第2話

 倭歴九百九十年。


 それは月の無い星夜のことだった。


「皇様! 早くこちらへ‼」


 数多の小国が集うソルフェア大陸北東部。低い街壁に覆われた工業国倭は、それらの小国群れを統べる枢国として長きにわたって安定した治世を続けていた。広々と開け放たれた国門は絶えず人々が行きかい、盛んに交流が行われる。国都の中央市場に所狭しと並ぶ出店は昼に騒ぎ、夜は遊び疲れた子供のように寝静まっていた。


 そのような静寂の闇夜に包まれた倭の中心、皇宮にて未曽有の騒ぎが起きていた。

 白銀の鎧に身を包んだ兵士に守られるように、皇と呼ばれる男は自身の居室から抜け出した。


「すまない」


 三十を超えたあたりと思われる男は、眠りをたたき起こされた不平もなく柔らかな物腰で兵士に詫びた。


「滅相もありません。皇子様は先に向かわれております。皇様は側近のお二人が死守いたします」


「わかった。住民の避難は?」


「どうやら敵の狙いは皇様のみのようです。一直線にこちらへ向かってきています」


「なるほど。もし矛先がそちらへ向くようなら迷わず救助に向かえ」


「ですが——」


 皇は力強い口調で抗議を遮った。


「私だけ逃げ出しても意味は無いのだ。民を持たぬ王など、ただの人と同じなのだからな」


「……はっ」


 まだ若いが賢王としての素質にあふれた男を兵士はしかと守った。



 白を基調とした落ち着いた装飾の宮殿を無骨な兵士たちが駆けまわる。麗しく咲く花々の香りも今は鉄と火薬の匂いがかき消していた。


 これまで一度たりとも使用されることのなかった防衛用の門を閉じ、その内で着々と防戦準備が進む。使用人も駆り出され宮殿内に貯蓄された武具がつぎからつぎへと運び込まれた。その中には壁飾りとしての役目を受けていたのであろう骨董品の銃も見られる。まだ詳しく知らされていない人々も、かつてない危機だということを薄々感じ取っていた。


 張りつめる空気をかき分けて衛兵隊長と思しき壮齢の男が現れた。自ら指揮を執りながら一人の兵士を捕まえ、問いただした。


「星影はどこだ⁉」


「そ、それが昨日から南方へ……」


「こんなときに——」


 苦々しげに隊長は言い捨てた。


 倭の治世を支える要因は二つあった。絶えることの無い賢王ともう一つ、それが守護竜星影であった。人外の化け物を総称する幽鬼の中でも圧倒的な力と知恵を持つ竜種。その中でも星影は比較的温和な竜であり、人間を襲うことだけを欲望に生みだされる大半の幽鬼とは一線を画していた。そして、極稀に生まれる竜と対話できる人間に出会ったとき、星影は人と手を取り合うことを選んだ。それは今より数百年もさかのぼった時と言い伝えられている。


 以来、星影は対話できる人間が代替わりするなか、長きにわたって倭の人々を外敵から守り続けていた。「倭に守護竜有り」という噂は、はるか遠い異国にまで流れ着くほど隠れ無いものだった。


 それほど絶対的な星影の不在は軽視できる問題ではない。長い経験を持つ隊長は自身の不安を悟らせまいと表情を正した。


「あの方は必ず戻ってくる。それまで我らが耐えればよいだけのことだ。いいな!」


「はっ!」


 若き兵は明るい表所で敬礼を返し、走り去っていった。



 数多の兵士に囲まれた皇が向かう先には二名の戦士が待機していた。全身を鎧で固めた彼らと異なり、二人の防具は最低限に絞られ、腰には各々の得物が提げられている。厳しく統率された衛兵隊において異彩を放つ二名を、知らぬ人はいない。


 皇側近兵、最上、朝桜。倭が誇る最強の戦士であり、大陸にかかる序列、七星英雄に最も近い二名だとも噂されている。


 かつてない騒ぎを見せる皇宮においても二人が纏う空気は平常と変わりない。何が襲って来ようとすべてを打ち払うだけの自信が、体からあふれていた。


 灰がかった短髪を逆立て、長刀を携えた男が緊張の無い口を開いた。


「まさかここで九条が動くとはな」


 驚き、と言うよりは妙な引っかかりを感じている口調。

 代々の王族である皇を中心に、倭には大小さまざまな一族が勢力を伸ばしていた。そのうちの九条家は戦いを好むというよりは篤学な家系で、特に近年は何やら考究に励んでいるようであった。


 そして、皇の統治が始まって直に千年になろうかという今になっても、その治世に大きな不満は現れなかった。国民の声を聞き、時には争うこともありながら他国と優良な関係を築き上げる。歴代の皇は誰しもその能力に長けていた。


 それ故に、九条家の反乱動機を誰も解らずにいた。


「何に不満があったのやら、だな。これではどこまでが敵に回っているのかわからない。星影もうまく誘い出されたのだろう」


「守護竜様の加護なしとは厳しいもんだ。ところで最上、お前んとこのガキはいいのか? なんならウチ奥家に匿ってやってもいいぞ」


 左腰に刀と小銃を吊るす男、最上は答えて軽く首を振った。


「問題ない。天下の朝桜家とは違ってうちは大したことないが、なにかあれば星影に頼んである。これだけ騒ぎになっていれば明日には帰って来るさ」


「そういえば貴重な対話できる奴だったな。だが、星影もこの騒ぎが収まれば、お前のガキの子守に収まっちまうかもな。幽鬼に寿命があるのかは知らんが、俺たちよりは遥かに長い時を生きてるだろ」


「確かに、俺たちで言う老人になっているのだろうな。その時は息子にあやかって竜飼いの最上にでもなるさ。それより、皇子様は?」


 少し魅力的な未来から思考を戻し、最上が訊いた。


「あっちはソウマがついてるらしい」


 答える朝桜は何とも言えない表情を浮かべている。


 〝神童〟と称される十代半ばの若い戦士、ソウマは側近に次ぐ実力であると評される。しかし、年不相応の不敵さを醸しだすソウマは朝桜と反りが合わなかった。はたから見れば似た者同士、としか思えないのだがそれは両者とも気づいていないようだ。


「なら安心だ。彼の強さはそこが知れないからな」


「まったくだ。あれで中身も良ければ文句は無いってのに」


 その明るい声に最上は薄い笑いを返した。


 それからも二人は、皇が連れられるまで他愛ない会話をつづけた。



 万全とはいえないものの、簡単には打ち崩せない防壁を築いた兵士たちは衛兵隊長を向いて美しい隊列を組んでいた。この短時間で可能な最高の出来だと言えるだろう。全身を鎧で覆い、剣と銃を装備した彼らは、しかし緊張した表情を浮かべていた。


「みな、よくやってくれた。皇様は最上、朝桜両名が死守する。彼らはあのサントリアが攻めてきたときでさえ、最前線で敵を打ち払ったのだ。九条如きに負けるはずがない!」


 隊長の言葉に空気が少し温かみを持つ。消えることのない不安が安堵に移り行く。彼ら皇直属軍にとって側近の最上、朝桜は星影に次ぐ圧倒的な存在であった。


「我らはそのための道だ。身を挺し、命をなげうってでもここを守るのだ。何人たりともこの先へは行かさん! いいな‼」


「はっ!」


 総勢三百はいるであろう兵士たちは乱れのない敬礼で隊長に向き直った。


 しかしそれも束の間、慌ただしく駆け込んだ伝令に崩される。


「報告します。第一防衛線、突破されました!」


「なに、本当か⁉」


 ざわざわと不安が流れゆく。九条家の一団と第一防衛線が衝突したのが約五分前。たったそれだけの時間で五つある防衛線の一つが破られてしまった。


「それが、敵に異常な猛者がおりまして——」


「九条にそのような人間など……」


 伝令の報告に隊長は首を傾げた。国内で最も練度の高い皇直属軍がほんの数分で破られるなど、それも戦闘に長けていない九条家に……。


 そう思った瞬間、闇夜が明るく照らされた。


「何だ⁉」


 うろたえてそちらを見やれば、信じられない光景が目に入った。残る四つの防衛線の一つ、そこから斜めに巨大な火炎が昇ったのだ。超常的な現象。今ある技術をどれだけ用いても、あのような勢いの火柱を放出することはできない。しかし、その思考を否定するように、暖かな風が何かの焼ける不快な臭いを運んでくる。


——何が起こっているんだ


 星影の帰還まで耐え抜けば、と考えていた隊長は、少しずつ大きくなる不安を無視することができなかった。


 皇側近である最上、朝桜。その両名から絶大な信頼を得る若戦士を筆頭に無事脱出した皇子は、倭本国から少し離れた街に身を潜めていた。九条の反乱からすでに数日。追っ手の無いことを確認した一行は生き残った少数の兵を割いて情報の収集にあたっていた。


 翌朝、町民の衣服をまとった若い兵士が、皇子を匿う屋敷に駆け込んだ。乱れた息を整えもせず小隊長と傍付きを呼ぶ。


「——報告します!」


 ただ一つの知らせを待っていた皇子は、その声を聞いて飛び出した。かかる制止を振り払い、傍付きを押しのけて兵士にしがみつく。幼い小さな眼には希望の光が浮かび、そしてかすかに絶望が蝕んだ。


「父は、父は無事なのか⁉」


「皇様は——」



 倭歴九百九十年 皇は数多の護衛、二名の側近と共に戦死。皇子は倭外へ逃亡。倭は九条家の手に落ちた。強大な守護竜を従え、かつては西の大国サントリアをも退けた集合国家倭は、誰が予想しただろうか、真意不明の内乱によって静かに瓦解していった。


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