第31話 頼るな(2)
柘植が朝起きてからおよそ30分後、いつものように瑞葉からの入室申請があり、彼が承諾すると、すぐさまリビングに瑞葉が現れた。
彼女は留紺色のだぼついたワンピースを腕まくりやら折って吊るしてやらを駆使して、それをベルトとサスペンダーで固定して、小柄な自分に合うようにあつらえている。瑞葉が柘植の方を振り向くとセミロングの黒髪が遅れてサラサラと流れた。
「おはよう」
柘植がそう言うと瑞葉はにっこりと笑い、首からぶら下げているハーモニカを咥えて「プー」と音を出した。
「瑞葉、今日は普通の朝食にしよう。それでいい?」
柘植の問いかけに瑞葉はコクコクと頷いた。
柘植は「ににぉろふ」を立ち上げると、スマホに向かって「ご飯、目玉焼き、サケの切り身、サラダ、味噌汁、2人前」と言った。次の瞬間、テーブルの上に出来立ての料理が実に美味しそうな香りを伴って現れた。品書きこそ柘植の言った「普通」であるが、その味は決して普通ではない。このクオリティのものを毎朝食べることができる人はそういない。
彼らは食卓につくと「いただきます」と手を合わせて、食事を始めた。柘植はレタスとキュウリのサラダを真っ先に選んで口に入れた。瑞々しく気持ちの良い食感が頭をさっぱりとさせて、夏の味が体に染み渡る。
(昨日ニニィは、これから日本語を使うと言っていた……。そもそも何故ゲーム前後だけ外国語を使い始めたのか……。『ににぅらぐ』の応答は日本語だったのに)
柘植が瑞葉を見ると、彼女は同じくサラダに手を付けていた。視線に気づいたのか、瑞葉は柘植を見た。
「美味しい?」
柘植がそう尋ねると、瑞葉は頷いてからまた柘植を見続けた。
「私もだよ」
瑞葉は気持ちよさそうに目を細めた。意思が伝わって、食べる順番が同じで、更に好みが同じことが大事なのだろう。
続いて柘植は焼き鮭の身に醤油を垂らし、箸で切ると白米の上に乗せ、まとめて頬張った。あっさりとした鮭の旨味を醤油がきちんと引き立てて、米の甘みがそれらを上手く包み込む。
(目的は分からない。このゲームを行う上でどういった意味があるのだろうか。もしかしたら、10日目の失敗と何か関連があるのだろうか)
量に加減を加えれば、また微妙に異なった味になるが、それもまた格別だ。
(意味はないと考えるのが妥当だろう。結局、外国語で話した内容に攻略の鍵はなかった)
彼はこれからどう立ち回るべきだろうかと考えるが、しかし、考えて分かるものではない。結局その場その場で臨機応変にやっていくしかない。柘植はサケの骨と皮を食べながら代わりに別のことに意識を向けた。
(それから、瑞葉の記憶喪失だ。幸い本人は思い出しても思い出さなくてもどちらでもよいと言っているから、そのままにしておくのも手の一つだが)
硬めの半熟の黄身を箸で突き、そこに醤油を少し垂らす。それから箸で掴んでかぶりつく。黄身がトロリと口に流れ込み、弾力のある白身が舌の上に乗る。醤油はもちろん白身の焦げも味に深みを与えている。
(何かのきっかけで戻るのであれば、ここで、時間のあるときに戻ってほしい。話し合いの最中に起こったらどうなるのか想像もしたくない)
彼は瑞葉と目が合った。彼女はニコリと笑うと、半分になった目玉焼きを口に運んだ。柘植は微笑み返した。
(参加者の情報は概ね集まっている。流石に情報媒体に載っていないものは知りようがない。今なら多少だが時間を設けることができる。また何か起こらないうちに調べておくのも手かもしれない)
(ただ、思い出してしまえば、恐らく瑞葉の一番大事な人は私でなくなる。だから、お互い一緒にいる理由はなくなる)
今朝のみそ汁は大根と油揚げのシンプルなものであった。優しい味という言葉がまさに当てはまる、体をほっこりさせる甘みと旨みの混ざり合った味であった。
(しかし、私も瑞葉もこのポジションに収まっている以上、そうなってからどこかのグループに入るのは……難しい)
(そうなると今まで通り協力していく必要があるが、問題は記憶を取り戻した瑞葉がそれを冷静に理解して受け入れることができるかどうかだ。現状そうするほかなく、そうすればお互いに得をする。思考の整理や確認ができて、何となく不可侵のような地位があって、一人では思いつかない考えも得ることができる。それから、精神的に楽、かもしれないが……)
(今の瑞葉ではなく元々の瑞葉はどう考えるだろうか? 何にしても広間に出る時だけでも今まで通りにしてもらいたいものだが……)
そうやって考えているうちに柘植は食事を終えた。
彼は「コーヒー2杯」とスマホに向かって呼びかけた。あっという間に食後の食卓に深く落ち着きのある香りが漂い始めた。
カップを手に取って口に運ぶと、心地よい苦みと風味が脳を一層効率よく回転させる。柘植はその味をじっくりと楽しんでいく。瑞葉も同じように飲んでいる。2人はその短い時間を静かに味わった。
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