第9話

 黙り込んだ皇の後を追う俺は、穴だらけの廃屋越しに何かが飛来するのを見た。


 廃墟を突き破るようにして、幾本か先の路に突っ込んだのは、死闘を繰り広げていたはずの首斬りであった。その目を見た瞬間、俺は思わず足を止めた。たとえ崩れた壁越しでも見過ごすはずはない。あの死人のような曇った目を俺は嫌と言うほど見てきたのだ。あれほど生気にあふれた人斬りの眼がああなったのなら、よほど危険な状況と考えていい。


 ——行け


 思わぬ許可が下りた。常に危険から遠ざけようとする星影が珍しく関わることを選んだのだ。もしかすると皇から離れさせるつもりなのかもしれない。今はそれでもかまわない。


 たまらず皇を見ると俺が何か言う前に皇が口を開いた。


「君が、本当に、そうしたいと思ったなら、行くといい」


 どこか含みのある言い方に引っかかるものがあるが、そこを問う暇ももどかしく俺は走り出した。穴だらけの廃屋を迂回して隣道に滑り込む。あと二本ほど抜ければ彼の下にたどり着く。


 いつになく必死だった。必死だからこそ疑問が湧いた。


 なぜ俺は今日初めて会った男のために走っているのだろうか。


 酸素の少ない脳から明確な答えは返ってこない。まさか俺のような人間に正義感などあるはずもない。皇に認められたからだろうか。そうならばなんと単純な男なのだろう。


 だが遥か遠く離れていた〝闘い〟をこの眼で見て、わずかに心惹かれたことは確かである。達人級の二人が繰り出す剣術や激しいぶつかり合い。そして理解の及ばない豪炎の筋。希望を持たない俺にとって、十年前を思い出させるそれらが魅力的だったことは、言うまでもない。


 その妙な衝動に突き動かされたおかげだろうか。俺は数日振りに再び光を見た。汚れ切ったモノクロな街を切り裂く、息を呑むほど鮮やかな金色の光。


 首斬りが吹き飛ばされた廃墟の一本手前の路に彼女はいた。厚雲に隠れる月を嘲笑うように光る金の髪と透き通るほど白い肌。そして、数日前に俺を射ぬいた碧き瞳が視線の数十メートルにあった。


 その瞬間、小さなひらめきが体を貫いた。それを脳内で言語化するより早く俺は少女の下へ走った。


 少女が気付き、きつく睨みつけてくる。


「あなた、この前の。いまさら何の用だって——」


「細かいことはいい。お前の望みをかなえてやる。だから今は、俺の言うことを聞いてくれ」


 整った異国の表情が不審から怒り、そして驚きへと変化する。つい先日、彼女の考えを真っ向から否定した男が、恐ろしい勢いで迫ってきたのだから当然だろう。


「いきなりね。私の望みなんてあなたが知るわけないでしょ」


「知ってるよ。あれだけデカい声で訴えてたじゃないか」


「……それって——」


 なおも不審げな表情を見せる少女は、何かに思い当たったように言葉を止めた。それを裏付けるように、俺は偶然握った切り札を不敵な笑みと共にたたき出した。


「皇に会わせてやる」


 先日とは打って変わって手のひらを返した俺の言葉に、少女は戸惑いながら、それでも小さくうなずいた。



 首斬りに一歩ずつ近づいていく男を見つけると、俺はポケットにありったけ詰め込んだガラクタを取り出した。右と左——暇つぶしから得た両利き——一つずつ構えて連続で投げつける。一つは足元に、もう一つは対空の剣に払われて甲高い音を立てた。


「誰だ?」


 いかにも鬱陶しげな表情で男が振り向いた。俺よりは十近く上と思われる顔に見覚えは無いが左胸の家紋が九条家であることを示している。ならば九条レンヤで間違いあるまい。


 俺は視線をずらさないまま、首斬りと彼の戦闘に巻き込まれて倒れた兵士の手から剣を奪った。


「俺は、最上レイだ」


 俺は返事を待たずに大地を蹴った。暗さも相まって酷い有様の道を滑るように駆け抜け、拾い物の剣を振りぬく。這うような姿勢からの斬り上げで敵の剣を払いのけ、戻す剣で斬り下ろす。風を斬る剣は寸前で避けられたが、空いた左腕で投げつけたガラクタが敵の右肩を撃った。わずかな隙を逃さず、ひるんだ敵を蹴り飛ばした。


 物理的な距離が両者に空き、俺は短く息を吐いた。同時に安堵が胸中を満たす。


 わずか二年。


 それが、俺が父から剣を学んだ時間だった。第一線で戦うにはあまりに短く、そして教えることが不得手だった父は無茶な訓練ばかりだったが、今はそれが十分に通用する。父が感覚で生み出した我流の剣を可能にさせる、十年の間無理やりに鍛えられた体と暇つぶしに会得した両利き。皮肉にも、九条が敷いた支配が俺をこの場に生き永らえさせた。


 生暖かい夜風が通り抜ける。数歩ほどよろめいた九条はしばしの沈黙の後、大声で笑いだした。


「面白い! 面白いよ! 朝桜も珍しかったけど、最上なんて初めてだ」


「それは良かった」


 食いついた喜びを内心で表しながらそう返事をする。少しでも長く時間を稼げば俺の任務は完了する。この男さえ引き付けていれば皇たちは逃げられるのだ。彼が生きてさえいれば、この国の未来にまだ希望がある。


 とうの昔に失ったはずの自己犠牲心に気付き、俺は思わず苦笑した。


「懐かしいなぁ。最上セイは確かに強かった。結局、最後の最後まで勝つことはできなかった」


「それはどうも」


「まあ昔の話はいい。大事なのは君が強いのかどうかだ」


 ただひたすら欲を押し出す九条に、俺は意味深な笑みを返す。


「当然。首斬りなんかよりよっぽど」


 嘘も嘘である。本人に聞かれればその場で斬り伏せられるだろう。下の奴隷の俺が、朝桜家の人間より強いはずがない。そもそも意魂という存在さえ今日知ったばかりなのだ。


 だが一つだけ考えがある。意魂とは、恐らく長時間使っていられないモノらしい。理解できないほどの炎が吹いたのは一度きりで、九条の動きも先ほどから普通である。首斬りと戦っていたような人間離れした速さはない。恐らく意魂を使われれば合わせて使う、というのが敵の方針のようだ。


 であれば、意魂を温存していると思わせ続ければ、生身の俺でもある程度は渡り合えるはずだ。その先のことは——わからない。


「行くぞ」


 何に対してかわからない声をかけ、俺は再び距離を詰めた。


 衣服も皮膚も易々と斬り裂く二つの刃が舞う。ぶつかり合って火花を散らし、互いに敵を討たんと空を切る。ひとたび剣を交えれば、息をつく暇もないほどにせわしない攻防が俺を待っていた。


 一つ朗報があるとすれば、それは拾い物の剣がよく手入れされていたということだろう。長すぎず短すぎもしない衛兵の剣は意外にも俺の手に馴染み、研がれた刃は闇を彩った。十年ぶりの剣戟であっても俺の体は自分でも驚くほどよく動き、九条とほぼ対等に打ち合っていた。


——退け


 深く戦いに沈んでいた俺は、不意に聞こえた星影の声で我に返った。しかし、この国の中でどこに逃げればいいのか。


——壁だ

 間髪入れず返事が来る。目的はわからないが、疑う理由はどこにもなかった。星影が間違ったことなど無いのだから、これまで通り従うだけだ。


 一際強く剣を払い、俺は即座に踵を返した。牽制にガラクタを投げつけ、壁への最短ルートを走る。高くそびえるそれは大きすぎるがゆえに近く見えるが、実際はかなりの距離がある。そこまで逃げ切れるか。


「おいおい、それは無しだろ」


 全力で駆ける俺の横で、ため息のような声がした。鋭く突風が吹き、男が俺の前に立ちはだかる。俺は廃墟の壁を蹴って急転換し、速度を落とさず逃げたが敵は恐ろしい動きで俺の前に現れる。


 嫌な予感がぞわぞわと体を巡った。九条の動きが速すぎる。とても生身とは思えない。


 星影には悪いが逃げ切れそうにない。目指す壁の下まではまだ数百メートルも残っているが、ここでこいつを倒さなければ先に進めない。意を決して俺は剣を構えるが、先ほどと大きく異なる結果となった。


 目の前で男が消える。


「やっぱりそうか」


 突然右手側で声がし、思わず剣を叩きつける。しかし、それを苦も無くと受け止めた男は、首筋には見慣れない筋模様が浮かべてさらに続けた。


「君、意魂が使えないね?」


 まずい。


 そう思ったときには遅かった。九条は無造作に、全力で押していた俺の剣など意に介さず腕を振った。その乱雑な動きからは想像もできないほどの強烈な力が俺を襲う。踏ん張るどころか体が宙に浮き、何度も地面を弾みながら突き当りの壁に体が叩きつけられた。


 全身の骨が揺さぶられ、かつてない痛みが体を襲う。意魂の力を受け止めた右腕は無くなったのかと疑うほどに感覚がなかった。立ち上がる以前に、呼吸を整えることすらままならない。揺れる視界の先に愉悦を浮かべた男が映る。


「——クソッ」


 動けない俺に、死が目の前まで迫っていた。

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