
再びパタパタと台所へ戻っていく小母の後を奈央も追う。小母がお茶を準備している間、奈央は食器棚からティーカップや皿などを取り出し、机の上に並べていった。箱からロールケーキを取り出し、皿の上に乗せる。
こうしていると本当に母子のような気がして奈央は何だか嬉しかった。幼いころに父や自分を捨てて出ていった母の事を思えば恨みしかない。いっそのこと小母の娘として生まれたかったと思うこともあったが、そのたびに奈央は父に申し訳ない気がしてそれを口に出したことはなかった。
父の事は今でも好きだ。感謝もしている。けれど母の事となると――
奈央の母は身勝手な女だった、と聞いている。最初から父との結婚も反対されていたらしい。母には両親が居なかった。その上、素性もよく解らなかったらしい。父曰く、男性を相手にした仕事をしていたと言う話だ。詳しくは知らない。知りたくもない。ただ歳をとるごとにそういった知識が奈央の中に増えるにつれて、奈央は母を嫌悪するようになっていった。その母の職業自体を馬鹿にするつもりはない。けれど、その自分を捨てた母が今でも時折、思い立ったように奈央に会いに来ることがある、それが何より嫌だった。
出ていったのであれば戻ってこなくていい、会いに来てくれなくてもいい。会いたくもない。
それなのに、数年おきに、母は来る。どこにいても、突然、来る。まるで奈央の居場所を知っているかのように、いつも。父や小父、小母が教えているとは思えない。たぶん、探偵か何か、そういったものを使って調べているんじゃないかと思う。
母が最後に奈央のもとに現れたのは、こちらに引っ越してくる数か月前、中学卒業を目前に控えたある寒い日の事だった。すべての授業が終わり、帰宅しようと校門を抜けたところであの派手な女が奈央を待ち構えていたのである。
特にこれといった会話はなかった。ただ奈央の体を矯めつ眇めつしながら、「もうすぐ卒業ね、おめでとう」とそれだけ言ってニヤリと嗤い、奈央の返事を待たずして帰っていった。
何が目的だったのかはわからない。あれでも母親としての何らかの思いがあったりするのかもしれない。ただ奈央には母にそんな気持ちがあるようには到底思えなかった。何か他の、良からぬことを考えているようなあの目。いったいあの女は何を考えているのだろうか。
できればもう二度と会いたくはない、奈央は心からそう思っていた。
「……どうしたの、奈央ちゃん。ぼうっとして」
「え、あ。ごめんなさい」
奈央ははっと我に返り、慌てて誤魔化すように笑った。
「何かあった? 大丈夫?」
二人で向かい合うように席に座り、小母がお茶を口に含みながらそう訊ねてきた。
「え、ううん。なんでもないよ」
母が奈央に会いに来ていることは父はおろか小父にも小母にも話してはいない。実害があるわけではないし、これ以上余計な心配は掛けさせたくなかった。
「そう? ならいいんだけれど――」と小母は本当に心配そうな表情で、「私が留守だった間、何もなかった? 何か変わったこととか――」
「変わったこと――」そこでふと出掛けの事を思い出し、「そういえば、自転車のサドルに変な汚れがついてたの」
「変な汚れ? どんな?」
「なんて言えばいいんだろう…… なんか白くて、水っぽくて、あとちょっとドロッとした感じの。最初、鳥の糞かなって思ったんだけど、多分、違うと思う。あれ、いったい何だったんだろう……」
言って首を傾げた奈央を見て、小母は「白くて水っぽくてドロッとしてる……」と小さく繰り返し呟いた。思い当たるものがないか深く思案している様子だった。
「奈央ちゃん、それってもしかして例えば――」と小母はそこまで言って、はっと何かに気づいた様子で首を横に振った。「……あぁ、ううん、何でもない。多分、違うわね。何なんだろうね、いったい」
そのあまりにも不自然な様子に、奈央は思わず首を傾げる。
「何か思い当たるものでも――」
そう口にしかけたところで、
「あぁ、そうそう」と奈央の言葉を遮るように、小母は口を開いた。「奈央ちゃん、食器洗いとかお洗濯とか、あとお部屋の掃除もしてくれたのね! 本当に助かったわぁ! ごめんなさいね、朝急いでたから。大変だったでしょう?」
「え? ううん、そんなことないよ。お父さんと暮らしていた時も家事は私がやってたし……」
「そうね、そうだったわね。本当に助かっちゃった!」
「なら、良かった」と奈央は笑顔で言って、「それより、さっき何を」
「あ、そうそう。そろそろお洗濯も乾いてる頃でしょう。奈央ちゃん、悪いけどお二階の取り込みお願いしてもいいかしら。小母さん、一階の分を取り込んでくるから」
言うが早いか、小母は席を立つと小走りに庭の方へ行ってしまった。
その背中を見送りながら奈央は、何だろう、何を言おうとしてたんだろう、と釈然としない思いのまま、二階へ向かうのだった。
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