第15話

 船が港を滑り出すと、冷たい海風が服の布地を突き抜けて肌に刺さった。

 薄手のブラウスしか身に着けていない環が、ぶるっと体を震わせた。

 拓海はジャケットを脱いで、環の肩に掛けてやった。

 環はありがとうと言って、袖に腕を通し、はっと拓海を見上げた。彼女の手が、ジャケットの胸に置かれている。

 環と目を合わせると、拓海はかろうじてそれと分かる程度に頷いた。

「あら、やさしいのね」

 綺羅が二人のほうに目を向けて言った。

「あなたたちお二人、とてもお似合いよ」

 拓海は頬に血が上るのを感じた。先刻夏美と一緒にいたときも、御厨に同じようなことを言われた。冷たい風のおかげで、今度は赤面したことを悟られずに済んだだろうか。

「どこまで行くんです?」

 拓海は尋ねた。

「月夜のナイトクルーズよ。目的なんてないわ」

 そう言うわりには、クルーザーは波頭を蹴って飛ぶように疾駆している。外海に出ると、陸の明かりが見る見る遠ざかって行く。

「でも、僕らを連れ出したからには、何か目的があるんでしょ?」

 風と波の音で、大声で喋らなければ声が届かない。

「そう焦らないで。いい月夜よ。楽しみましょうよ」

 綺羅はまるで子どもをあやすように言った。

 海面に一筋の月影が伸びている。その向こうに、上り始めた満月が輝いていた。

「教えろよ、お嬢。ここまで来りゃ、他に聞いてる人間もいねえ」

 横合いから、鹿島が割って入った。

「人聞きの悪い言い方はやめてくださいな。私たち、何も後ろ暗いことはしてないわ」

「にしちゃ、妙な取り合わせじゃねえか。御厨のことは置いとくとして、そっちの若えのは誰だい?」

「そう言えば、紹介がまだだったわね。そちらの男の子が上杉拓海君、女の子が芹野環さん。二人とも龍児のお友達よ」

「芹野?芹野部長の娘かい?」

「そうよ。私たちと無関係とは言えないでしょ」

「それにしたって、龍児の友達だろう。なぜ、龍児を連れてこない?ダチの姉貴にいきなり呼び出しを喰っちゃ、面食らうぜ。なあ」

 鹿島は拓海と環に向かって言った。

 二人はどう返したものか思案するように、顔を見合わせた。

「こちらは鹿島秀樹さん。南雲製薬の専務さんよ」

 拓海は鹿島に向かってぺこりとお辞儀した。ここまでの会話から察するに、鹿島は御厨に対して不審を抱いているらしい。いざという時には、味方になってくれるかも知れない。とにかく、この場に中立的第三者がいてくれることはありがたい。もっとも、綺羅と親しげに口をきく様子から見て、完全に中立といえるかは微妙だが・・・。

 御厨の操縦するクルーザーは、フルスロットルで夜の海を駆けてゆく。びゅうびゅうと吹き付ける風が冷たくなってきたので、四人は船室に入った。

 船室での会話は弾まなかった。鹿島は何か話していないと間が持たないらしく、あれこれと話題を振ってきたが、拓海も環も愛想よく会話に応じる気にはなれなかった。綺羅一人が上機嫌で、船室と操縦室の間を行ったり来たりしている。

「飲みなさいな。喉が渇くでしょ」

 そう言って、綺羅は船室のソファの前のテーブルに、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを二本置いた。

「おじ様は何になさる?シャンパンを開けましょうか?」

「やめとくよ。船酔いがひどくなる」

 実際、波頭を蹴って進む船は少し揺れた。拓海は平気だったが、環は少し気分が悪そうだ。

 鹿島の話もネタが尽き、船内の会話は途切れがちになった。皆が気詰まりを覚え始めた頃、不意にエンジン音が下がり、船のスピードが落ちた。

「着いたみたいね」

 綺羅がソファから立ち上がり、船室から甲板に出て行った。その後について外に出ると、船の向かう先に陸の影が見えた。海上には、ところどころ、漁火が浮かんでいる。クルーザーは夜漁の漁船の間を縫って静かに進み、漁港に入った。

 クルーザーは空いている突堤にぴたりと横付けになって停止した。見事な船さばきだった。綺羅が船べりに足をかけて突堤に飛び移り、御厨が船上から舫綱を投げた。

 船に揺られていたのは一時間ほどだろうか。陸に降り立つと、揺れない地面がひどくありがたいものに感じられた。

「ここはどこだい?」

 鹿島が尋ねた。

「伊豆の下田よ」

 もはや隠す理由もなくなったのか、綺羅は即座に答えた。

「伊豆半島の先端まで来ちまったのかい。しかし、下田と言や、うちの保養所があるとこじゃねえか」

「ええ。でも、目的地は別の場所よ」

 一同が強ばった体を伸ばしていると、御厨はすでに先に立って歩き出していた。

 

 案内されたのは、町外れにぽつんと立つ一軒の旅館だった。

 御厨は勝手知ったる顔で、からりと玄関の引き戸を開けた。

 広い土間に、板敷きの上がり框。建屋の奥へ続く長い廊下。こざっぱりと落ち着いた佇まいには古民家の風情が漂う。

 正面に据えられた柱時計は十時を指していた。営業しているのかいないのか、玄関の明かりは薄暗く、宿の中はしんと静まり返っている。

 御厨は靴を脱ぐと、まるで自分の家に帰ってきたかのように、ずかずかと廊下の奥へと消えていった。

 しばらくすると和服姿の女将が姿を現し、ようこそいらっしゃいまし、と上がり框に三つ指を付いて一同を出迎えた。年の頃は四十を超えたあたりだろうか。目元の涼やかな色白の美人だが、表情に翳りがある。

「今夜は他にお客がおりませんもので、私一人で失礼いたします」

 そう言って、女将は奥の広間へ一同を案内した。

 小さな旅館だが、女手一つで切り盛りしているのだろうか。

 二十畳ほどの広間には、先に入った御厨が座って待っていた。

 一同が腰を落ち着けると、女将は部屋を出て襖を閉じた。

 御厨は居住まいを正し、一同に向かって一礼した。

「ようこそ我が家へ」

 綺羅を除く三人は御厨の顔をぽかんと見つめた。この旅館が御厨の生家ということか。

「今皆さんを案内したのが、私を生んだ女でございます」

 言葉つきが丁寧な分、御厨の声は冷たく響いた。

「あれはお前のお袋さんかい。てめえを生んでくれた人に対して、その言い草はねえだろう」

 妙に取り澄ました顔の御厨を、鹿島は一喝した。

「家庭にはそれぞれ事情がございます。口出しは無用に願いましょう」

 御厨の口調は平坦で、不要なまでに頑なだった。

 能面のようなその顔を、鹿島は値踏みをするような目で眺めた。

「そうかい。じゃあ、その事情とやらをお聞かせ願おうじゃねえか」

「鹿島専務。あなたは招かれざる客だということをお忘れなく」

 一瞬二人の視線が絡み合ったが、御厨はすっと目を逸らした。

「まあ、いいでしょう。いずれ、皆さんに知ってもらわなければならないことだ」

「もったいぶらずに、さっさと言え」

 御厨はさっと手をあげて、鹿島を制した。

 その時、女将が盆に急須と湯飲みを載せて広間に入ってきた。長卓の隅に盆を置き、人数分の湯飲みにお茶を注ぐと、女将は一人ひとりの席に丁寧に置いて回り、御厨の隣に端座した。

「本日はようこそおいでくださいました。御厨の母でございます」

 改めて挨拶の口上を述べると、女将はつつましげに畳に三つ指をついた。

「そして、南雲京輔の愛人だった女です」

 冷たい声で付け加えられた御厨の言葉には、母親に対する蔑みがこもっている。

 女将は目を伏せたまま口を結び、その言葉に耐えた。

 ほんの一幕の掛け合いが、この親子の関係を物語っていた。

 重い沈黙が流れた。

「ということは、つまり・・・」

 沈黙を破ったのは鹿島だった。

「つまり・・・」

 御厨が鹿島の言葉を引き継いだ。

「私は南雲京輔の実子ということです」

「社長は認知しているのか」

 鹿島はすかさず尋ねた。

「問題はそこだ」

 御厨は芝居がかった仕種で鹿島を指差した。

「父が私を認知すれば、私に南雲家の財産の相続権が生じる」

「だが、社長は認知していない・・・」

 鹿島は言い、目を眇めて御厨を見た。

 一瞬、憎しみのこもった視線を返した後、御厨は頷いた。

「結局、お前は金の匂いに引き寄せられたハイエナってわけだ」

「口のきき方に気をつけなさい、鹿島専務。あなたは今、南雲家の後継者の前にいるのですよ」

 自らの立場を誇示しようとする御厨の言葉は、幾分子供じみて響いた。

「後継者?」

 鹿島は鼻を鳴らした。

「仮にお前が南雲京輔の息子だったとしよう。だが、それだけで会社を自分のものに出来ると思っているとしたら、お門違いも甚だしいぜ。いいかい、南雲製薬ってのはな、家族経営の町工場とは違うんだ。その傘の下で肩を寄せ合って生きてる人間がたくさんいる。会社にはその人たちの生活を守る責任がある。お前のようなぽっと出の若造にその責任が負えるのかい」

「他人の人生の責任を負える人なんているのかしら」

 とりすました綺羅の声が割って入った。

「人生なんて、自分の才覚でどうにかするものではなくて?」

 人生の苦労など知りもしない深窓の令嬢の口から飛び出した台詞は、皮肉にしか聞こえなかった。

「その通りだ、お嬢。だがな、そうやってたくさんの人が会社を支えてるってことを忘れちゃいけねえ」

「それでお給料をもらってるんだから、文句は言えないはずよ」

 かつてフランスの民が飢餓に苦しんでいたとき、マリー・アントワネットは、「お菓子を食べればいいじゃない」とのたまったという。綺羅の言葉には、それと同じ傲岸さが窺える。

「下手なやつが舵取りをすると、それが出来なくなると言ってるんだ」

 鹿島は苦りきった顔をして言った。

「その点、おじいちゃんはいい船頭だったわけね。おじ様だったら、うまく舵を取れるかしら?」

 矛先を自分に向けられて、鹿島はたじろいだ。

「今はそんな話をしてるんじゃねえ」

「あら、おじさまだって考えたことはあるはずよ。裸一貫で今の地位までのし上がった人だもの。野心がないとは言わせない。その点、おじいちゃんとは気が合うはずだわ。経営上の意見の違いはあるとしても・・・」

「何の話をしてやがるんだ。今は、こいつには社長をやる経験も脳みそもねえって話をしてるんだい」

 鹿島は御厨のほうを顎で指した。

「でも、彼はおじさまにはないものを持ってるわ」

「・・・」

 答えの想像はついた。

「南雲家の血よ」

「血・・・か」

 その言葉には重みがあった。だが、鹿島の辞書にその文字はない。

「血で生きて行けりゃ、苦労はねえぜ」

「おじさまらしいお言葉ね」

綺羅は一応頷いて見せた。

「おじいちゃんやおじさまが今の地位を築くのに苦労なさったことは分かるけど、私たちはお二人とは違う。生まれついての南雲家の人間、支配者の一族なの」

「そういうのを俗物根性というんだぜ」

 綺羅は眉一つ動かさなかった。

「おじさまの目から見ればそうなのでしょうね。でも、普通に考えれば、俗物はおじさまのほうではなくて?」

「変わったな、お嬢」

「成長したと言ってもらいたいわ」

 自らの増長を顧みもせぬ綺羅に、鹿島は嘆息するしかなかった。南雲の名をとれば、彼女に何が残るというのか。

「ところで、上杉君」

 御厨が拓海のほうを向いた。

「これで僕が南雲家と無関係でないことは分かってもらえたかい?」

 拓海は御厨を見やり、一呼吸置いてから口を開いた。

「あなたが私生児だというところまでは」

 私生児という言葉に、御厨の目元が険しくなった。しかし、本性が垣間見えたのも束の間、つるりと顔を撫でた手の下からは、また表情のない仮面が現れた。

「君は僕がなぜ南雲家を自由に出入りできると思うね?南雲家の令嬢を連れ出し、南雲家のクルーザーを乗りまわせるのは、単に社長のお気に入りだからかね?」

 御厨は挑むように一同を見回した。

「僕の正体については、皆うすうす気付いていたんじゃないかな」

「まあな。そんな噂がなかったわけでもねえ」

 鹿島は首肯した。

「だが、解せねえのは、社長がなぜお前をわざわざ秘書なんて目立つポストに就けたのか、だ」

「それこそ、南雲京輔が僕の存在を認めている証拠ではありませんか?」

「だが、社長はお前を認知してねえ」

 御厨は頷いた。

「何か事情がありそうだな。話せよ」

 鹿島はまるで同情してでもいるように話の先を促した。

 意を得たりと、御厨は応じた。

「秘書として働く以上、会社の役に立て、ということですよ。僕に与えられた任務は、シュナウザーと南雲製薬の合併が滞りなく運ぶよう、お膳立てをすること。勿論、表向きの交渉は上層部の仕事です。僕が任されているのは裏の仕事だ」

「南雲龍児と北村夏美をくっつけるって話かい?かーっ、くだらねえ」

「そうでもありません。二人の結婚は会社の結びつきをより強固なものにする。南雲とシュナウザーは、目に見える形で運命共同体となるわけだ」

「今時、政略結婚なんて流行らねえぜ」

「僕は理にかなったやり方だと思いますがね」

「それで、事をうまく運べば、父子関係を認知してやる、とでも言われてるのか」

 表情こそ変えなかったが、御厨は返事をしなかった。

「そんなとこみてえだな」

 独り合点すると鹿島は次の質問を繰り出した。

「じゃあ、お前がD研究室に出入りしているって話は?」

「D研究室?」

「以前、芹野部長が仕切っていた研究室だ」

「ああ、あそこへは一、二度使いに走ったことがあります。それが何か?」

 鹿島は、おや、と思った。真野明日香の話では、御厨は足しげくD研究室に通っているということだった。御厨がとぼけているだけか。

「いや、何でもねえ」

 鹿島はそれ以上の追及を控えた。この件については、別ルートで探りを入れる必要がありそうだ。

「僕の側の事情はこれで分かってもらえたかな、上杉君」

 御厨は拓海のほうに向き直った。

「あなたの個人的な事情のために、人の自由を奪うのか」

 低く抑えた拓海の声に、憤りが滲む。

「さっき綺羅が言っただろう?君たちと南雲家の人間は住む世界が違う、と。君ももう大人だ。分を弁えることを覚えたまえ。君自身のためだ。夏美のためでもある」

 夏美と彼の関係にやましいところはない。たとえあったとしても、御厨の押し付ける大人の理屈を飲み込むつもりなどない。

「なぜあなたにそんなことが言える?」

「恋愛などただの幻想に過ぎない。今に君も分かる」

 いかにも年長者ぶった口調で御厨は言った。

「そんなことは分かりたくもないし、あんたのような大人になるつもりもない」

 御厨は口を引き結び、じっと拓海の目を見つめた。

「言葉で言って分からなければ、別の手立てを考えねばなるまい」

 御厨の声が不穏な響きを帯びる。

「望むところだ」

 拓海はちらりと環を見た。

 夏美のためじゃない。おれは自分のために戦うのだ。

 だが、それを言葉にして何になろう。自分の行為にいちいち理由を付けるのは、臆病者のすることだ。

「面白い」

 御厨はおもむろに立ち上がり、拓海を見下ろした。

 拓海も立ち上がり、御厨と対峙した。

 向かい合うと、拓海のほうが二回りほど体が大きい。

 拓海は百八十センチ、七十キロ。

 御厨は百七十センチ、体重はせいぜい六十キロといったところか。

 体格だけでも、御厨のほうにかなりのハンデがある。それに加えて、拓海には空手という武器がある。素手でやり合えば、まず御厨に勝ち目はない。

「おいおい。おれの目の前で喧嘩なんかさせねえぞ」

 鹿島が二人の間に割って入った。

「ここはおじさまの出る幕じゃないわ」

 綺羅も立ち上がった。

「ばか言うんじゃねえ。殴り合いで何が解決するって言うんだ」

「いいじゃない。それで総司さんの気が済むなら。そちらにとっては悪い条件じゃないはずよ。彼、空手の達人なんでしょ?」

 綺羅は拓海のほうを見やった。

「おれもその話は聞いている。ヤクザ相手に大立ち回りを演じたそうだな。お前も承知しているはずだろう、御厨」

「勿論。彼が勝てば、二度と彼らのすることに干渉しないと約束しますよ」

 御厨は不敵な笑みを浮かべた。

「総司。野蛮なことはやめて」

 女将がすがりつくように御厨の袖を引いた。

「うるさい。お前は引っ込んでろ」

 母親の手を振り払うと、御厨は拓海のほうを見た。

「上杉君。さっき来た道の先にビーチがある。そこで待っているよ。準備が出来たら来たまえ」

 御厨は口元に笑みをたたえて、広間を出て行った。

 その後を綺羅が追った。

 後に続こうとする拓海の前に、鹿島と環が立ちはだかった。

「おい、上杉。まさか、本気でやり合うつもりじゃねえだろうな」

 拓海は肩をすくめた。

「二、三発殴って、目を覚まさせてやりますよ。こっちもそれぐらいしないと気がすまない」

 御厨が環を巻き込んだことは断じて許せない。

「だけど、これは罠だぜ。あいつが勝算もなしに勝負を挑んでくるはずがねえ」

「分かっています。だから、あなたに立会人をお願いします」

 鹿島は逸る若者を諌める言葉を探しあぐね、天を仰いだ。

「やめて、拓海君。もう喧嘩はしないって約束したでしょ?」

 環は拓海の正面に立ち、彼の両袖を掴んだ。

「黙っていたら、こっちがやられるだけだ」

 拓海は片方の腕を曲げて拳を握り締めた。

「こいつでけりがつくなら、簡単でいい」

 決然と前を向くと、拓海は環の手を振りほどいて広間を出た。

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