第35話 動くな(1)

 北舛は広間の中央に立っていた。彼女には他の参加者――ニニィの指示通り集まった参加者の姿がぼやけているように見えていた。これから何が起こるのか分からないのに何故か温かい湯に浸かっているように感じている。その理由は、彼女の隣に水鳥がいるからであった。


 「優香ちゃん、ニニィは何を話すつもりだと思う?」

 水鳥の視線は北舛だけを優しく捉えている。スラリした立ち姿はサマになっており、どこからカメラで撮られても完璧であるように見えた。ぼーっと見とれていた北舛は「優香ちゃん?」と少し困ったように囁く水鳥の声で我に返った。


 「え?」

 「ニニィは何を話すつもりなんだろうね? 優香ちゃんは何か分かる、かな?」


 「うーん、分かんないよ……」

 尋ねられた北舛は眉根を下げると、水鳥と目をじっと合わせるようとしたが、すぐに頬を染めると目を逸らした。

 水鳥はその仕草に悪戯っぽい微笑みを返し、「大丈夫。僕もよく分からないんだ」とウィスパーボイスで告げた。


 「そうなんだ、えへへ……」

 分かりやすく頬を掻いた北舛はしまりのない笑顔を浮かべる。

 (よかったぁ。一緒なら怒られないもんね)


 それ以上会話が続くことはなかった。ただ隣に水鳥がいるというだけで北舛は全身に温かいものが流れていた。水鳥が他の誰かに話しかけないということも輪をかけて彼女を幸せにした。自分との沈黙をとても大切にしてくれているように彼女は感じていた。


 しかしその幸福も永遠には続かない。いつの間にかモニターが現れていた。北舛が顔を上げると、モニターの中のニニィはバインダーを片手に持っていた。分厚い紙束が挟まっている。ニニィはその数枚をめくると、原稿を読み上げた。

 「はい。今日はお集まりいただきありがとうございます。 誠に突然のことではございますが、本日の投票を持ちまして『透明な殺人鬼ゲーム』を終了することになりました。皆様におかれましては――」


 (えっ……、ええーっ!)

 北舛は声を出すこともできなかった。ニニィの言ったことを脳が受け入れることができない。しかし、つい先ほど聞こえた言葉は紛れもなく「本日の投票を持ちまして『透明な殺人鬼ゲーム』を終了することになりました」であった。

 彼女が前を向くと、そこには妙に反応の薄い他の参加者の姿が映っていた。


 (みんなも同じ? びっくりしすぎて何もできないんだよね?)

 左方にいる参加者も右方にいる参加者も棒立ちしている。小学生も老人も、男性も女性も皆一様にリアクションを取っていない。作業服を着ている人も学生服を着ている人もスーツを着ている人も……動かない。


 (あれ? どうしよう……)

 北舛は背を丸めて両腕を抱え込んだ。

 (どうしたら、いいのかな……)

 しかし、それはどうするべきかを自分で考えているわけではない。どうしたらよいか他人の指示を仰げないかと鈍く頭を動かしているだけに過ぎなかった。従って状況は何も変わらない。誰かがニニィに噛みつく声もざわめきも聞こえない。

 (どうしよ……)


 「優香ちゃん……」

 その状況から彼女を救ったのは彼女の期待通りの人物であった。北舛は胸がはね上がるのを感じ、水鳥の方を素早く振り向いた。声の主は満面の笑みを浮かべながらもどこか顔の表情に不自然な硬さがある。彼のものとは思えない何とも言えない違和感がどこかに浮かんでいるように北舛は思った。しかし、すぐにそんなことは気にならなくなった。


 「このゲームが終わった後、また……会えないかな?」


 「えっ?」

 北舛は目を丸くすると、再び起こった予想しようとしてもしきれない幸運な出来事を脳内で処理しようと試みた。


 「そうだ、今度撮影を見に来てよ。そのあと一緒にディナーなんて、どうかな?」


 (え、それって……、それって……!)

 さらに追い打ちをかけるように情報が加わる。北舛は今一度水鳥の顔を見た。冗談を言っているとは到底思えない。真剣そのものであった。


 「う、うん……」

 彼女は深く頷いた。既に頭の中にこのゲームが終わった後の光景が浮かんでいる。映画のメイキング映像で見たような大きなカメラやたくさんのスタッフがいる中で、彼が自分にだけ分かるよう微笑んでいる。光景は変わり、高層ビルの高級レストランの一等席に水鳥と座っている。赤ワインを楽しみながら煌びやかな夜景に包まれている。やがて水鳥が小箱を取り出したところで、北舛は我に返り意識を広間に戻した。照明が眩く目の焦点が合わない。


 (あ、あれ?)

 彼女は強く目をこすった。


 視界がだんだんとぼやけていく。あまりにも幸せすぎるからだろうと思いながらも目をこする。目の前にいる水鳥の姿が滲んでいく。北舛は自分に喝を入れようと瞳を閉じて、開いた。――そこはすでに見慣れたと言えるようになってしまった部屋の壁紙であった。


 「そうだよね……」

 彼女は静かに目を閉じた。しかし、一度目を覚ました彼女が再び眠りにつくことはできなかった。それほど深く充実した睡眠であった。つい先ほどまでの出来事は今になって思えば夢であることは明らかだった。


 (究君があんなことを言うわけ……ないよね。でも、でも、もしかしたら……)

 北舛は横になったまま背を伸ばすと掛布団をどかし、大きく伸びをした。それからスリッパを履いて洗面所へ向かった。

 (今日、ニニィの発表することって、いいことかもしれないよね。夢みたいに……。ゲームが終わるって話かも。それなら……)


 (『このゲームが終わった後、また……会えないかな?』)

 北舛は妙に鮮明な作り物の台詞を頭の中で繰り返した。洗面所に着いて鏡を見ると、そこにはしまりのない顔が映っていた。

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