第37話 帰するな(3)

 乙黒はリビングのソファにもたれかかり、テーブルの上に置いたタブレットに映した古びた映画の冒頭をじっと見ていた。グループ内で割り振られている仕事も今はない。半端に空いた時間に何もしないわけにもいかず、彼女が思いついたのはそれであった。


 「あんまり面白くないなぁ……」

 開始早々乙黒はため息をついてシークバーを動かそうと指を伸ばしたが、寸でで止めると画面に近づいた。


 (あっ、出た出たっ)

 書類が雑然とあふれるオフィスのドアを開けたのはハンサムな刑事であった。昭和のイケメン顔よりも線が細い印象があるが、その柔和な顔付きは流行りを先行している。

 (究君が年を取ったらこんな感じなのかな?)

 乙黒が見ているのはその青年、つまり水鳥の父親が出演している映画である。昨日発表された水鳥の一番大事な人は彼の父親であった。もっとも、それよりずっと前に知らされていたのだが、彼女はそのときそれほど興味を持っていなかった。


 (うーん、まあまあ究君に似ているけれど……)

 乙黒は箱から煙草を1本取り出すと素早く火を点け、リビングに勢いよく煙をまき散らした。奇しくも映画の中でも同じように、街中で顔に大きな刀傷のある品のない男が煙草をふかす様子が映し出されていた。

 (あー、近藤みたいな人たち……。昔は規制が緩かったんだよね)


 映画のストーリーはよくあるサスペンスものであった。

 最近都内で合成麻薬「スイーツ」が流行しており、その出所を突き止めるべく主人公の刑事は奔走している。ある日偶然街角で挙動不審な女を見かけ、そこから売人と背後の組織に近づいていく、という流れである。


 ただ、専ら乙黒が注目していたのは水鳥の父の姿のみであった。そのシーンだけをつなげた動画とこの映画のどちらを見るのかと尋ねられたら乙黒は迷わず前者を選ぶくらいに話そのものに興味を持てなかった。


 (あっ、今のシーン、究君っぽい)

 彼女は画面を止めるとグラスに入ったミックスジュースをストローで吸いながらしげしげと観察した。ヒロイン役の記者と一緒に居酒屋で一杯やりながら事件のことを考えるその顔はどことなく水鳥がミーティングの時に見せる表情に似ていた。


 (そういえば、究君の出ているドラマ、まだ見てないのが結構あったっけ。見たことがあるのも、もう一度見たくなってきたな……)

 他のファンからしたら贅沢すぎることに、乙黒は生の水鳥を毎日目にし、ときには会話をすることさえある。それでも、カメラを通した時の水鳥と肉眼で見る水鳥にはそれぞれ微妙に異なる魅力があると心の奥のほんのわずかなところで感じていた。


 映画はクライマックスを迎えていた。モブの刑事たちが2人組の犯人を追いかける。薄汚れた男とその連れのスキンヘッドがおあつらえ向きに停めてある鍵付きの車に乗り込んだ。タイミングよく後ろから主人公の乗るパトカーがやってきた。無茶苦茶なドライビングで逃亡する犯人を一刑事とは思えないカースタントで追いかける。


 (もうそろそろ終わりかな)

 乙黒は背筋を伸ばしながらも不思議と画面から目を離さなかった。名優たちの熱演がいつの間にか彼女を惹きつけていた。


 パトカーが犯人たちを廃工場に追い込み、犯人たちは何とか撒こうと無茶苦茶な運転で車幅ぎりぎりの通路を抜けようとして――ドラム缶に衝突し、爆発した。

 刑事たちが慌てて車を降りて駆け寄る。爆風で吹っ飛んだ車には誰も乗っていなかった。代わりに血痕が地面にポタポタと垂れており、それは廃工場の中まで続いている。

 燃える車と血痕を交互に見る主役に相棒役が叫んだ。

 「こっちは俺に任せろ! 行け!」


 場面が変わった。廃工場の隅でスキンヘッドが腹から血を流し、うずくまっている。床に積もった埃には足跡と引きずった跡が残っている。

 「おいマサ、マサ! 死ぬな! おい!」

 薄汚れた男が必死に呼びかけるもスキンヘッドはかすかな息を漏らすだけで目を開きもせず……死んだ。

 「おい! おいいぃ!」


 刑事の顔がアップになり、血痕を辿っていく。くすんだ窓ガラスから差し込む光が淀んだ空気の中に浮かぶ塵を際立たせていた。鋭い眼光の彼が拳銃を片手に進んでいくと――。そこにはスキンヘッドの腹をガラスで裂いて、腸に入っていた白い粉入りの袋――「スイーツ」を一心不乱にむさぼる薄汚い男の姿があった。


 「うわっ」

 乙黒は思わず身を引いたが、その視線は不思議と画面から逸れることがなかった。


 肝心の部分はカメラワークで処理されていたが、薄汚い男が破れた袋に直接口を付けているだろうことは容易に想像できるものであった。

 (グロいけど……)

 彼女は自分自身でも予想していた通り、大して驚かなかった。結局いくら精巧に作っていてもそれは作り物であり、二次元であった。見知った人が、隣にいた人が死ぬ様を立体的に見せられるのと比べれば何ということでもなかった。


 エンドロールが流れたところで乙黒は再生を止めた。部屋に静けさが訪れる。タブレットの黒枠の中から一気に外側に視野が広がった。ガラス製のテーブル、肌触りの良い赤色のカーペット、白く滑らかな壁紙……、様々な家具が視界に入った。

 途端に乙黒は酸っぱいものがこみあげてくるのを感じた。急いでキッチンに向かおうと立ち上がりかけたところで我慢できず、床にまき散らした。


 (なんで……?)


 彼女は人の死体や死ぬ姿に多少の耐性ができていた。しかし、「透明な殺人鬼ゲーム」中に目にしているものと、映画の中で描かれた姿の違いに気づくことができていなかった。映画が終わりとともに脳が理解することがなくとも、体が勝手に反応してしまっていた。

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