第5話
衝撃的な告白に空気が凍り付いた。
「皇……だと……」
かろうじて絞り出された名は、十年前に掃討されたはずの王族。もはや消えてしまったとされる存在を瞬時に結び付けることができなかった。
しかし同時に、未だ記憶の海に垂らされていた釣り竿が旺然と揺れ動いた。十年以上前の景色が竿ごと俺を深い渦に引きずり込む。衷心に隠し、消し去ろうとした記憶がよみがえった。
華やかに彩られた皇宮の大広間。父、最上セイは先皇と談笑している。他にも周囲には朝桜家の人間や籠りがちであった皇妃様も見られる。そして俺の目の前には一人の少年がいた。当時は互いに四、五歳程度だっただろうか。何を話したかまでは判らない。ただ一つ、
ただ一点、俺はこいつに見覚えがあることをようやく思い出した。
皇を称するなど、頭のおかしな奴だと笑い飛ばすのが普通だろう。だが俺にはできなかった。記憶も本能もこいつが皇だと証明していた。嘘偽りない本物の皇だと。
「お前、生きてたのか……」
代々国を治めてきた皇家は、当主が皇という名を襲名してきた。十年前は皇子だった少年は皇家の当主となることは意外ではない。だが、そもそも生き延びていたことに驚きがある。
「多くの大人たちに生かされた、と言うべきかな。王だけが生きていても意味は無いと父は常々言っていたのに」
黒く大きな眼に幽愁を浮かばせて皇は答えた。
気づけば再び脳内警報が響いていた。
——関わらんでいい
わかっている、と俺は小さくうなずいた。
「今すぐにここから出ろ。どうやって入ったのかは知らないが俺にかまうな」
言いながらうつむき拳を握った。たとえ皇が生きていようと関係ない。俺にはそれよりも何か騒ぎを起こされる方が迷惑だった。
「悪いがそれはできない。僕は君に会いに来たのさ」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいない」
「俺に会うためならもう用は済んだだろ。誰かが来る前に早く帰ってくれ」
「帰らない——僕一人では」
皇はすっと手を差し出した。
「レイ、僕と一緒に来い。この国を取り戻す力になってほしい」
「この国を取り戻す……? それこそふざけているのか?」
「そう見えるかい?」
妙に様になった仕草で彼は手を広げて見せた。おどけた口調とは裏腹に真剣な眼が俺を見据える。
「——それは俺が欲しいわけじゃないだろ。本命は俺が言葉を交わせる、星影か? でも、残念だったな。アイツはもう戦えるような状態じゃない」
「そんなことはわかっている。そもそも十年前の時点で危なかったんだ。いまさらそんなことを要求しないさ。」
顔を上げた皇の眼は力強い光を灯していた。まずこちらの主張を聞け、と言わんばかりの圧がそこにあった。
「僕たちはただ十年間隠れていたわけじゃない。情報と戦力を集め、反逆の糸口を探し続けていた。そして、ようやくその目途が立ったんだ。あと二人、あと二人そろえば勝機が見える。頼む、この通りだ」
「——どうして俺なんかに頼むんだ。最上の人間だからって、親父みたいに圧倒的なわけじゃない」
「それは君が、良い眼をしているからだ」
条件反射のように俺は奥歯を噛みしめた。先日と異なり今はこの眼を褒められているように思う。しかし、何も益をもたらさないくせにことあるごとに災いを惹きつける眼が、俺は嫌いだった。
「この眼が何だって言うんだよ! どいつもこいつも理屈が無いことばかりを俺にあてつける。俺はただ、静かに黙って生きていたいんだ。誰にも干渉されずここで最期まで過ごすんだ。それを妨げる眼なんかいらない。お前が良いと言うならこんなもの——」
「そうやって、逃げるのかい」
確かな意思を持たない俺の声は低く遮られる。熱量の違いが俺の虚を突いた。
「別に……逃げることは悪じゃないだろ」
「本当かい。君は、逃げ続けた先に求めるものがあると思うのかい? 背負うべき責任を放棄しておいて未来に希望が残っていると、君は本当に思うかい?」
「それは——」
深々と突き刺さる言葉は皇のものであって、それでいてこの街に住む人たちの言葉にも聞こえた。最上という名と星影を持ちながらも立ち上がらなかった俺を非難する嘆き。この罪だけは俺が背負い続けなければならない。十年前にそれを選んでしまった俺の責任だ。でも——
逃げることは本当に悪ではないのだろうか……。
心を支えてきた言葉が揺らいだ。どうして俺はこの続きを忘れてしまったのかという後悔が浮かぶ。何か事情があって記憶から消えてしまったのか。それとも、都合が悪いと自ら記憶から消してしまったのか。いつものように、嫌なことから眼をそらしてしまったのか。
——お前は悪くない
いつも俺を導いた星影の声も、今は妙に頼りない。頭では信じたいと考えているのに、はるか昔に捨てたはずの感情がそれを拒む。
俺は——
「誰と話しているんだい」
はっ、と息を呑んだ。
反射的に顔を上げると蔑みと哀れみの混じった視線に捉えられた。すべてを知ったうえで諭すような表情。みじめな時間だ。しかし俺の意志無き心は抗う力を持たない。
「君の言葉で、話してほしいな」
彼は優しく言葉をかける。諭すように、あやすように。
俺は十年にわたって父の言葉にすがり、星影のささやきに身をゆだねてきた。そんな俺に自ら紡ぐ言葉があるのだろうか。
「……俺は、俺は——」
しかし、続きの無い言葉は突然の轟音にかき消された。
腹に響く破砕音と共に、小道を形成していた廃墟の壁が吹き飛んだ。その揺れに煽られたように穴だらけだった壁が次々と崩れ、支えを失った屋根が大地に砕け散る。長年にかけて溜まった埃と砂塵が周囲にぶちまけられ、俺たちを襲った。
「——これは……」
突然の出来事に思考が追いつかない。隣に立つ皇も目を丸くしている。だが、俺の驚きはまだ序の口だった。
闇に浮かぶような二点が俺を見据え、粉塵から人影が現れた。
ぼさりと伸びた灰色の髪と鋭利な刃物を思わせる強烈な眼。その奥に灯る火から溢れるのは恐ろしいまでの殺気。高い背を包む藍の衣はゆったりとしており、腰に差された刀がうまく形を引き締めていた。帯刀が許されるのは兵士のみのはずだが、どこから見てもこの男が兵士とは思えない。
しかし、その容姿が記憶に引っかかった瞬間、俺の体はまるで他人の物になったかのように動かなくなった。長らく感じることのなかった生存本能がけたたましく警告を叩きならすが足は頑として動かない。ただ心臓だけが激しい鼓動を伝えてくる。
見たことはなくとも、幾度となくその男の特徴を聞いたことがあった。
震える俺の唇から掠れた声が漏れ出た。
「——首斬り……」
巷を騒がせる悪人が、俺と皇の前に現れた。
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