第36話 動け(1)

 柘植は椅子に座ったままベッド裏のホワイトボードに手を伸ばし、そこに描いてある組織図から君島の写真つきのマグネットを剥がした。そして、その顔に赤いペンでゆっくりとバツ印を加え、元あった位置よりも下に貼りつけた。

 「君島が死んだ」

 彼は少しの間俯いて目を閉じた。


 しかし、次に目を開けたときには普段と変わらない表情をとっていた。

 「今日の発表があった時点でほとんど決まっていた」

 彼はテーブルの上にあるペレットの紙袋に手を突っ込むと、数粒を掴んで口の中に入れた。隣に座る瑞葉も同じようにペレットを頬張った。2人は消耗した体力と気力を補うためにただ無言で紙袋の半分ほどを食べた。


 やがて空腹が一段落した柘植は指先をウェットティッシュで拭うとコップに手を伸ばし、静かに麦茶を飲んだ。瑞葉もまた柘植の真似をして同じようにコクコクと喉を動かしている。

 「今まで影山と君島に一方的に協力していたが、もはやその必要もなくなった。彼らの性格からして自分たち以外にこの話を伝えていなかった、と考えてよいと思う」

 彼は重々しく口を開いた。瑞葉を見ると、メモ帳にさらさらとペンを走らせている。覗いている柘植には一文字が書かれた時点で答えが分かっていたが、しかし、彼女がメモを見せてくるまで待っていた。そこには『賛成です』と書かれていた。


 「このグループの……次のリーダーは猪鹿倉だろう。これからは彼女と松葉たちから狙われる可能性がある。今はグループ間の潰し合いがメインだろうから、私たちに矛が向くことは少ないだろうが……」

 柘植が「私たち」と言った段で瑞葉が髪を軽く撫でた。

 「それでも、君島がいなくなったことの影響は大きい。理知的で話術に長け、人前でも動じない、何よりも……良心を持たない奴が音頭を取らないように抑制していた」

 眉をピクリと動かす。瑞葉は大きく頷いた。

 彼の視線がホワイトボードのある一点に冷たく向けられる。瑞葉も同じものを見た。

 「明日以降は今までのようにこのゲームが進むことはない。影山も君島もいなくなった。後の参加者にあの場を制御できる者はいない。……私にも無理だ、もちろん」

 柘植が最後に付け足した言葉に瑞葉はためらいがちに小さく頷いた。


 彼らはまた黙々とペレットを食べ始めた。自然な甘さと適度な塩気、それ自体に水分が含まれているようで、特別味付けをしなくても慣れれば十分満足する味であった。さらに1つのペレットには様々な硬さの粒子が入っており、噛み応えもまばらで、飽きずに口に入れることができる。しかし、2人とも次の袋を開こうとはしなかった。


 柘植は最後に麦茶を飲み干すと、「それで」と前置きをして瑞葉の方を向いた。

 「今日のニニィの発表は驚かされた。死んでいたのは君島ではなく、私たちだったかもしれない」

 彼は唇を結んだ。瑞葉も眉を下げながら『終わったと思いました』メモ帳に書いて見せた。


 「私もだ。幸運だった。公開されたのは現在の一番大事な人ではなく、ゲーム開始時点の人物だった。にもかかわらず、『現在の』とも、『ゲーム開始時点の』とも説明されなかった」

 柘植はジャケットの内ポケットに入っているICレコーダーを上から突いた。

 「ゲーム開始後にそれが変わりうると知っているのは私たちと、事前に知らせてある水鳥くらいだろう。仮に、水鳥に色気づいた誰かの一番大事な人が彼になったとしても、水鳥は秘密にさせるに違いない。そうしなければ死ぬ確率を大幅に高めるだけだ。だから、この事は表に出ないと思う」

 瑞葉は深く頷いた。黒髪が滑らかに垂れた。


 柘植がその事実の知られている範囲を3人に限定したのは、お互いに協力するようで騙し合うこの「透明な殺人鬼ゲーム」で誰かが誰かを一番大事な人と思うようになるはずがないと考えたからである。あり得るとすれば元々圧倒的な人気を持っていた水鳥の熱狂的なファンが彼の甘言に誘われた場合くらいである、柘植はそう判断していた。


 「つまり知らなければ、瑞葉の一番大事な人が私だと考えられることはまずなくなった。それでも、狙われる確率が下がったわけではない」

 2人の表情は決して明るくはなかった。


 「ところで」

 柘植は今一度隣の少女の瞳をじっと見つめた。

 「瑞葉。佐原絹江さんに心当たりはない?」

 瑞葉は首を横に振った。


 「そうか……。無理に思い出さなくてもいいんだ」

 彼はわざわざ口にしなかった。この人物の素性は少なくとも、このゲームから生きて脱出するためにはほとんど不要なことである。せいぜい悪名の有無を確認するくらいのものであるが、柘植の記憶にこの名前は存在していなかった。つまり報道されるような悪人でないことは確かであった。


 彼はそのまま少しの間、沈黙した。瑞葉がメモ帳の上にペンを走らせる。書き終わるとやや逡巡したようなわずかな間を空けて、それを柘植に見せた。

 『知りたいです』

 メモ帳にはそう書いてあった。柘植には彼女の瞳が光を帯びているように見えた。


 「分かった。佐原絹江に関する情報を集めよう」

 返事は速かった。結局、彼は瑞葉の意思を尊重した。

 「この名前は瑞葉の一番大事だった人の名前だ。強く刻まれた記憶の中に必ず存在するはずだから、過去を思い出す良い刺激になる」


 瑞葉は彼にぺったりとくっつきながら彼の顔を見つめた。柘植には何かを待っているように見えた。


 (瑞葉の記憶が戻ったとして、それで今の状態から変わったとしても、2人とも無事ならそれでいい。むしろ不意にそうなるよりは予め準備しているところで思い出してもらった方が安全だ)

 彼は自分の考えに致命的な欠陥がないか簡単に考えた。

 「瑞葉と同じ苗字だったらすでに調べたところからすぐ引用できるが、まあ、やり方は変わらない。これまで通り似た名前がないか探すところから始める。そこから瑞葉に関する何らかの記録に繋がれば、記憶を思い出す糸口となる」

 一瞬間を空けて、彼は話を続けた。

 「ただ、今はこのゲームの対策が最優先だ。特に明日は何が起こるのか分からない。そこを一旦過ぎてから進めよう」


 瑞葉は嬉しそうに微笑んで頷いた。そしてメモ帳に向かった。

 『つげさんが言うなら、そうします』

 それは彼女にとってごく当然のことといった顔つきであった。


 「何かわかるといいね」

 柘植が柔らかい声色で言うと、彼女は笑みを大きくして再びメモ帳に向かい、何かを素早く書いて、柘植に見せた。

 『能登竹緒さんは誰ですか?』

 瑞葉の瞳に桃色が浮かんだ。

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