第4話

——遅かったな


 頭に響くような声と共に暗がりの中で巨体がのっそりと首を動かした。闇そのものとさえ思えるほど黒い体に金の目が浮かび上がる。かつて数多の生物を射すくめた眼は、今は優しげな光を放っている。入り口脇の灯りをつけると、ぼんやりとした電灯に今や見る影もなくなった守護竜が照らし出された。


 人に換算して九十歳、と言ったところだろうか。


 悠久の時を生きる竜であっても寿命はある。歴史の一部となって倭を守ってきた星影は、直にその命を追えてしまうのだろう。その最期を、俺は竜交の民として見届けねばならない。


 星影の衰えは俺が生まれる前から目に見えていたらしい。そして十年前、九条反乱の翌朝に帰還した守護竜に、俺は隠れるよう伝えた。それは衰えた竜への心配か、俺自身の恐怖心かは解らない。逃げることは悪じゃない、と断片的な文句がそうさせたのかもしれない。


 だが結局星影はそれに従い、そして父と交わしたという約束を守るべく、俺と共に十年間過ごしている。


——よく堪えた


 うっすらと痣の残る俺の頬を見て星影が言った。


「まあね。いまさらどうにもならないし」


 諦観をため息に乗せる。


——それにしても、お前は変わった者に目を付けられる


 昼に起こった小騒動が起きた時と妙な少女が現れた時、星影は俺に忠告した。何を見て、どう把握しているのかはわからないが、星影は俺を守るための最善を伝えてくれる。決して不要な害を被らないために俺の感情を静かにコントロールする。その指示に思うところがないわけではないが、助けられたことは数えきれないほどあった。


「あの娘は……何者なんだろうな。あ、これ今日の分ね」


 俺は限界まで膨らんだポケットから簡易食を取り出して黒竜に放った。銀の包装に書かれた「栄養満点」という派手な文字が宙に踊る。星影はそれを口で受け止め、袋ごと飲みこんだ。さらに二つ、三つと続いて投げるとそれらも全て飲みこんだ。


——相変わらずの味だ


 つまらなさげに呟く星影に苦笑しながら封を開け、俺も同じものを口に放り込んだ。何を加工すればこれにたどり着くのかさえ分からない奇妙な味が口内に広がる。


 九条の支配は非道である。しかし同時にある程度の平等でもあった。九派とその他とに二分されているが、その他の中に差別は無い。全員がほぼ同じ労働をこなし、九派から廃棄物のような支給品を受け取る。そこには能力や内面による差は——俺はやけに目をつけられているが——一切ない。つまり、上を見ずに水平だけを見ていれば優劣の無い平和な世界と思えることもある。


 もっとも、それは意志を失った人間だからこその感想だろう。普通であれば先ほどの少女のような反応になるはずだ。こんな街はおかしいと、黙って従うのは間違っていると。


 俺は諦めて床に背を預けた。揺らぎの無い木板と違い、視界に広がる天井は今にも崩れそうにさえ見える。最上と知られることを恐れてこの廃屋に逃げ込んだ当時はよく修復していたが、結局天井に手が回ることはなかった。


 この街の夜は退屈だ。義務もなければ娯楽もない。十年前もこの国は静かだったが、それは昼に騒いだ分、夜に安らぎを得るためだった。今は、課せられた労働による疲労を取るべく無理やりにでも眠り込んでいるだけだろう。


 俺は拾い物の本を手に取った。昨日の続きをぺらぺらと探して文字をなぞる。瞬く間に空想の世界へ誘われた。


 本を読むことは好きだった。なぜなら創られた世界は希望にあふれているから。奇跡を簡単に起こしてしまう魔法のような力で逆境を覆す様は、非現実的であり得ないにしても夢見ることができた。いや、あり得ないと思うが故に楽しむことができるのだった。


 昔は星影から知識を授けてもらったり、かつての戦いの話をしたりして過ごしていた。時には父の粗雑な教えを思い出して武術に励む日や。血迷ったときには左手も利き手同様に動かせるよう練習したが、もはやそれほどの熱意は無い。ただ昨日明日の憂鬱さを紛らわすために頭を動かすだけになってしまった。無益に鍛えられていく肉体を発揮する場面などもう来ないのだろう。


 程よい眠気に襲われるまで紙をめくり、灯りを消した。光のない日常はまだまだ続く。浅い眠りに落ちていく俺は、鮮烈な出会いをした少女の存在を忘れ去っていた。


「おやっさん、おやっさん。昨日も首斬りが出たらしいっすよ」


「またかよ。衛兵どもはなにやってやがんだ」


「それが、今回はかなりヤバいらしくて、その衛兵隊長がやられたって話なんすよ」


「——ほんとかよ。それじゃ、誰がそいつを捕まえるんだ」


 先日の下品な笑いと異なり、少し真剣みが増した様子の監督どもが話す。

 わずかに溜を設けてから、細身の男が口を開く。


「……それが、なんと九条の次男坊が動くらしいでーす」

 その言葉に腹の出た男は軽く小突いた。


「それを早く言いやがれ、この野郎。心配して損したじゃねえか」


「いい顔してましたよ、おやっさん」


 今度はお気楽な笑いが響き、俺はそれを横目に見ながら黙々と作業をこなした。

 誰かの戯言だと思われていた首斬りの噂も、ついに国が動くほどの事態となったようだった。


 灰がかった髪と腰に吊るした長刀。そう噂される男の最初の犠牲者は数週間前、どこか辺境地の衛兵。次に国都近傍地域の中隊長。その後は九条にかかわる人間が次々と被害に遭い、現在は国都から遠く離れたここ雲台の衛兵隊長が犠牲となったそうだ。


 しかし、九条の国に逆らう人間が現れたとしても街の空気は明るくならなかった。衛兵隊を手玉にとれるほどの強さを誇るならもっと早く、今よりも多くの人々に戦意があった時期に来てくれればよかったのにと俺は思った。かつてなら、力強い戦力になっただろうに。今となっては誰もついてこない。


 一つだけ助かったことは、九派の人間が首斬りの話で盛り上がっているおかげで文句を言われることなく労働を終えられたことだろう。


 深く息を吸うと咳き込みそうになる空気に囲まれて闇夜を進む。いつも今日ぐらい穏やかであってくれればいいのに、という思いを読んだのか帰路に立ちはだかる者がいた。


「やあ、久しぶりだね」


 そう声をかけてきたのは、俺と同い年程度の少し背の低い青年だった。暗くて表情はよく見えず、闇に浮かぶように目立つ白い衣服は、この街の人間にしては綺麗すぎるように思えた。


 問題はその青年が声をかけてきたことである。人違いであってくれという願いを込めてあたりを見るが、俺と当人以外に人影はない。


「君のことだよレイ」


 俺は反射的に体が強張るのを感じた。俺の名を呼ぶ人間はこの街に星影しかいない。


 少し迷って相手の顔が見えるよう一歩近づいた。青年の顔が先ほどより明確に浮かび上がる。倭に多い黒髪に黒目、それなりに整った顔立ちは優し気な表情を浮かべていた。


 それを確認した俺の脳裏にチクリと刺激が走る。記憶をたどる釣り竿に小さな揺れが生じるが、残念ながらそれ以上の反応は無い。会ったことがあるかもしれない。ただ確信は得られなかった。


——関わるな


「……誰だ」


 猜疑の目で見る俺に、男は苦笑いで両手を広げた。


「僕のことは覚えていないかい?」


 そう言われても記憶にはこれ以上引っかからない。そもそもここ数年は星影以外まともに会話をしていないのだ。知り合いなどいるはずもない。


 からかわれているのだと俺は踵を返した。こんなところで油を売っていて、噂の首斬りに絡まれでもしたら面倒だ。


「知らないな」


 言い捨てる。帰るには少し回り道が必要だった。


「待ってくれ」


 焦りを含んだ声にも俺は足を止めない。彼よりも深く聞こえる声があったのだ。


——去れ


 俺はそれに逆らうことなく歩を進める。声はもちろん、珍しく早く解放されたのだから得られた時間を無駄にしたくなかった。


 しかし、彼は諦めなかった。


 気を入れなおすように少し間が開いた後に告げられた言葉は、俺の予想を遥かに上回った。


「最上、最上レイだろう?」


 空気が凍る。確信を含んだ疑問に俺の体は硬直してしまった。そしてそのこわばりを打ち砕くように鼓動が脈打つ。首斬りに出会った人間も、今の俺のような顔をしていたのかもしれない。


 こいつはどうして俺の本名を知っているのか。


 強烈な疑問が湧きあがる。驚愕と疑念。それらを隠して、あくまで別人だと主張するべきだったのかもしれない。だが、俺にはできなかった。「逃げろ」と叫ぶ声を無視し、今度は強い意思を込めて問うた。


「お前は誰なんだ」


 食いついてしまった俺の視界に満足そうな笑みを浮かべる男が映る。


「僕は——」


 生暖かい風が通り過ぎた。ゆっくりと口が開かれる。


「——皇だ」

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