第10話
——よく耐えた
不意に聞きなれた声が脳内に響いた。瞬間、これから何が起きるかを予感し、俺は思わず叫んだ。
「……来る……な」
まだ整わない呼吸が言葉を乱す。それでも俺は言わなければならなかった。
余裕のない俺を見て男は愉快そうに体を揺らした。
「今さら命乞いなんて無駄だよ」
そうではない、と言う余裕すらない。俺の意識はすでに目の前の男から頭に響く声へと移り変わっていた。この場で俺が犠牲になったとしても、かつて俺が果たせなかったことを皇が成すなら文句は無い、だが——
俺は無理やりに体を起こし、必死で叫んだ。
「——来るな星影!」
それは天を突き破る咆哮にかき消された。
この世に生きるものとは思えないほどの恐ろしい轟音。さらに強烈な風が吹きつけ、大地までもが音につられるように大きく揺れた。
「なんだ⁉」
余裕のない驚き声が起こる。一際大きな地鳴りと共に、目の前に何かが飛来した。見たくない、という思いを伏せて顔を上げると眼前に年老いた巨影が現れ、強烈な後悔を運び来る。
俺の倍を超える高さはある大きな体と、それに見劣りしない圧を放つ翼。闇に溶け込むような、いや闇さえも吸い込んでしまいそうな黒い全身を覆う鱗。両手足から伸びた爪は恐ろしく鋭く、金色の眼は見る者をおびえさせる力強さがあった。
倭の守護竜、星影は十年の時を経て再び地上に舞い降りた。
「おいおい、まさか……こんなことってあるのかよ」
上ずった声が聞こえた。逃げ出す気はないようで、そしてどこか様子がおかしい。いや、初めからどこか変わった奴だとは思っていたが今は自分を抱きしめるように震えている。
「最高だ‼ 朝桜に最上に星影! まるで十年前みたいだ‼」
そう叫ぶや否や剣を抜き放ち、男はかつてない速度で地を蹴った。
嬉々とした眼に灯るのは異様な光。それに類する幾何学模様を首筋に浮かびあがらせた男は、守護竜を狩りとらんとばかりに剣を叩きつけた。
漆黒の爪と刃が弾きあい、甲高い音を街に響かせた。一方的に跳ね返されたのは九条の男。だが数メートルほど後退しても器用に着地し、再び襲い掛かってくる。何度払われようが驚異的な身体能力で獣のように食らいつく。
互角であった。
かつて伝説とまで謳われた守護竜は、今や一人の意魂使いと互角の勝負を繰り広げるまでに落ちていた。超常の力によって人類が何段階も進歩したことは確かだが、苦し気なその姿が強く俺の胸を打つ。そして、それを眺めることしかできない自分に無性に腹が立った。
何度目かの攻防を経た時、俺はようやく先ほどの衝撃から逃れ、立ち上がることができた。ぎこちなく足を動かし、一度九条と距離を取った星影の背にまたがる。俺の倍以上ある体をよじ登り、そっと告げた。
「飛んでくれ」
その言葉を待っていたと言わんばかりに星影は咆哮を響かせた。大きな翼がばさりと広げられ、力強くはためいた。圧倒的な浮力に漆黒の巨体が上昇する。
ここで戦わずとも、外にさえ出られればこちらの勝ちである。
その時、視界の左端で小さな光が見えた。
それに気づいた瞬間、星影の体が揺れた。同時に、しがみつく俺のところに青い液体が飛来した。何事かと前を覗き込み、俺は息を詰めた。
「——星影!」
左目の瞼が閉じられ、そこから痛々しい青い血が滴り落ちていた。かすかなうめき声がその口から洩れた。黒竜にとっては痛みよりも驚きのほうが大きいように見える。
再びの閃光。
翼から青い血が飛んだ。俺はすぐさま光の見えた方向に振り向いた。壁から遠く離れたところに雲台の管理棟が見える。見せつけるように刻まれた桔梗の上にかすかに人影があるような気がした。
目を疑うが、その位置からの狙撃しか今の攻撃は説明できない。しかし、桁違いの威力と射程、そしてその正確さ。衛兵どもがぶら下げている銃なんてまともに狙いが定まらないというのに、肉眼で人影が霞むほどの距離をこの暗闇で打ち抜くなど——
「おい! 邪魔すんじゃねえよ‼」
九条の男は味方であるはずの狙撃者に対して怒鳴った。
しかし、その叫びなど意に介さぬように再びの閃光。今度は迎撃の爪に弾かれ、流れた銃弾は堅固であるはずの壁にめり込んだ。見慣れない白い弾丸が目に留まったが今はそれどころではない。
獲物を横取りされると思っているのか、防御を捨てたように男の攻撃は苛烈さを増した。巨体の下にもぐり、死角に逃れ執拗にまとわりつく。それに応じて星影の体にも無数の傷がつき始めた。遠距離狙撃に注意を割きながらの戦闘で、星影は飛び立時期を完全に失っていた。
安全な竜の背で俺は拳を握り締めた。
なぜ星影が傷ついていくのか。
自明だ。俺が逃げ続け、そして不用意に首を突っ込んだからだ。十年間戦わなかったくせに皇の言葉でいい気になって出しゃばった。そしてその罪は、守護竜が俺の代わりに払っている。俺は犯しただけ。
最悪だ。
何一つ変わっていないではないか。首斬りを助け、少女の願いを聞き、皇をも逃がそうとした。その代償に星影を失っていては意味がない。俺が命を懸けなければならないのだ。
それでいいのか?
重たく粘りまとわりつく問いに、魂が熱く燃える。
いいわけないだろ
父は、逃げることは悪くない、と俺に言った。辛いことや苦しいことから逃げていいんだと。俺はその教えがあったからこそ今まで無事に生きてこられたのかもしれない。
逃げた先に救いがあるというのは、完全な偽りだ。逃げた人間は、いつまでたっても逃げた負い目を感じて生きる。ことあるごとに思い出し、自分は逃げたのだろ痛感させられる。
ふと、天命のように光が体を駆け抜けた。
俺はようやく、この言葉の続きを思い出した。
「逃げることは悪くない。ただ、いつかは向き合わなければならない。逃げるというのは所詮、時間稼ぎでしかないんだ」
決してやさしいとは言えない、何かを嚙み潰すような表情で告げる父。どうして俺は今まで忘れていたのだろうか。なぜ逃げることが正解だと信じ切っていたのだろうか。
この街の、この国の人々を見ればわかるじゃないか。彼らは逃げずに向き合って、そして拷問のように降りかかる自責に耐えられなくなった。戦っても抗っても変わることのない地獄に負けた。その結果として、屍のように死んだ目をしている。
だがその敗北は、決して軽んじられるものじゃない。意志を全うした崇高なものとさえ言える。
それに比べて俺はどうだ? 逃げ続け、星影に守られてここまで生きながらえた。幽鬼が告げる指示に疑いなく従い続けてきた。それが最善であり正しいことだと思い込んできた。
自らの意志を貫き、死人のように虚ろと化した彼らを笑う資格は、俺には無い。俺は彼らと同じ土俵にすら立っていなかったのだ。
——お前には生きてほしかった
いつになく近くで声がする。触れた星影の背から直接言葉が響いた。
——わしが悪いのだ
違うと、俺は首を振る。
星影は父と交わした約束を全うしていただけだ。こうなってしまったのは、それを甘んじて受け入れ、黙って従い続けた俺の責任である。そのつけは、必ず俺が払わなければならない。
——その必要はない
あくまで俺を庇う竜の背を優しくなでる。
確かに、俺に意志は無かった。十年前の日を境に自ら選択することを拒んだ。それは星影のせいではなく、俺が臆病だったからだ。何かを為すことが、自分で何かを決めることが怖かったのだ。
だが、
いつまでそうしているつもりだ?
何度も押しつぶされてきた闘争心が、ついに日の目を見る。未だくすぶる俺に発破をかける。魂が熱く燃え上がる。心の殻にひびが入る。
ずっと怯えて生きていくのか?
違う
意志を隠し続けるのか?
違う
また、逃げ出すのか?
違う
いつまでそうしているつもりだ?
今、ここで、終わりにする。
星影の言葉に守られた心が、殻を破る。
俺はもう、逃げない。
その瞬間、体の奥底から不思議な力があふれ出した。同時に右眼の下に強烈な熱を感じる。まるでこれまでの戦いが無かったかのように気力がわき、体が恐ろしいほど軽くなった。視線を上げると希薄なはずの街が心なしかいつもより景色が色づいて見える。
俺は左手に剣を構えると、星影の背で静かに構えた。痛みは消えなくとも充分に踏ん張れる。片手であっても剣は振れる。心は熱く燃やされる。
俺はまだ、戦える。
「これで、終わりだ!」
九条が竜の動きを止めようと飛びかかった瞬間を見計らい、俺は渾身の力で踏み切った。
勝負は一瞬。
竜の体を揺らすほどの衝撃を残して俺は一筋の光のように空中へ飛び出した。誰も、味方である星影でさえ予期していない攻撃。勝利を見ていた奴の顔が驚愕に染まった。
「——最上レイ!」
「落ちろ‼」
空中で避けられない男に俺は一直線で突っ込んだ。自分でもまさかこのような場面で、暇つぶしに鍛えた両利きを発揮するとは思ってもみなかった。流れるような斬撃は奴が滑り込ませてきた剣を押さえつけ、そのまま通路の外へと押し出した。
もみ合った二人は風を切って真っ逆さまに落ちていく。かすかな閃光が端に映り、足に強烈な痛みが走るが関係ない。すでに俺たちは宙に身を投げ出している。
「星影!」
強烈な憎しみを込めて睨む敵を振りほどき俺は叫んだ。瞬時に重圧がかかり、うって変わって体が上昇する。一人地に落ち行く男は聞き取れない何かを叫んでいたが、星影はそれにかまわず、狙撃に対処しながら上を目指した。
力強い羽ばたきと共に突風が顔に吹き付ける。あと少し昇れば壁を越えられる。長らく俺たちを封じ込めた壁の先を望める。俺はわずかに、油断した。
「穿て、炎槍!」
背後、と言うより下から九条の怒鳴り声がはっきりと聞こえ、それと共に赤い光が迸った。俺は完全に忘れていた。逃走の最中に見た恐ろしい力を。
「避けろ!」
それを思い出した瞬間に叫んでいたが、わずかに遅かった。下方から強烈な光を伴った炎が一直線に噴き昇り、身を捩って躱す星影の右半身をとらえた。
これまでで最大の咆哮が轟いた。灼熱の炎で黒竜の右腕と右足は焼き切れ、おぞましい臭いが漂う。それでも動きを止めず、竜は間一髪生き残った翼をはためかせ上昇した。
狙撃は尚も追いすがるがもはや関係ない。伝説の守護竜と俺は一直線に上昇すると、絶対を誇る高い高い壁を、越えた。
——お前は生きろ
「——星影?」
俺の問いに返事は無かった。あるのは壮絶な風切り音と狙撃された足の焼けるような痛み。しかし、それらもふと顔を上げた時には忘れ去っていた。
「これは……」
宝石のような輝きが視界を埋め尽くしていた。先ほどまでの闇はどこへやら、夜であるはずなのに眩しいとさえ思った。
満天の星空であった。
花が咲き乱れるように色とりどりの星が煌めき、夜空を彩る。天を覆うほどにあふれた星は、点と点を結ぶことが困難なほどだった。俺は、ただ素直に美しいと思った。
十年ぶりの遮るもののない一面の星空を、俺は二度と忘れないだろう。
竜星のリバーサル 夢ヵ現ヵ幻ヵ〈yu-ma〉 @x102
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