第5話 深夜の資料室
ファウスト博士が勤務するアゾト工場「技術開発研究所」は、アゾト工場の技術・研究部を独立させ改組したものである。
アゾト工場は、起業貴族ハイデク男爵が国王の特許を受けて興した企業体だ。国王の他、ハイデク男爵と数人の貴族が出資をしている。この工場では、主に農業用肥料「アゾト」を生産・販売していた。
講演の後、付き添いの助手を先に帰宅させたファウスト博士は、夜の川辺でひとり感慨深げに対岸を眺めていた。
「ふう。ようやく明日から、アゾトの改良に取りかかることができそうだな」
対岸に見える光景に翡翠色の瞳を細めて、彼はひとりそう呟いた。
その視線の先には、アゾト工場。
夜空に向かって聳え立つ高い煙突と、それを囲むように配置された縦長の円筒形をしたタンク。それらが、無数の太い導管や細い導管で繋がれている。
大きな高い塔を囲むように背の低い塔が林立している。その様は、まるで鋼鉄の外壁を持つ城のよう。全体が魔導灯に照らされて、赤銅色に輝いている。
下の方は、時折、排気口から噴き出す蒸気で薄く霞がかっていた。
ファウスト博士は、合計八〇〇匹あまりの猫を使い「ダンシングキャット・シンドローム」の原因究明をおこなった。ネコたちに様々なエサを与えてデータを取った。
そして「ダンシングキャット・シンドローム」を発症したネコ400号。屠殺解剖をおこなった結果、「アゾト」工場から出る排水に含まれた有害物質が原因であると判明した。
その因果経過はこうだ。まず、川や海に放出された有害物質を含む工場排水が魚介類に蓄積される。その魚介類を食べたネコが、有害物質によって大脳や小脳の中枢部分を侵されていたのだった。
ファウスト博士は直ちに適切な処置を講じるよう、アゾト工場の責任者であるハイデク男爵に訴えた。
しかし、彼の主張はハイデク男爵をはじめとする経営陣に揉み消されてしまう。あろうことか、ネコ400号は衰弱死したと扱われることになった。
そればかりか「ダンシングキャット・シンドローム」については、ネコ実験を含む新たな研究をしないこと、ネコ実験を直ちに中止すること、工場廃液の採取を行わないことを彼らから言い渡された。
そして、ついに人間の発症者が出てしまった。
彼は、この件がきっかけとなり、いったん辞職した。しかし、このまま無辜の民に生じた被害を眺めているワケにはいかない。そしてこれ以上、恐ろしい病気が広がっていく光景を放っておくことはできなかった。
彼は技術研究部から持ち出した資料・データをもとに、さらに丹念に検証し研究結果をまとめた。そして研究結果をまとめた書類を添えて、処罰を覚悟のうえでオルトナ国王エマホテフに直訴した。
ファウスト博士の研究結果を重く見た国王エマホテフは、内務大臣ユレンに調査を命じた。
国王の命令により、直ちに調査が開始された。
結果、アゾト工場周辺地域の住民に「ダンシングキャット・シンドローム」の発症者が増加傾向にあること、周辺でとれた魚介類をよく食べていた者ほど発症者が多いことなどが報告された。
この報告を受けた国王エマホテフは、発症者に対して無償で治療を行うこと、被害拡大を防止するため直ちに対策を講じることなどをハイデク男爵に厳命する。
その命令には、ファウスト博士を再度アゾト工場の技術研究部に呼び戻すことも添えられた。
こうして「ダンシングキャット・シンドローム」は、被害が拡大する前に食い止められたのである。
また、アゾトの改良に加え、工場から有害物質を排出しないように国王の発案で独立した研究機関が設立された。これが「技術開発研究所」だ。
そして初代所長には、ファウスト博士が就任した。
いつの間にか、辺りがすっかり暗くなってしまったことに気が付いたファウスト博士。魔導灯の明かりを頼りに自宅の方へ歩き出した。
翌朝、ファウスト博士は金色の朝陽を浴びながら「技術開発研究所」内の研究棟へ向かう。研究棟の入り口で、首からかけている認識票を警備員に見せて研究棟へ入る。
研究棟は三階建てである。ファウスト博士の研究室は最上階にある。最上階にある研究室のうち最も広い部屋が、彼にあてがわれていた。
彼の研究室には部屋の一番奥に彼の机が置かれ、その前に助手の机が向かい合わせで二つ並んでいる。壁を背にして設置された本棚や収納棚には、たくさんの書物や標本が所狭しと並べられていた。
研究室の入り口からみてファウスト博士の机の左側には、ソファーがふたつローテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている。
ファウスト博士は几帳面な性格である。机の上に書物を広げっぱなしにすることはほとんどない。さらに助手達が整理整頓をしているので、部屋のなかはいつも整然としている。
「おはよう」
「「おはようございます」」
朝、いつもの決まった時間に現れたファウスト博士は、すでに机について資料に目を通していた助手たちに挨拶をした。
ふたりの助手も立ち上がって、彼に挨拶する。
ファウスト博士は、自分の机につくと鞄から資料を取り出した。
コン、コン。
研究室の扉をノックする音がした。
助手たちが顔を上げてファウスト博士の方を見る。ファウスト博士が頷くと、助手のひとりが扉の方へ向かって返事をした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
研究員のひとりが、ファウスト博士の研究室に入ってきた。
「おはようございます、博士。じつは昨日の事なのですが……」
ファウスト博士は、昨日起きた事件の報告を受けた。
飼育施設の扉が破壊され、実験用のネコがすべて解放されていたこと。研究員総出でネコを捕獲したこと。そのさい二名の研究員が事故に見舞われたことなどだ。
現在は、まだ捕獲できていない残りのネコを捜索しているという。
「飼育施設の扉が破壊された!? 一体どうやって?」
ファウスト博士は、怪訝な表情で研究員に尋ねた。
「判りません。カウフマン博士も首を傾げておられました」
「カウフマンは?」
「本日は、お休みです」
「……そうだったな。残りのネコを捕獲したら、また報告してくれ」
「はい」
研究員はそう言うと、研究室を出て行った。
椅子に座ったまま研究員が出て行くのを見送っていたファウスト博士は、ふたりの助手達に視線を移した。
「では、アゾトの改良について検討を始めようか」
「「はい」」
アゾトは様々な原料を使って合成する肥料である。従来のモノよりも農作物の生産性を高めるための研究が、日々行われている。
どのような原料を使い、どのような比率で原料を配合するか、肥料生成時に出る副産物は何か、人体に有害性は無いか……。データを基に様々な方向から検討する。
ファウスト博士と助手たちの議論は、夜まで続いた。
「今日は、ここまでにしようか。明日は、カウフマンの意見も聞くことにしよう。君たちは、もう帰りなさい。私は、まだ少し調べたいことがある」
区切りのいいところを見計らって、ファウスト博士は助手たちに帰宅を促した。ふたりはファウスト博士の言葉に頷くと、帰り支度を始めた。
「お疲れさまでした」
「また明日。博士もお気をつけて」
「ああ、ご苦労様。気を付けて帰りなさい」
帰り支度を終えた助手たちは、ファウスト博士に挨拶をして研究室を出て行った。
彼らを見送ったファウスト博士は、難しい顔をして再び手元の資料に視線を落とした。
様々な資料と格闘しながら、ああでもない、こうでもないと思索する。ときどき頭を抱えたり、立ち上がって窓から夜空を眺めたりした。
「……資料室へ行ってみるか」
すっかり夜も更けていた。
資料とにらめっこをしていた彼は、顎を撫でながらそう呟いた。
資料室に向かうため、研究室を後にしたファウスト博士。カツーン、カツーンと研究棟の薄暗い廊下に、彼の足音だけが響いている。
「うん?」
ファウスト博士は立ち止まった。廊下の先にある資料室の扉が開いている。
まだ研究員の誰かが残っているのだろうか。それとも誰かが扉を閉め忘れたのだろうか。
彼は首を傾げて、また資料室へ向かって歩き始めた。
資料室の前に立ち、部屋の様子を覗うファウスト博士。
資料室の明かりは、ついていない。窓から月明かりが差し込んでいる。
ファウスト博士が資料室へ入っていくと、部屋の奥の方に男が立っていた。男は、ネコの標本をじっと見つめている。
ファウスト博士は立ち止まり、彼を凝視した。
「カウフマン? 来ていたのか?」
今日は休みだった筈のカウフマンが、そこに立っていた。
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