第40話 聞け(3)

 笠原は眠るように座椅子に寄りかかっていた。ネクタイも解かず片足は夢の中に、ともするとほとんど両足とも夢の中に踏み込んでいたが、脇に置かれているスマホが鳴るとパッと目を開き、すぐ胸ポケットにかけていた老眼鏡をかけた。


 「7SUP……。誰からだ……?」

 彼は緩慢に操作していたが、送り主の名前を確認すると瞳孔を開いて姿勢を正した。

 (なるほど)

 本文を読んだ笠原はすぐに返信を打ち込んだ。そして――。


 「あの、先生……こんな時間に急にごめんなさい」

 真っ青な顔をした田辺が笠原の部屋に現れた。目の下にはうっすらと隈ができている。彼女は両手の指を胸の前で組みながら小刻みに震えていた。


 「ええ気にしないでください。こちらに座って」

 笠原がダイニングの椅子を勧めると田辺はわずかに逡巡したが、椅子を引いて浅く腰かけた。その斜め向かいにある椅子に笠原は座った。

 「心配していました」

 その柔らかい表情は人徳のある教師が生徒に見せる顔つきであった。田辺はようやく心を落ち着かせるとそこを訪れた理由をぽつりと漏らした。

 「あの、不安でしょうがないんです。今は子供がなんか、庇ってもらっているんですけど……、急にその考えがなくなるんじゃないかって……」


 「そんなことはありません」

 返事は強く、速かった。

 「子供たちは未来ですから」

 笠原の瞳に熱い何かが立ち上る。


 「でも……私も、みんなも……他の人と同じように……やっているから……」

 田辺は俯いて目の前のテーブルに向かってうじうじと言い訳を口にした。その態度に笠原は腹を立てることもなくただ優しく見つめた。

 「仕方がないことです。ニニィがやらせていることです。投票先も私が決めている。君たちが何も背負うことはない」


 「あ、はい……」

 田辺は少し顔を上げた。


 しかし、どのような正当化をしても事実は変わらない。ニニィがやらせていると言っても抵抗する手段はある。自分と誰かの命を天秤にかけて選んだだけだ。いくら笠原の指示と言っても、それに従うことを選んだのは自身である。


 「先生はね、いつまでもあなたたちの味方です」

 笠原は優しく片手を伸ばし、テーブルの上に置いた。


 「でも、それだと……」

 田辺がちらりと笠原の目を盗み見た。

 「先生のグループにいない子供、誰かの一番大事な人が子供でも、もうためらうことはありません。安心してください」


 「あっ、先生それって……」

 田辺はつい言葉を漏らしてしまった。それは本当の教育者ならするはずのないことであり、田辺から見て笠原はそういった人物であった。

 「さ、差別……」


 気まずさのあまり田辺はすぐ目を逸らしたが、笠原は全く怒りを見せることもなく、目尻に皺を寄せて優しく微笑んでいた。

 「これは差別ではなく、区別です」

 その声色から怒られないと感じた田辺は顔を上げた。

 「差別は決して行ってよいものではありません。田辺さんはしっかりしていますね」

 笠原は未だ優しく微笑んでいる。

 「例えば、人種を理由にして誰かと誰かに差を付けたら、差別です。しかし例えば、N県の福祉をN県の人は当然受けることができますが、K県の人は受けられませんよね。N県民はN県の福祉を、K県民はK県の福祉を受ける。これは区別です。N県にはK県民に福祉を与える必要はありません」

 そして、一拍置くと笠原は半ば自分に向けるように言った。

 「私1人が救うことのできる子供の数は限られているんです」


 室内には換気扇も何もない。にもかかわらず、田辺は首筋を冷たい何かが通り過ぎたように感じた。笠原から何かが失われていく。

 「だからそれ以外がどうなるのか、それは私の関与するべきことではなく、彼らが所属しているグループの行うことなんです」

 「その分先生は一層力を入れて田辺さんたち全員を守りますからね。安心してください」

 笠原は柔和に笑っている。目の奥や細かな振る舞いも表情とリンクしている。ただ、田辺には絵に描いた平面的なものであるように思えた。さっと目を逸らし、その態度が失礼であると思うも再び笠原の目を見ることができなかった。


 田辺は震える唇から何とか「あの……私、もう、帰り……」とか細い声を出した。


 「ああ……。ああ、そうですね。子供は寝る時間です……」

 笠原が丁寧でありながらも覇気のない声で答えると、了承を得た田辺はスマホを素早く操作し、早口で「おやすみなさい」と言って「カードキー」のボタンを押した。


 「おやすみ、なさい」

 笠原の乾いた声が彼1人しかいない部屋にこぼれた。


 (俺がしていることは……子供たちのためのことだ)

 彼は項垂れながらよろよろと座椅子に戻りかけたが、すぐに踵を返して寝室へ向かった。何度決意したつもりでも、心の奥底から思い込んで信じていたことを簡単に捻じ曲げることはできない。自分のため、自分の世界を守るためではないだろうか。彼の脳裏によぎった。


 「子供たちのためだ……ためなんだ……」

 笠原は顎を震わせ、眉間に皺を寄せながら力なくうつむいた。

 「そうだ……。私の子供たちじゃなければ、明日の犠牲者が子供でも、一緒に死ぬ一番大事な人が子供でも、俺には関係ない」


 明日死ぬのが誰なのか誰にも分からない。だから参加者はグループを作り、何とか自分が死なないように、自分の思う人物が死ぬようにと一団で事に当たっている。運否天賦でゲームをクリアしようとするのはともかく、大して何もしていないのであれば票を誰かに集中させたところでその効果が現れる可能性は低い。


 笠原はベッドに腰を掛けると年季の入った革靴を脱いで揃えた。それから靴下も脱ぐとその隣に並べた。

 (子供を守るんだ……。子供を)


 ベッドは笠原の体をふんわりと受け止めた。彼は仰向けの体勢で静かに目を閉じた。

 (誰が……、誰が……明日……死ぬんだ……)

 君島が死に、ゲームの流れが変わりつつある。彼らの言う不要な人物を決めていく流れができている。しかし今日の犠牲者はその条件とはかけ離れた長堂である。明日の動向も分からない。それでも、笠原は明日の犠牲者となるべき人物を無意識の内に制限して想像していた。


 (俺は……! 俺は! 俺は……)

 意識を変えたつもりでも簡単に変わることはない。改めて田辺に宣言したことで再び痛みを、これまでの自分自身の軸から裂けて剥がれていくような痛みを精神に感じていく。

 (決めたんだ! 決めたんだ!)

 自分自身に何度も暗示をかけるも、元の自分からますます離れていく気味の悪い苦痛を味わってしまう。

 (そうしないと、誰も助けられない!)

 肺を締め付けられるように感じても暗示を止めることはなく、その顔は歪んでいる。手足はあまり動いていないが、不規則に荒い呼吸が彼の中の何かを物語っている。


 数十分後笠原はようやく眠りに就くことができた。しかし彼の表情は朝まで変わることがなかった。

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