竜星のリバーサル

夢ヵ現ヵ幻ヵ〈yu-ma〉

第1話

 逃げることは悪じゃない。ただ——


 その大切な言葉の先を、俺はいつの日かを境に思い出せなくなっていた。


 倭歴千年。 


 それは光の薄い朝のことだった。


「そこのガキ、誰が休んでいいと言った!」


 不意打ちで飛んで来た叱責に俺は肩をすくめた。


 ここは、集合国家倭本国の最西端に位置する街、雲台。本国の中心である国都から最も遠く、聳え立つ外壁に最も近い辺境地域であった。霞む陽に浮かび上がる建物は全て工場で、ところどころに原形をとどめた廃屋が取り残されているが、他はガラクタと残骸の山があるのみ。人々は油と煙が臭う中を生気のない目で希望なく、意志なく、自由なく働く。一部の人間からは屍の街、と呼ばれていた。


 その一角、積み上げられた荷の間を縫うように、薄汚いボロ衣服をまとった男たちがふらふらと進む。そして、今しがた怒鳴られた俺もその一員として歩を進めていた。


 この労働場の空気は今すぐにでも口元を覆いたくなるほど悪い。それは表情の無い顔をずらずらと並べる労働者に起因するものではなく、轟音を立てて稼働する工場と地下に張り巡らされたダクトや排煙管と呼ばれる管によるものであった。工場から排出される黒煙は国都へ向かう途中でダクトの亀裂からあふれ出し、地上に侵食していた。


 その被害は甚大で雲台の草木は全て枯れ果て、上空へと昇った煙は雲と混ざり合い、消えることのない重く厚い蓋を天に作った。月光はおろか日の光さえ半減するほどの厚みである。


 これも、かれこれ十年ほど前に始まったことだった。


 積み上げられた麻袋の高さに思わずため息をついて、俺は一つを引きずり下ろした。それなりの屋敷が建っていたのであろう広大な土地に所狭しと詰め込まれた麻袋は、一向に減る気配を見せず、だらしなく積まれた姿は規律に従う俺を嘲笑うかのようであった。


 滑り落ちようとする袋をしっかりと肩に担ぎ、俺はほんの数メートル先にある工場へと足を動かした。


 なぜ初めから工場に運び込まなかったのかという問いはもはや今更である。

 重い扉を押しのけて踏み入ると、ダクトに送り込まれなかった悪煙が薄い外気へあふれ出る。壁一枚で隔てられた工場は、運び込まれた燃料を燃やし、国都で悠々と暮らす方々のためにせっせとその歯車を回していた。


 咳き込んでしまうほどの煙と熱を避けるため片手をかざしていると、同じように前を歩いていた男とぶつかってしまった。軽い衝撃が体に伝わった瞬間、重い袋は均衡を失い、担いでいる俺ごと地に引きずり込む。まずいと思ったときにはもう手遅れだった。


 盛大な音を響かせて、俺は汚れた床に倒れ込んだ。


「この野郎!」


 間髪入れずに怒鳴り声が工場内に響いた。鼓膜に突き刺さるような怒号は俺にだけ襲い掛かり、他の連中は見向きもしない。


 現場監督を任せられる人間は、奴隷のごとく働く俺たちの失態を大好物にしていた。寄り集まって下品な会話をする以外は、常にあたりを見回して鷹のように獲物を探し続けている。少しでも不備を見つけると我先にと駆けつけ、弱者をいたぶるように怒声を吐く。


 慌てて荷を拾い上げて体を起こした俺は、大股で迫る男と目が合ってしまった。


「何だその眼は!」


 薄汚い笑みが急速に消えゆく。代わりに吊り上がった目と歪んだ口元は一切の嘲りなく、純粋な憎悪を映し出していた。


 またこの眼だ。先に起こる展開を創造し、俺はため息をついた。

 腹をたるませた男は右腕を引くと、身構える隙も与えず勢いよく俺の頬を殴り飛ばした。


「——ッ」


 気持ち悪いほど鈍い痛み。


 彼らは異様に俺の眼を嫌った。やれ「生意気な眼をしやがって」だの「その眼をほじくり出してやろうか」など、威勢よく怒鳴りつける。わずかでも機嫌が悪ければ躊躇なく拳がオマケされた。他の労働者は——そもそも失態が少ないのもあるが——拳を振るわれることは滅多に無かった。


 覚えのない憎悪が込められた拳は重く、衝撃で荷を振り落とし俺は壁に手を突いた。痛みによって反射的に苛立ちが発生する。しかし、


——逆らうな


 静かに、鋭く声が聞こえた。俺を守る、俺にしか聞こえない声。俺は顔を上げるのを我慢し、声のままに頭を下げる。何かトラブルが起きた時はこの声に従っていればそれ以上被害が拡大することはない。


 現に、力なく座り込む俺を見て、腹の出た男は盛大に鼻を鳴らすと背を向けた。


「今日もやってますねぇ、おやっさん」


 痛みに顔をしかめてその場を去る俺を嘲笑の目で見ながら、別の監督が野次を飛ばした。


 目の前で同僚と呼ぶべき存在が殴られたというのに、他の労働者はまるで何も見ていないかのように俺の横を素通りしていく。いや、その生気のない目には本当に俺のことは映っていないのかもしれなかった。彼らが何を考え、何を目的に生きているのか俺には解らない。


「おう、お前か。生意気なガキがいたからわからせてやったのよ。これでな」


 腹の出た男は武勇を誇るように、自身のたるんだ二の腕を指して汚く笑った。


「いやいやおやっさん、今はほどほどにしといたほうが良いっすよぉ。おやっさんが首斬りにやられちゃったら、俺辛くて泣いちゃいますよ」


「お前が泣くわけねえだろうが。……それより、首斬りっつうのは、最近やけに噂になってるアレのことか?」


「そうそう。二週間か三週間前に事件になってからもう五人は死んでるらしいっすよ。どういう目的かわからないっすけど、恐ろしく腕の立つ奴らしくて、やられた奴らはみんな頭と体が離れ離れ。それで、ついた名前が首斬りっすね。ホントおっかないっすよ。おやっさんも、あまり目立つことしてると次の標的になっちゃいますよ」


 おどけた調子の声に彼は唾を吐き捨てた。


「そんな誰が言い出したかわからねえ話を信じるんじゃねえ。それに、どうせすぐ衛兵に捕まっちまうよ。あいつら最近ヒマしてんだから、仕事ができてよかったじゃねえか」


「おやっさん、神経太いなぁ。あいや、神経も、太いっすねぇ」


「なんだと、この野郎」


 樽のような腹を揺らして下品な笑い声が工場に響く。


 俺は所定の位置に麻袋を積み上げると減ることのない荷を目指して工場を後にした。


 この国、集合国家倭本国に平等は無い。


 かつて栄えた自由も平和も、文化も思想も、そして国の象徴たる守護竜さえ、わずか一日で無に帰した。


 革命、とも言うべきだろうか。


 今から十年前、それは月の無い星夜のことだったと思う。いつもは深く静かな闇が、その日だけはやけに騒がしかった。大勢の人々が行きかう慌ただしい音と妙な緊張感。そして時折響く小さな悲鳴。まだ幼かった俺は耳をふさぎ、瞼を閉じて布団に潜り込んだ。きつく体を丸め思考と止めた。眼を、そらした。


 そして朝、世界は一変していた。その夜の出来事を、俺は知らない。

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