第38話 帰せよ(3)
「やっぱり、あれが普通だよな……」
七里はリビングの床に胡坐をかいて缶ビールを飲みながら、焦点の合わない天井が揺れているのを眺めていた。
(やっぱり、あいつらがおかしかったんだ……。普通、リストラにするときは一番無能な奴からだ)
七里は自分が今の会社に勤めることになった前の苦い出来事を思い出していた。そして、今日の話し合いの結果はある意味彼の疑問を晴らすものであった。
(何が、『君は若いし他の会社でもやっていけるから』だ……。何が『遠藤君はクビにしたらかわいそうだろう? 小さい子だっているんだよ』だ……)
彼はかつての同僚の姿を思い出す。白髪交じりの短髪とも長髪ともつかない髪、年不相応に若く見える顔つき、くたびれたネクタイや革靴の他に、やけにスーツが薄く体に貼り付いている。それは単に昔買ったであろう服に見合わない体型をしている、つまり、太ったためにそのような風貌になったと七里は考えていた。
(別に腰巾着でもなかったし、親戚に偉い人がいるわけでもなかったし……)
つまり、先の言葉は建前で他に何か意図があった、というわけでもなく、課内から1人リストラするにあたって課長が本心で言ったものであった。七里の知る限りではそうであった。
ただ、書類上ではあくまでも七里の能力不足で処理された。その書類は課長から部長に至り、そして会社の承認は恙なく下りた。
彼は深くため息をつくと、左の膝を持ち上げて床に落とした。パン、と小気味よい音が鳴る。
(俺があの会社に残る価値があったのか? 仕事は楽しかった。やりたかったことだった。いつもなら手を抜いたりする俺も、多分、真剣に取り組んでいた。他の人とも仲良くやっていた)
誰かにこの話をすればどういう返事が返ってくるのか、彼には容易に想像ができた。「そんな会社にいる価値はなかったんだから、結果的によかったじゃないか」と言われるに決まっていると。
(そんな会社にいる価値はなかった……と言われても、少しの間、仕事や給料を失う……。辞めた方がいい会社でも、転職先が決まるまでは仕事と収入を維持しないといけないんだし、何より、クビになった事実が残る)
(どうしてあいつじゃなくて……)
七里はビールを2口飲んだ。脳がぼうっとしているはずなのに思考は止まらない。薄らかに頭痛が現れ始めているが、気にならない。
(人道的な振り……ただそれをしたかっただけだ、多分。道徳ごっこがしたかったんだと思う。何となくいい気分になりたいから。ただそれだけだろ? それなら、どうして俺が……)
彼は当時考えた原因と全く同じものを無意識のうちに呟いていた。
「男だったから……、子供がいなかったから……、勤めて日が浅かったから……、あの町の出身じゃなかったから……」
(会社としては……どうだったのか……)
七里は缶を口元に運び、ゆっくりと喉を動かした。
(どっちでもよかった。会社が払う給与はそんなに変わらない。波風立てたくない……)
缶を最後まで傾けると最後に数滴の液体が垂れてきた。彼は飲み口の穴から中を覗き、軽く揺らすと空き缶を強く握った。それはべきりと音を立て不自然な形に変形した。
(今度こそ、今度こそ、そうなるわけにはいかない。全力で抵抗しないといけない。それに、ここは常識が通用する。無能な者から切り捨てられる)
(そうしないと……死ぬんだから……)
彼はスマホに向かって「缶ビール」と呟いた。キンキンに冷えた新しい缶がすぐさま現れた。七里はプルタブを起こすと勢いよく喉に流し込んだ。既に始まっている頭痛が麻痺していく。
(俺も心の中に情けがあったんだ……。どっちが無能で不要かなんて、遠藤も分かっていたはずなんだ。遠藤は自分と俺を天秤にかけて自分を優先した。当たり前のことだ。俺も会社が決めたから仕方ないと飲み込んでしまった)
(…………もしかしたら、もしかしたら……どこかで、遠藤が自分から言い出すと期待していたのかもしれない……。誰かが言うと思っていたのかもしれない。自分を救えるのは自分だけなのに……幼稚だった)
「あのとき、これを思いついていたら……」
七里の視線の先には何の変哲もない大学ノートがあった。
(いや……今からでも遅くないのか? そのためには……まず、このゲームから生きて脱出することが第一だ。でも、今更やる意味があるのか?)
それをただ行うこと自体に大した意味を彼は感じなかった。それどころかリスク以外大して残らない。第一、七里はいったい誰に対して恨みを持つべきなのかいまいち自信がなかった。遠藤なのか、課長なのか、さらに上司なのか、それとも……。
彼は目を閉じると、瞼の奥に見える桃色や水色がゆっくりと移り変わるのを見て、自分の心臓が揺れる振動を感じて、室内に少しだけ漂う金臭さとオイルの臭いを感じた。
「殺せば……もしかしたら、人材募集、がかかるかもしれない。そうすれば、もう一度……」
一語ずつ口にした言葉が出終わると七里はその言葉をつなげてもう一度頭から読み直した。
(今の仕事よりも時給がよく、やりたいことができる。元々あるべきだった形に戻るだけだ。……念のため、もう少し考えよう。時間はあと……30日くらいあるし……)
やっと七里の頭は回転を鈍くした。アルコールが効いてきたことに加え、一応の満足を得ることができたためであった。彼は喉を鳴らすほどに缶に残ったビールを飲み干すと、口元に垂れる液体を袖口で拭った。
*
住本は大きな白い革張りのソファに横たわりながら数冊の雑誌のうちの一冊をパラパラと捲っていた。彼女の部屋にはいわゆる女の子らしい小物はなく、ほとんどデフォルトのままであった。では「ににぉろふ」を活用していないのかと言えばそんなこともなく、その証拠に部屋の隅には一列に並べられた人間の頭が全く輝きのない瞳で虚ろに一点を見つめている。カットウィッグとマネキンである。
それらが常に剥き出しになっていることはこの部屋を訪れる人物はいないということを示していた。
(子供には発想力がある……。子供……、私はどっちになっているんだろう?)
住本は未成年である。しかしすでに高校を卒業していた。選挙権はあるし自動車の免許も取ることができるがアルコールは飲めないし、契約も親に頼らなければ満足にできない。
そこまで考えたところで家族の顔が浮かび、胸がチクリと痛んだ。
(ま、どっちでも大丈夫。究君もいるし)
彼女は体の向きを変えて逆の手で頬杖をついた。ソファの背の方を向いても雑誌を広げるだけの十分なスペースができる。住本は今まで頭の下にしていた方の手を中空でプラプラと振って疲れを取るとページをめくった。「今年の流行は――」と赤い文字で大きく書かれている。
(それに一応、美容師……の卵、だから)
視線とそこに載せられているコーディネートに似合う髪型を自分なりに想像した。サイドアップのシニヨンがさっぱりしていて案外よいのかもしれない。
(これから先、全員が生きていくのに全く役に立たないことはないでしょ)
それは生きていくのに必須かそうでないかはともかく、参加者の中で彼女だけができる唯一無二の技術であった。
しかし、住本は初めの頃に話し合いの場で自分の職をアピールしていなかった。水鳥が反対していて、さらに自身がまだ理容師免許を持っていないということもあったが、どういった理由があってもやらなかったことには変わりない。
全員にとって有益な情報であるならば伝えるようにと言われていたにも関わらず、後になってから言っても、自分が投票先に選ばれる予定になってから言っても意味があるのか、誰にも分からないが、彼女は何となく大丈夫だろうと考えていた。
(でもなあ……、最近、何となくみんな地味になってきているからなあ……。おばさんたちも同い年くらいの子たちも……。あと男の人も)
住本は数日前までの広間の光景を頭に浮かべた。今日と比べるとカラフルで、光り物が目立っていたが、今となっては褪せてきている。というよりも、初日の姿に戻っている。
「うーん……」
住本は迷いを退けるように1ページ先に進んだが、その内容に興味がなかったのか、雑に数ページめくった。
「あっ、ここ、近所じゃん」
ページの隅に特集されていたのは新しく開いたアメカジを中心とした古着屋であった。そこは住本が普段行かないエリアであったが、地名と簡単な地図が紹介されていたために容易に判明した。
(次の……)
彼女はほんの一瞬、笑みを浮かべると普段のように、次の休みに行こうかと考えてしまった。アパート近くの光景が、好みの情報が、つい緊張を緩めてしまった。
(次の、じゃない……)
(他の人たちより安全かもしれないけれど、外に比べたらずっと危険だった……)
自分自身の安全に対する価値基準がいつの間にか変わってしまっていたことに住本は背筋が凍るような恐怖を感じた。
(ここで安全だと思っても、今まで生きてきた中ではずっと危険なんだ。)
彼女は体を起こしソファに座り直した。マネキンの並んだ姿が目に入る。住本はさっと目を逸らし、つい先ほどまで読んでいた雑誌に目を落とした。掲載されている店の写真を人差し指でそっと撫でる。
(うん。このゲームを生き抜いて、絶対に行こう)
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