第32話 頼れ(3)

 時田の部屋では連日の飲み会が開かれており、焼き肉の香ばしい煙や酒のにおい、煙草の臭いが充満している。飲み会の参加者は幾つかのテーブルに分かれて座っており、壁際に設けられたステージで行われているパフォーマンスを見たり、同席者と話したり、生ビールを飲んだりと楽しんでいる。煙のせいで部屋はどことなく薄暗く、視界もぼやけているようで、二軒目に行く大衆酒場のようであった。

 そうやって彼らは死の恐怖から逃げていた。


 「いやぁ、今日は日本語だったか!」

 赤ら顔の中川が悔しそうに笑った。


 「予想外っすね」

 畚野がすぐに相槌を打った。中川はそれに満足するとビールをごくりと飲んだ。


 「あれだろ、昨日は俺らの誰も分からない言葉だったじゃねぇか。そうすっと今日もそういうのだと思ったんだけどなぁ」

 ジョッキの持ち手を握ったまま、中川は大声でぶつぶつと呟いた。


 「よく分からないっすよね。ニニィが何を考えているのか」

 畚野は笑顔でねぎまを1串掴むとかぶりついた。ネギと鶏肉の味が絶妙に組み合わさっており、炭火の香りと粗塩の甘みがそれらをグッと引き立てている。中川も同じく1串取ろうとして、手が止まった。


 「あれ、今日ニニィが日本語で話すって予想していたのって……あっ、出澤さんじゃね? ちょっと出澤さん! 出澤さん!」

 彼の意識は未だ先の件にあった。1つテーブルを跨いでいるだけの出澤を中川は叫んで呼ぶと「こっち、こっち!」と用件を伝えずに手招きした。


 「中川さぁん、何ですか?」

 出澤がジョッキを持ったまま狭いスペースを千鳥足ですり抜けていく。そうして、中川たちのテーブルの開いている席にストンと座った。


 「出澤さん昨日ほら! みんなで予想したじゃねえか! 今日ニニィが何語を使うかって」

 早速中川が笑いながら出澤の肩を叩いた。お互いに酔っぱらっているから力加減もあやふやであるし、痛覚も鈍っている。出澤の持つビールがこぼれそうになっているが、ギリギリでジョッキの中に納まっている。


 「あぁー、そうでしたねぇ」

 フラフラと出澤が揺れて、ついに首が落ちそうになったところで中川の攻撃は納まった。


 「出澤さんだよな! 日本語使うって当てたの!」

 「あれ? そうでしたっけ?」

 出澤は酒臭い息を吐きながら笑った。


 「そうだって! なあ、畚野?」

 中川もまた酔っているから、確実な自信を持つことができない。第三者の意見を尋ねると、「っすね」と返事が返ってきた。


 「そっかぁー。いやー偶然ですよ、偶然!」

 出澤は大袈裟に片手を振ると、もう片方の手に持ったジョッキを口元に運んだ。


 「おぉい!」

 やおら中川が立ち上がると声を張った。がやついたリビングが段階的に静かになる。

 「昨日な、明日ニニィが使う言葉を予想したんだけどよぉ、出澤さんが当てたんだ! 日本語、ってな!」

 彼は仰々しく手を上に掲げると拍手をした。周りも合わせて拍手をした。出澤は笑いながら頭を掻いている。彼らは盛り上がれれば何でもよかった。


 (ここで『中川さんの予想は何でしたっけ?』聞くと長くなるだろうな)

 畚野は周りと一緒に手を叩きながら、昨日の会話を思い出した。


 中川が、ニニィが今日使うと予想していた言葉はタガログ語であった。彼の知っている外国語はそれだけである。中学校の英語でさえ危うい彼が何故知っているのかといえば、昔フィリピンパブのとある嬢にお熱になって、簡単な言葉を覚えたからであった。昨日畚野はその出会いから最後までを延々と聞かされていた。

 (確か、話のオチは『で、あと一歩ってところでよ、女は他の野郎と一緒に消えちまってなぁ』だったっけ。後腐れがない風でも大分根に持っているっぽい感じが何と言うか……)


 「何だよぉ、そんなことしてたんなら教えろよ!」

 時田が冗談交じりにヤジを飛ばすと、中川が軽く受け止める。

 「おっし、次は全員でやるかぁ! 明日! また外国語使い始めたら、な!」

 「約束な! 約束!」


 (見た目によらないというか、見た目通りというか……)

 畚野は知っている。この手の人物は一見カラッとしているようで、実際は延々と湿ってへばりついてくる。


 「よぉし、じゃあ、森本! 出澤さんが盛り上げたこの感じに乗って一発、何かやれよ!」

 時田が脈絡なく言うと、中川が「いいなぁ! 行けよぉ!」と追い打ちをかけた。森本はすぐに席を立つと、ステージに上り、きょろきょろと見渡して、視線を奥の壁紙に向けた。

 「えー、小ネタ。橋本先生に言われた理不尽な言葉シリーズ」


 「なんだよそれぇ!」

 いきなり始まった漫談に時田がヤジを入れるが、森本はやや甲高い声で「その1」と言った。

 「『森本クン、口を開けたまま話さないように!』。腹話術かよ!」


 ざわついた笑いが起こった。大爆笑ではなく、1人のツボに入ったのでもなく、全員から平均的に反応を得るものだ。


 「その2。『森本クン、ちゃんと鍵をかけたのか、もう一回鍵をかけて確認しなさい!』そしたら開くよね?」


 橋本先生と森本が呼ぶ人物の軽い理不尽っぷりにメンバーは笑いを漏らしてしまう。大人は酔っている分、無表情を装いにくい。


 「その3。『森本クン、教室の扉を手で閉めないでください!』手本見せてよ。……超能力?」


 (確かにどうすんだって話だな)

 畚野は笑いながら、実際にどうやるのか想像しようとしたが、思いつかなかった。

 (現場でこんなこと言っていたら仕事にならない。大学入って公務員になればこんな馬鹿でも飯食っていけるのか……)


 現場なら無能は無能と評価される以外にない。結果がすべてである。そうでなくても、対等な立場なら相手にしないで終わらせられるだろうが、森本は小学生、橋本は教員、絶対的な力関係がある。だから森本には「きをつけます」と棒読みしてその場を流すこと以外できないのであった。

 最も、彼のクラスメイトが一度正論で反論したときに、件の橋本女史はわめき声をあげて手元の地球儀を床に叩きつけ、教室を飛び出していったのだが。


 「以上です!」

 森本は言い切ってステージ上から降りようと前に一歩踏み出したが、時田が「もう終わりかぉ!」と膝を叩いて音を出した。

 「アハハ……。次回ってことでお願いします……」

 愛想笑いを浮かべてお辞儀をし、森本はそこから逃れた。時田にはそれが効果的であると彼はこの十数日で学んでいた。


 「よーっし、次は誰かいるかぁ?」

 時田が次の道化を募る。すぐさま自分から名乗り出る者はいない。

 「じゃ竹崎、お前なんかやってみろよ!」


 「っす」

 指名された竹崎は立ち上がると、壁際を通って台に向かった。

 (こういうとき、浜崎クンや颯真クンがいると助かったんだよね……)

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