第16話

 そこは入り江の奥にある小さな砂浜だった。街灯も民家の明かりも届かない。煌々と輝く月だけが浜辺を舞台のように照らしていた。

 拓海は砂地を踏みしめ、波打ち際に立つ二つの影に近づいていった。彼の後ろを鹿島と環がついてくる。

 御厨と綺羅は海のほうを向き、南天の月を眺めていた。

「来たな」

 拓海の姿を認めると、御厨は彼らのほうを向いた。

 拓海は御厨から少し離れたところで足を止めた。

「準備はいいかい?」

 拓海は御厨の目を見据え、ゆっくりと頷いた。何度実戦を重ねても、戦いの前の緊張感は変わらない。相手がどれほどの手練であろうと、対応できる自信はある。負けたことがないわけではないが、幾多の勝負に裏打ちされた自信が、拓海にはあった。しかし、素手で拳を交えるということは、自分か相手のどちらかが、力で相手をねじ伏せるということだ。人格も知力も関係ない。ただ肉体の力だけがものを言う。負ければ自分の全てを否定されたような喪失感を味わうことになる。勝てば相手のプライドを打ち砕くことになる。だからこそ、相手への敬意を忘れてはならない。拳一つで闘うことは、真剣で戦うのと同じなのだ。

 ところが、この御厨という男はどうだ。真剣勝負を前に薄ら笑いを浮かべている。

 不気味だった。

「武器はなしだぞ、御厨」

 鹿島が拓海の前に立って、念を押した。

「決闘の作法は心得ていますよ」

 御厨は両腕を肩の高さまで上げ、その場でくるりと一回転して見せた。細身の体を包む薄手のシャツとスリムパンツに武器を隠す余地はない。

「鹿島専務。あなたにはこの勝負の見届け人になっていただきましょう」

 まるで楽しい見世物が始まるとでも言うように、御厨は弾んだ声で言った。

 御厨に不審の眼差しを向けつつ、鹿島は後ろに下がった。

 拓海は波打ち際の濡れた砂地を踏みしめて構えの姿勢をとった。

 それに応じて御厨も身構えたが、腰高で隙だらけだ。一見して素人だと分かる。

 だが、それだけに一層、拓海は慎重になった。なぜ、御厨は結果の見えているこんな勝負を挑んできたのか。負けると分かっている勝負に意味があるのか。相手の真意が読めなかった。その迷いが、拓海に自分から飛び込むことを躊躇わせた。

 空手は間合いの勝負だ。間合いを詰めたり広げたりする中で、相手が隙を見せた瞬間に技を繰り出す。隙が生まれやすいのは技を仕掛ける瞬間だ。微妙なタイミングで相手の間合いを外し、カウンターを合わせる。これが後の先。カウンターを合わせる隙を与えず、相手の懐へ飛び込み技を決める。これが先の先。互いに間合いに入ったからと言って、すぐに技を繰り出すわけではない。いつでも飛び込める体勢を保ちつつ、相手の体の動き、目の動き、呼吸を見極める。集中の切れた一瞬が勝敗を分ける。

 御厨の構えは隙だらけだが、拓海が間合いを詰めるとすっと体をずらして、決して拓海の正面には立たない。拓海が焦れて飛び掛ってくるのを待っているようだ。二人は一定の距離を保ったまま、互いを中心に円を描くように動いた。

 砂地のため足場は悪いが、そうして動き回る中で、拓海はすでに自分の間合いを掴んでいた。後は勝負に出るタイミングだ。

「どうした。そちらが来ないなら、こちらから行くぞ」

 不意に御厨が拓海の間合いに踏み込んできた。無造作な動きは踏み込みというよりも、ただ足を前に出しただけだった。

 間合いを破られた拓海は、反射的に砂地を蹴り、御厨の顔面に向けて拳を突き出した。余程訓練を積んだ相手でも、技が決まるタイミングだ。この動きを見切れる人間はざらにはいない。

 ところが、拓海の拳は御厨に届かず、気がつけば逆に手首を掴まれていた。

 ろくに構えも取らぬ体勢から完璧なタイミングで放たれた拳をかわすばかりでなく、その手首を掴むなど、人間業ではない。しかも、拓海の手首を掴む手の力は尋常ではない。

 手首が捻り潰されるという恐怖が拓海の頭をよぎった。

 しかし、御厨はすぐに手を離し、再び距離をとった。

 傍目にはほんの手始めに拳が交錯したぐらいに見えただろう。しかし、拓海の中には一種名状し難い恐怖が芽生えていた。何か人ならぬものを相手にしているような気味の悪さだ。

 御厨は拓海の心を見透かしたように、にやりと笑った。

 拓海は戦いに意識を集中させ、心の怯えを振り払った。

 次に間合いに入った瞬間、拓海が拳を繰り出すと、御厨は間一髪でそれをかわした。すかさず上段に回し蹴りを放つ。御厨はそれを見切り、間合いを外した。常人の動きではない。

「恐い、恐い。あんな蹴りを喰らったら、一発であの世行きだ」

 御厨はおどけた調子で拓海を愚弄した。

 そんな言葉に惑わされる拓海ではなかったが、技を外されたことには少なからず動揺した。

 その時、御厨が低い姿勢で拓海の懐に飛び込み、彼の踵を手ですくった。

 拓海はもんどりうって倒れ、気がつけば御厨に組み伏せられていた。決して油断したわけではない。豹のような御厨の身のこなしが、拓海の反射神経を上回った。ただそれだけだ。

 拓海に防御する隙を与えず、御厨は彼の顔面に拳を叩き込んだ。

 たったの一撃。

 すさまじい衝撃に、拓海は意識を保つのが精一杯だった。白目を剝きかけた目を元に戻し、防御の姿勢を取ろうとしたが、すでに脳の命令は腕に届かない。彼の顔面に、二度、三度と、ハンマーのような拳が振り下ろされる。鼻がつぶれ、視界は涙でかすみ、次第に痛いという感覚さえ薄れていった。

「空手の達人だか何だか知らないが、君のような若者がいきがっているのが、僕は許せなくてね。さあ、反撃して見せろ」

 御厨は最早身を捩って逃れることさえ出来ない拓海を殴り続けた。

「どうだ?こんなはずではなかったと思っているんだろう?だが、これが現実だ。僕の体は・・・」

「よせ、御厨。もう勝負はついた」

 鹿島が二人に駆け寄り、御厨の肩を押さえた。

 御厨がその腕を払うと、鹿島は他愛もなく尻餅をついた。

「何しやがる」

 激昂する鹿島に、御厨は蔑むような眼差しを向けた。

「鹿島専務。彼と同じ目に遭いたくなければ、大人しくしていることだ」

「こんなリンチみてえな真似、見過ごすわけにはいかねえ」

 鹿島は砂地に尻をついたまま抗議した。

「リンチ?」

 その言葉を繰り返し、御厨は自分の体の下でのびている拓海を見下ろした。

「そう、これはリンチだ。南雲家に逆らった人間はこうなる」

「こいつが何をしたって言うんだ?南雲家とは何の関係もねえ、ただの高校生じゃねえか」

「忘れてもらっちゃ困るわ」

 鹿島の後ろで、綺羅の冷たい声が響いた。

「彼、うちの龍児に怪我をさせたのよ」

「そいつは子供同士の喧嘩だろう。大人がしゃしゃり出る問題じゃねえ」

 鹿島は立ち上がり、砂のついたズボンを払った。

「北村夏美が絡んでいるとなれば、話は別だ」

 拓海に馬乗りになったまま、御厨が答えた。

「なぜそこまでそのことにこだわるんだ。子どものことは子どもの自由にさせてやれよ」

「そうは行かない。話の通じない愚か者には身をもって思い知らせねばならない」

 御厨はぐったりとしている拓海の襟を掴んで、再び拳を振り上げた。

「やめて」

 静かな声が言った。抑えられている分、声は厳かに響いた。

 誰も気付かぬ間に、御厨の正面に環が立っていた。その両手には拳銃が握られ、銃口はぴたりと御厨の額に向けられている。

「おやおや。どこでそんな玩具を手に入れたんだい?」

 驚きも怯えも見せず、御厨は人を喰ったような笑みを環に向けた。

「玩具じゃないわ」

 御厨は月明かりを反射して黒光りする拳銃を一瞥すると、すぐに環に視線を戻した。

「ふっ。日本も物騒になったものだ。使い方が分かるのかい?」

「試してみる?」

 環の声は震えていた。

 獲物をいたぶるような目で環の目を覗き込み、御厨は笑った。それまで見せたことのない、晴れ晴れとした笑顔だ。そして、渾身の力を込めて拓海の顔に拳を叩き込んだ。

「やめて」

 環の悲痛な叫びが夜のしじまを引き裂く。

「撃ちたまえ」

 御厨は正面から環の目を見据えた。

「今、彼の命を救えるのは君だけだ。けりをつけようじゃないか」

 まるでゲームを楽しんででもいるように、御厨は環を挑発した。

 銃を握る環の手は震えている。だが、銃口は御厨から逸らさない。彼女の脳裏に拓海にまつわる思い出が走馬灯のように駆け巡った。

 中学生だった頃、町の不良から彼女を守ってくれたこと。この夏、父の会社の慰安旅行で彼女が誘拐されたときに、ヤクザを相手に戦ってくれたこと。相手が何者だろうと、拓海が負けたことなどなかった。それがたった一人の、華奢な小男に完膚なきまでに叩きのめされてしまった。そして、その男に今、自分は銃を向けている。過去のことにも、今目の前で起こっていることにも現実味がなかった。自分とは関わりのない遠い世界の出来事を、ピントのずれたレンズ越しに眺めているような気がした。

「いいことを教えてあげよう」

 不意に聞こえてきた声に、ずれていた目の焦点が元に戻る。

 御厨が拓海の襟首を掴んで立ち上がり、ぐったりとしている彼の体を持ち上げた。

 異様な光景だった。

 小柄な御厨が片腕で大柄の拓海を空に持ち上げている。

「これはフェアな勝負ではなかったんだ。最初からね」

「・・・?」

 銃を構える環には問い返す余裕もない。

「フランケンシュタインの話を知っているかね?いかれた科学者が墓場からかき集めてきた死体をつなぎ合わせ、怪物を生み出すという物語だ。あれは十九世紀のフィクションだが、現代の遺伝子工学がそのフィクションを現実のものにした。死体を甦らせるとまでは行かないが、生身の人間を強化し、人ならぬ能力を備えた怪物を生み出す程度には・・・。

 ゴリラ並みの腕力。

 豹の身のこなし。

 鳥並みの動体視力。

 体のどの部分をとっても、僕は普通の人間とは違う。南雲京輔は息子である僕の体を使って、現代の世に怪物を甦らせた。なくなっても惜しくない、この僕の命を使ってね。僕が怪物なら、さしずめやつはフランケンシュタイン、現代のマッドサイエンティストさ」

 御厨はまるで世間話でもするように淡々と語った。

「そんな話を信じられると思うのか」

 鹿島が言った。

「では、あなたが見ているこの光景をどう説明する?」

 御厨は片腕で支えている拓海の体をさらに一段高く持ち上げた。

 鹿島は反論の糸口を探しあぐねた。あり得ないことだが、御厨の存在そのものが彼の話の証となっている。しかし、証拠を突きつけられてなお、鹿島には信じられなかった。

「仮にお前の話が本当だとしたら、社長は法を犯していることになる」

「違法な実験などどこででも行われている」

「しかし・・・、これは人体実験だぞ」

 的外れの反論に、御厨は哄笑した。

「あはは・・・。その年でかまととぶるのは滑稽ですよ、鹿島専務。臨床治験なら合法、人体実験なら違法。その境目を決めるのは誰です?お役所のバカどもでしょう。法の名の下に歪められる正義に何ほどの意味がある?ご自分の会社の社長が違法行為に手を染めていたからと言って、そう驚くこともないでしょう。社会に横行する欺瞞を知らぬあなたでもあるまいに」

「おれが分からねえのはお前のことだ。なぜ自分の命を危険にさらしてまで、そんな実験に付き合う?なぜ南雲京輔の言いなりになる?」

「ただ、南雲の名がほしい。それだけです」

 拍子抜けするほど簡単な答えだった。

「南雲の名?」

 御厨は頷いた。自らの答えにつゆほどの疑いも抱いていない。そんな顔だ。

 地位や名声などただの幻想だ。追い求めても満たされることのない思いは、しかし、人を狂わせる。一時の栄華を求め、人は人生という舞台を踊る。いや、踊らされる。それが分かっていてなお、踊り狂うしかないのが人間だ。

 御厨もまたそうした人間の一人に過ぎない。

 そう思えば、この若者の悲哀を理解できるような気もする。

 鹿島の目に憐れみにも似た表情が浮かんだ。

「それに僕はこの体が気に入っていないわけじゃない。その気になればどんな人間にも勝てる。フランケンシュタインが作りたかったのは理想の人間だ。ある意味、南雲京輔はそれを実現したと言える」

「お前は利用されているだけだ」

「人生なんてそんなものでしょう。

 利用するか、利用されるか。

 実のところ、その両方が本当だ。ならば、僕は少しでも相手の上を行くまでだ。いずれ南雲は僕の前に膝を折ることになる」

「その前にてめえが死んだらどうする?」

「そのときはゲームオーバー。僕の負けです」

 御厨は冷淡に言い切った。

 人生はゲームとは違う。そんな風にあっさりと割り切れるものではない。普通の人間なら、そこまで行く前にブレーキがかかる。そのブレーキがかからぬところに、この若者の異常さがあった。

「さあ、どうする?」

 御厨は環に視線を戻した。

「その銃で僕を撃つか。それとも、大事な恋人を見殺しにするか」

 環は御厨に銃を向けたまま身じろぎもしなかった。

 御厨は拓海の体を空に差し上げたまま、海に向かって歩き出した。

「待て、御厨」

 鹿島が後ろから呼び止めた。

「お前は人を殺そうとしているんだぞ」

 御厨は顔を鹿島のほうに向け、にたりと笑った。月光に照らされたその顔は能面のように冷たかった。

「僕がそれを分かっていないとでも?」

 御厨は浅瀬まで歩を進め、膝まで水に浸かった。そして、拓海の体を水面にたたきつけ、そのまま水中に沈めた。

「この国の不完全な法で僕を裁くことは出来ない。たとえ裁きを受けたところで、せいぜい十年もすれば自由の身だ。ほんの十年を耐える覚悟があれば、晴れて南雲の仲間入りというわけさ」

 水中に沈んだ拓海の体を押さえつける御厨の顔に狂気の影はなかった。

 しかし、そのこと自体がこの男の狂気を物語っていた。


 ダン・・・。


 一瞬の銃声は静寂に呑まれ、辺りには寄せては返す波の音だけが残った。

 御厨の体が水面に倒れ、波間に二つの体が浮かんだ。


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