第39話 聞くな(3)

 武藤は普段通りの簡単な朝食を終え、熱い緑茶を飲もうとしてテーブルの上にあるスマホに手を伸ばした。その一瞬でつい先ほどまで置いてあった使用済みの食器は消えていた。丸い形の水滴も消え、まったく何もなかったかのようである。


 「あ……」

 武藤は未だに慣れない現象に驚きながらもとりあえずスマホを手にした理由を思い出し、「お茶」と言葉にした。目の前に上品な香りの漂う緑茶が湯呑に入れられて現れる。おあつらえ向きに茶柱が立っている。彼はじっと見つめた。一度気になってしまうと、いや、以前から無意識下で気になっていたことがついに表面に露出すると、武藤の頭に続々と疑問が沸き上がってきた。

 (こんな現実離れしたことがあるはずがない。物が勝手に出たり消えたりする。俺たちも瞬間移動できる……)


 彼はひとまず湯呑に手を伸ばしたが、持ち上げることなくただ握るだけであった。手元に目線は注がれていない。数十秒前に触っていたスマホを見ていた。

 (このスマホもおかしい。充電していないのにいつまでも動いているし、どの機能も異常だ。『ににぅらぐ』はまだ分かる。ただニニィとチャットする機能だ。『7SUP』も参加者間でチャットする機能だ。『時計』も『投票箱』も『ルールブック』も『メモ機能』も普通のスマホに搭載されていてもおかしくない。『カメラ』も高性能すぎることに目を瞑ればありえない話でもない)

 電器屋として働く彼は当然その手の最先端のものに詳しいが、そうでなくとも知りうる科学技術を超越していることは明らかであった。

 (明らかに異常なのは『カードキー』だ。広間と自分の部屋と……あと、誰かの部屋をテレポートできる。ありえない。ありえないんだ。こんなことがあるはずがない)


 湯呑を握る手はだんだんと熱くなっていく。武藤は反対の手に持ち変えると今度こそお茶をすすった。

 (『ににぉろふ』もだ。指定したものが突然現れる。それに、旨いものばかりだ。使っているものも高級であることがよく分かる)

 彼の考える通り、彼が今しがた飲んだものは重厚な渋みと香ばしさが口の中に広がる、まさに求める茶の風味であった。


 (この部屋もだ。必要なものは勝手に用意されて、勝手に掃除されている)

 茶の旨味に舌鼓を打った武藤は自分のいる部屋をチラチラと見渡した。掛け時計の秒針が滑らかに動いている。無意識のうちに彼は今日の「透明な殺人鬼ゲーム」まであと何時間、と考えてしまった。


 (そうだ。この『透明な殺人鬼ゲーム』そのものがあり得ない。100人近くを攫ってどこかに閉じ込めて、それで世間が何も騒いでいないのも、世間と隔離できているのもおかしい)

 一度考え始めたら止まらない。普段あまり使っていない脳に糖が送られていくが、回転が早まることはない。すでにバテ気味であった。それでも止まることはない。

 (誰かが透明なケースの中で亡くなるときの、奇妙な亡くなり方も、現実離れしている。それなのに俺たちは精神的に持ちこたえている。あれだけ衝撃的な出来事なのに緩和されている)


 武藤は荒く呼吸をし、湯呑を両手で抱えた。得体のしれない恐怖が彼の内側から沸々と発生し、自分の体が自分のものでないような感覚が襲ってくる。

 (これは夢だ。悪夢だ。夢であってくれ。早く目が覚めて、日常に戻してくれ。五感が生々しいけれども、夢じゃなければ説明がつかない……)

 武藤はギュッと強く目を瞑った。そして、一心に念じた。

 (これは夢だ……! これは夢だ……!)

 一気に目を開くと――景色は変わらない。


 彼は椅子から立ち上がるとカーペットの上に仰向けになった。長年使っている煎餅布団よりも柔らかく、暖かく、心地よい感触が背中に伝わる。目を閉じる。

 (これは夢だ……夢なんだ……)

 深呼吸を何度か繰り返す。青畳のような香りを感じる。心臓は半信半疑の鐘を強烈に打っている。目を開きながら、勢いをつけて上半身を起こした。覚めることはない。


 (これは夢なんだ……、夢であってくれ……)

 武藤は何度も目を瞑り、開いたが、考えれば考えるほど明晰になっていき、やがて彼は小さくため息を漏らすとゆっくり立ち上がった。緑茶はすっかり冷めていた。


 この思いに囚われてばかりいたら、このゲームを生き残るのに不利である。万が一、これが現実なら、ここで死んだらお終いである。だから夢であると願いながらも、彼は現実的な思考を手放すわけにはいかなかった。

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