第37話 帰するな(1)

 (読めない名前が結構あるわね)

 利原は革張りの椅子に足を組みながら座り、朝食後のグリーンスムージーを一口飲むとスマホを片手に「投票箱」の名簿を見ていた。

 (参加者の名前も結構読めなかったけれども、こっちはルビがあるから何とかなったのよね。でも、一番大事な人の名前はルビなしだから、ね)


 彼女は壁に掛けてある丸い鏡に耳元のイヤリングを映した。利原の考えていることを肯定するようにキラキラと輝いている。

 (意味が分からないし、犬猫と区別がつかない……、こういう名前は動物用って、あるでしょう? ……犬猫の名前の方がよっぽどまともよね)

 彼女は自分の中で、人間に付ける名前と動物に付ける名前にある種の線引きがあると考えていた。少なくとも自分の名前は人間用の名前であると考えていた。


 (その名前が生涯続くって考えないのかしら? ずっと赤ちゃんでいるわけないのに。親の所有物でもないし……)

 利原は中でも全く読み方の分からないものの一つ、中川の一番大事な人の名前、中川雪唄薇に目を付けた。

 (なんて読むのか見当もつかないわ。それに、仮にゆうび? ということにしても……)

 そして、試しにその名前がどう人生を送っていくのかと想像した。小学生のうちはともかく、中学、高校、大学生と進学して自己紹介するとき……。社会人になって名刺を渡すとき……、それ以前に入社するために履歴書を提出するときに……。


 「いや、え? まず、男? 女?」

 (まず子供とも限らないけれど……)

 少なくとも、中川の顔を多少幼くしても、どんなに幼くしても、「雪唄薇」の字面には違和感しかなかった。

 そして、その人物が人の親になったとき……中年になって白髪が混ざり、皺が増え、そして老いて……。

 (私には無理だし、私の子供にも付けられないわね)


 利原はスマホをテーブルに伏せると「ふぅ」と息を漏らした。

 (でも、こういう話、どこかでしようとすると意外とその家の子がこういうアレなのよね。それで、少しでも引っかかるといきなりふて腐れてホントめんどうくさいじゃない? だったら初めからそんな名前つけなければいいのに。人間、ハイになって視野が狭くなると怖いわね)


 室内には有名な香水のにおいがややきつめに漂っている。白い照明がまばゆく輝いており、雑音らしい雑音は全く発生していない。

 (キレるということは、自分で失敗したと思っているからよね。そうでないなら、自分たちとは関係ないのだからわざわざ突っかかってこないもの……)


 (一番かわいそうなのは子供よ。改名するには色々ややこしいみたいだし、そんなことしたら親に何をされるか分からないし……。どうしてこんな名前をつけるのかしら)

 漠然と理由を考える。特に意味があるわけではなく、ただの暇つぶしであったが――。

 「ふふっ」

 利原はあまりにも突拍子もない考えに思わず噴き出した。

 (読めないようにしているのって、閻魔様対策かもね。ほら、名前が読めないなら閻魔帳から探すこともできないかもしれないし。そうすれば裁きを受けなくても済むのかも。だからこういう名前が流行るのね。何をしても法で裁かれなければいいって考える人は、この手の名前の人が多くない?)


 当然利原は本気でそう思っているわけではない。そもそも利原にはアレな人が閻魔帳の存在を知っているとも思えず、仮に知っていたとしても信じているとは到底思えなかった。

 (でも、結局、浄玻璃の鏡があるから、過去の悪事は全部ばれるのよね。いくら名前をどうこうしても、その人の質は変わらないし)


 「バカバカし……」

 利原はそう呟くと再びスマホを手に取った。他にやろうと思えばできることはあるのだから、下らないことに時間を費やすのは無意味であった。

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