第40話 聞け(2)

 柘植と瑞葉は寝室に分厚い紙の束を広げ、そこに並ぶ無数の文字列から必要な情報――参加者の一番大事な人についての情報を探していた。既に参加者の親族については粗方調べていたが、それ以外の人物の場合もありうる。当然対象が分からなければ調べようもないが、ヒントどころか答えが分かってしまったのだから、時間をかけて調べることができる。


 その中には瑞葉の一番大事だった人も含まれていた。

 (佐原絹江……名前の語感から考えて女性であろうことが分かっているくらいだ。若いのか、老いているのか……、恐らく中年以上だと思うが……)

 柘植は自分に貼り付く瑞葉の横顔をちらりと見た。A県某地域の地方誌からリストにある名前がないか熱心に探している。

 (瑞葉がどの地域で生活していたのか、それだけでも分かればヒントになる。しかし、佐原さんが近くに暮らしていたとは限らない……)

 柘植は分厚い電話帳の山から「佐原」の姓を探していた。他の参加者の情報を当たったときと同じ方法であり、同時に他の参加者の一番大事な人も検索している、むしろそれがメインである。

 (掲載されていないということは……固定電話を必要としていないのか? それとも世帯主が別にいるのか? それとも単に……)


 柘植は目に力を込めて五十音順に苗字をなぞっていく。読み方が複数あるものも、難しいものも、ともすると特殊なものもある。部屋の傍らには「難読苗字事典」が置かれていた。しかし、彼はそこに掲載されていないものがありうるとどうしても疑わざるを得なかった。

 さらに一度該当する名前を見つけたとしても、それが正解とは限らない。同姓同名の人物は全世界どこにでもいうる。

 (見逃したら……もう一度探さなければならない。たった一つの情報の欠落が、死に繋がりかねない……。時間も限られている……)


 柘植の肩と首にはいつの間にか余計な力が加わっていた。自然と瞬きをする回数も減っている。口の渇きも忘れかけている。彼は目をぎゅっと瞑ると目頭を押さえた。

 (佐原……。決してありふれた苗字ではないが、かといって地域が特定できるほど珍しい苗字でもない。何かで有名な人でもないようだ。それは他の参加者に探られることがないという強みでもある……。能登さんに関しても同じだが、何より瑞葉の方が何も分からない分、リスクを内包している)


 柘植は目と頭を同時に動かしながらしばらくの間、集中して作業に取り組んでいた。ともすると止め時が分からなくなるくらいまで集中していたが、瑞葉が柘植のワイシャツの裾を引っ張ったことでその単調な光景に変化が生じた。

 「そうだね。瑞葉、少し休憩しよう」

 柘植がそう答えると瑞葉はニコニコと笑い、目を通していた資料に栞を挿んでパタンと閉じた。

 2人は羊羹を半分に分けると黒文字楊枝に刺して口に運んだ。気品のある涼やかな甘みは一流の和菓子店に並ぶほどに絶品なのだが、柘植にとっては糖分を効率よく補給できさえすれば味にこだわりはない。瑞葉と一言二言会話を交わしてすぐ食べ終えるとペットボトルの水を飲みながら、柘植は目の前のホワイトボードに貼られた参加者の写真の、つい先ほどバツ印を付けた人物の写真に目を付けた。

 (あのとき、長堂がこちらを見て、それから手を動かしていた。何かを伝えようとしていたのかもしれないが……)


 「瑞葉は手話を使えない。私も使えない」

 彼は確認するように半ば独り言を言った。瑞葉が隣で大きく頷くとメモ帳を取り出し、さらさらと文字を書いた。

 『つげさんは分かってくれます』

 瑞葉の回答は実にシンプルであった。柘植が彼女の表情や仕草、状況などで言いたいことを当てているから、コミュニケーションに不便はないということである。それは柘植に伝わりさえすればそれでよい、ということでもあった。


 「そうだね」

 『それに、何かあったら書きます』

 瑞葉は柘植に見せているメモ帳を一層目立つように前に出した。


 柘植は瑞葉の顔がわずかに疑問を示しているのを読み取った。

 「無理に思い出さなくてもいいけれども、長堂が透明なケースに入っているとき、ジェスチャーで何かを伝えようとしていたように見えた。誰に対してかは分からないが、こちらを向いていたような気がしていた。あれが手話だったら、長堂は瑞葉が話せないことを知っていたのだから、手話ができると思って何かを伝えようとしていたのかもしれない」


 柘植にはどのように動かしていたのかはっきりと見えていなかった。ただでさえ滴が透明なケースの壁に貼り付いてぼやけている中で、手話という言語の元の骨格を知らないのだからどの動作が何でどこが何の区切りなのかさえ分からない。

 (瑞葉からは見えていただろうか? 見えていたなら覚えているだろう。しかし、無意味に思い出させるのは酷だ)

 誰かが死ぬ間際のことを思い出せば、その後のことも一緒に思い出してしまいかねない。その次には別の日の透明なケースの中で起きたことを……。


 柘植は瑞葉が眉をわずかに下げるのを見て、「無理に思い出さなくてもいい。あれが手話だったのか私もよく見えなかった」と柔らかい声で伝えた。

 「それに手話だったとしても、あの状況で私たちに伝えるとしたら、取るに足りない破れかぶれの情報に違いない」


 瑞葉はほっと表情を緩ませるとこてん、と柘植の右腕に頭をもたれかけた。柘植はされるがままにしながら再びホワイトボードをぼんやりと眺めた。

 (記憶が戻れば声も戻るのかもしれない。手話ができないということは元々声を出していたということだろう)

 瑞葉が頭を軽く揺するとワイシャツ越しに柘植の腕にサラサラと瑞葉の髪が触れる。右を向かなくても柘植はその姿を容易に思い出すことができた。

 (そこまで日焼けしていることはない。色白気味だ。何かスポーツをやっているような筋肉の偏りは……この年齢で目立つなら余程練習していそうだが……そういうこともない。痩せ気味だが病弱なほどでもない)


 (服にはタグがないらしい。靴にもない。作りは良さそうだが、地域の特定ができるようなものもない。他に持ち物もない)

 柘植は初日の瑞葉の姿を思い出した。強制的に広場へ連行されてこの「透明な殺人鬼ゲーム」に参加することになったときの衝撃は忘れようもない。

 (肌艶があまりよくなかったから決して裕福ではない、いや、単に低栄養だっただけかもしれない……。保護者が美容に金をかけていたようには見えなかった)


 (記憶を取り戻す以外に素性を知る方法はない、か……。手掛かりになりうるものは『佐原絹江』が何者かということだけか、今のところ……)

 2人はしばらくそうやって体の疲れが取れるまで静かに座っていた。このゲームでは、休むべきときに休む必要がある。彼らはそうすることができていた。アルコールやただの味方相手では十分にリラックスすることはできないが、彼らは安心してお互いに身を委ねていた。

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