第33話 祈るな(3)

 小野は昼食を終えた後、これといった予定もなかった。メンバーと話す約束もなく、やるべきことも思いつかず、彼は部屋をうろうろとしていたが、やがて足を止めた。

 (どうしよう……)

 次の一歩を踏み出すことができない。靴底が床に貼りついているように上半身は足を動かそうと傾くが、前に進むことはない。小野は迷った挙句、ポケットに手を突っ込んでスマホを取りだし、「カードキー」を使って広間へ向かった。


 そこには午前中と同じようにすでに参加者が何人か集まっていたが、その顔触れは違っていた。彼は急ぎ足で手近な壁際に向かうとそこで胡坐をかいて座り、「ふー」と息を漏らした。


 (どうしよう……)

 小野はその明るく比較的広い空間が自分にプレッシャーを与えているように感じた。彼はいくつかのポケットに手を入れては出してを繰り返し、最後に上着の右ポケットから一度しまったスマホを取りだした。それから緩慢に操作して数学の参考書を開いた。


 それは彼がこれまで使用していたデータと同一であった。その証拠に彼が加えたハイライトや注釈がすべて同じである。ほんの一瞬、小野はその場所が普段勉強をしていた教室のように錯覚してしまったが、すぐさま我に返り、前回開いたときの続きを読み始めた。

 (えっと……攪乱順列とは、整数1,2,3,…,nを要素とする順列においてi番目がiでない順列。その総数をモンモール数という……)

 小野はその字面を眺めてもいまいちピンと来ていない。その続きは次のようであった。


 『n=2のとき、攪乱順列は(2,1)の1通り。n=3のとき(2,3,1)、(3,1,2)の2通り、n=4のときは9通り――』


 (公式は……えっと……)

 彼は式をピンチアウトした。頭の中にはクエスチョンマークが浮かんでいる。

 (導出は……三項間漸化式を使う……。三項間漸化式?)

 読み物に数学の参考書を選んだのは、真面目に見えるように振舞っていれば投票先に選ばれることがないと無意識のうちに思ったからであった。つまり、特段数学が好きでも得意でもなかった。


 例題を頭の中で解こうとしても、途中式がだんだん虫食いのように消えていく。

 (ノートがあった方がよかったかな……)

 そもそも途中式を書き残すことができたとしても答えを導くことができるかはまた別問題である。方法が間違っているならいくら考えても答えが浮かぶはずはない。


 (……)

 小野は問題を解くことを早々に諦めた。そして、ページの右端に載せられているコラムに目を移した。

 (nが大きいときは……式をnの階乗で割ると、eの‐1乗で、約0.367。だから、くじ引きで席替えしても席の変わらない人のいる確率が約63%……。席替えの時に席が変わらない人が63%の確率で出てくる。これなら覚えられる)

 それは雑学の域を出ないし、数学の問題として出題されることはないが、分かった気になっていた。


 広間は時折ごく小さな物音がするばかりである。常に十分な換気がなされているにもかかわらず空調の音もなく、外部から風の音や小鳥のさえずりが聞こえることもない。


 (ここで投票されるのかされないのか。それも……確率の問題……。運次第……)

 小野はスマホから目を放すと天井を見つめた。眩しすぎない程度に照明が光っている。あと数時間もすればそこにモニターが現れて、すぐに誰かが死ぬ。

 (善いことをしていれば助かって、悪いことをしていれば裁かれるわけじゃない……。そういうときもあったけれども……。でも、多分、ほとんどの人は何もしていなかったし、目立ってもいなかった……)


 ぼんやりと天井を見続けていると、フリースペースから靴と床が擦れる音がした。小野は慌てて参考書に視線を向け直し、数ページ前に戻って、基礎的な内容から読み直すことにした。



 それから小野は参考書に集中していたが、しばらくするとリズミカルで軽快な足音が聞こえ始めた。音のする方に目をやると、それは彼の予想通り長堂がトレーニングをしている音であった。

 (僕も少し動いた方がいいのかな?)


 フリースペースの広さを存分に生かして長堂は伸び伸びと体を動かし、サッカーボールを手で持っているかのように自由自在にコントロールしている。相手選手の代わりに置かれているらしいポールを器用に避けて、避けて、とどめにゴールネット目掛けてボールを蹴り込んだ。ボールはコーナーぎりぎりをに入っていった。長堂は胸を逸らしながら元いた位置に戻り、別のボールを取り出して同じ動きを練習し始めた。


 (このゲームが終わったら全部元に戻る……んだよね? だから体力を付けても意味がないと思うけれど……。でも、体を動かせば少しは気が楽になるのかな? それならルームランナーで十分だと思うけど……。確か袴田さんもそうしているって言っていたし……)

 小野は両肩を動かした。パキリと左肩の関節が鳴る。確かに少しなまっている、と彼は思った。


 (目立ちたくないし……)

 長堂は小休憩を入れており、汗を拭いてからスポーツドリンクの入ったボトルに口をつけている。その動きは中継動画で見るようなサマになるものであった。

 (それにしても……すごい)

 未だに長堂を見ている小野の首筋には鳥肌が立っていた。

 (それほどサッカーに詳しくないけど、一つ一つの動きにキレがあって正確だ。同じ動きを同じ速度で……。レールがあるみたいだ)


 彼がぼんやりと長堂の動きに見とれていると、ふと彼女と目が合いそうになった。小野は慌てて目を逸らし、代わりに広間の共用スペースを見た。他の参加者はそれぞれの活動に集中している。長堂の方を向いている者はいなかった。

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