第21回
夜更け過ぎ。カーテンを閉じた窓の向こうから僅かに入り込む街灯の明りに照らされた奈央の部屋は、恐ろしいほどしんと静まり返っていた。目の前に広がるのは白い天井とそこにぶら下がる電気傘の蛍光灯のみ。奈央はそれをぼんやり見つめたまま、やはり眠れぬ夜を過ごしていた。
階下ではすでに小父も小母も眠りについているのだろう、家の中はどこまでも静かだった。チクタクと時を刻む時計の音が妙に心細く、奈央は口元まで掛布団を引き上げた。ふと時計に目を向ければ午前二時。このままでは寝不足のまま学校に行かなければならない。奈央は無理にでも寝ようと固く目を閉じたが、しかし寝よう寝ようと意識すればするほど逆に眼は冴えていった。
奈央はふうっと小さく溜息を吐くと起き上がり、自室を後にする。ホットミルクか何か温かいものを飲んで心を落ち着ければ、少しでも眠くなるんじゃないか、そう思ったのだ。それはこの家で暮らすようになった最初の夜、緊張でなかなか寝付けなかった奈央に対して心配した小母が教えてくれた方法だった。
スマホのライトを点灯させて足下を照らしながら階下に降り、台所へ向かうと明かりを点けて食器棚に足を向ける。取り出した自身のマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジに入れて温めのボタンを押した。ブゥンという音が部屋に響き、この音で小父や小母が目を覚ますんじゃないかと一瞬思ったけれど、そんなこともないまま温めが終わる。
奈央は温められたマグカップを取り出すとダイニングテーブルの椅子に腰かけ、ゆっくりとホットミルクに口を付けた。ほのかな甘みが口の中に広がり、ほっと息を吐く。何となく心が安らぐのを感じながら、開け放たれたままの襖の向こうに見える居間に目を向けた。
薄暗い部屋には至る所に真っ黒い影が落ちている。その影一つ一つが不気味に蠢き、チカチカと明滅しているように見えるのは果たして気のせいか、それとも――――ガタンッ
突然の物音に奈央は体を震わせて驚いた。気づけば音の聞こえてきた方、すぐ脇のカーテンの向こうを注視していた。僅かにひらひらと揺れるカーテンの向こう側は人一人通れるほどの僅かな通路、そして隣家との境界に設けられたコンクリート壁があるだけだ。或いは小父か小母が不要になった大型ごみ等を一時的にそこに置いておくことはあるけれど、しかしこんな時間に物を置きに行くはずがないし、そもそも今は廊下を挟んだ向かいの寝室で眠っているはずだ。
……なら、さっきの音は、いったい何?
奈央は凍り付いたように動けなかった。マグカップを両手に持ったまま、じっとカーテンの向こうの窓に意識を向ける。
左右に分かれた二枚のカーテン。その僅かな縦の隙間に見える細い闇。そこから何者かが奈央と同じようにこちらを見つめている。そんな映像が頭の中に浮かび奈央は戦慄した。
カサリ、カサリ――下草を踏みしめる音。それは確かに奈央の耳に届き、脇の道を抜けて玄関の方へ移動していくのがわかった。
犬や猫なんかじゃない。あれは確実に人の足音によるものだ。
震える手から零れ落ちそうになるマグカップをどうにかこうにかテーブルの上に置き、小父と小母を起こさなければ、と覚束ない足取りで廊下へ出る。けれど意識は聞こえてくる足音の方へ向けられており、思ったように足は動かなかった。廊下に立ち、小父や小母の寝室を目の前にして体が動かない。
そうこうしているうちに、足音はすでに玄関前にまで達していた。
玄関扉に目を向ければ、何故か鍵が開いている。それが奈央の恐怖を頂点にまで追いやった。
――なんでっ? どうして鍵が開いてるのっ?
心臓がバクバクと激しく脈打ち、息が乱れる。手足は激しく震え、立っているのもやっとだった。
ガチャリ、と玄関扉のドアノブに手が掛けられる音。
「――っ!」
奈央は息を飲みこみ、目をつぶった。全身から一気に力が抜けていく。
キィっと金具の響く音とともに開かれた扉の向こう。そこには、
「……なにしてんだ、お前」
黒いジャージを着た響紀が、ぽかんと口を開けていた。
腰を抜かして廊下にへたり込んでいた奈央はその顔を見て、
「ひ、ひび、き――」
妙に情けない声を出していた。
安堵の溜息を漏らし、それと同時に何とも言えない怒りがこみあげてくる。
「……こんな時間に、いったい外で何してたのよっ?」
少し刺々しい言い方になってしまったけれど、それも仕方のないことだろう。なにせあれだけ怖い思いをさせられたのだ。少しくらい許されてしかるべきだ。
響紀はそんな奈央の顔をじっと見つめた後、何とも言えない難しい表情で、
「お前には、関係ない」
吐き出すように、そう答えた。
奈央はその言い方に心底苛立ちを覚えた。
冗談じゃない。そんな言葉で済まされてたまるもんですか!
「関係ないって、怖かったんだからね!」
すると響紀は意外な程素直に、けれどため息と共に、
「……そりゃ悪かったな」
と謝罪の言葉を口にした。
あまりの呆気なさに奈央は思わずぽかんと口を開ける。またいつものように悪態をつかれると思ったからだ。にも拘わらず響紀は文句一つ口にせず、その為奈央は何も言い返すことができなかった。
そんな奈央に、響紀は続けて口にする。
「……もう遅い、早く寝ろ」
そうして先に二階へ上がっていく響紀の背中に、
「う、うん――」
奈央は戸惑いを感じながら、小さくそう返事した。
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