第20回

 いや、そんなはずはない。奈央は思い、首を激しく横に振った。こちらは自転車だったのだ。もしあの時私を追いかけてきていたとしても、この家まで追いつけていたなんて到底思えない。あの音は別の何かだ。それが何かなんてわからない。けれど、あの男がここまで追いかけてきて窓の外から覗き込もうとしているなんて思いたくもなかった。


 奈央は溜まりゆく湯船に身を沈めたままぎゅっと身体を抱き寄せ、じっと窓の方を注視する。先ほどの影はもはや見えず、物音ひとつ聞こえてはこない。ただ湯船に湯の溜まる音だけがジョバジョバと浴室に響いている。いつの間にか息を止めていた自分に気づいた奈央は、ゆっくりと、浅く息を吸い、吐いた。それを何度か繰り返したとき、不意にまたガタガタっと物音が外から聞こえ、思わず身を震わせて驚き「ひゃっ」と声を上げた。


 次いで聞こえてきたカーッカーッという鳴き声と、翼をはためかせてバサバサと飛び立っていくような音。


 ――カラス? なんだ、あの音はカラスの立てる音だったんだ。


 奈央はほっと安堵の溜息を吐き、緊張で強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。抱きしめていた自分の体から手を放し、もう一度窓の外に目を向け聞き耳を立てる。


 うん、聞こえない。大丈夫。


 それから奈央は思い出したように蛇口のハンドルに手を伸ばし、湯を止めた。窓の外ばかり気にして危うく溢れるところだった。


 たぶん、もう、平気。


 奈央は自分に言い聞かせるように胸に手を当て、心の中でそう何度も呟いた。


 あれ以来随分神経質になっちゃったな、と奈央はふっと自嘲すると、大きく息を吸いつつ腕を高く上げて身体を伸ばした。それから深い溜息とともに身体をすっと戻す。


 ――トントン

「っ!」


 突然、脱衣所のドアを叩く音が聞こえ、奈央は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。体が跳ね上がり、ばしゃんっと湯が音を立てて揺れ、縁から零れる。


「……奈央ちゃん、お風呂?」


 それは小母の声だった。どうやら帰宅したらしい。案外さっきの音も、カラスだけではなく小母の帰宅した音だったのかもしれない。


 奈央は安堵するとともに「あ、うん」と返事して口を開いた。


「ご、ごめんなさい、汗が気になって――」


「ううん、それはいいのよ。そうじゃなくて……」


 そこで小母は一旦口ごもった。何だろう、と奈央が思っていると、


「ううん、なんでもないわ。ごめんなさいね、邪魔して。ゆっくりしてて良いからね」


「あ、はい――」


 パタパタと去っていく小母の足音が聞こえ、奈央は小首を傾げた。


 小母はいったい、何を言わんとしていたのだろうか――?

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