第14話

「遅かったな。手紙は持ってきたか」

 車の助手席に乗り込むと、御厨が待ちかねたように言った。

 拓海はジャケットの胸をぽんとたたいた。

「見せたまえ」

 御厨は手を差し出した。

「環に会ってからだ」

 ここからは一歩も引けない。

 御厨は不興げに拓海の顔を見つめていたが、やがて手をハンドルの上に置き、イグニションキーを回した。エンジンが力強い唸りを上げる。

「どこまで行くんです?」

 車が動き出すと、拓海は尋ねた。

「向こうへ着いてからのお楽しみさ」

 御厨は口の端に笑みを浮かべた。

「君に面白いものを見せてやろうと思ってね」

「面白いもの?」

 問い返すと、御厨は横目に拓海を見やった。

「僕の正体を知りたいんだろう?」

 謎めかした言葉を吐くと、御厨はそれっきり口をつぐんでしまった。

 市街地を抜けて高速道路に入ると、御厨は車のスピードをぐんと上げた。同じ方向に走っている他の車がびゅんと通り過ぎ、一瞬で視界の彼方に消えた。

 御厨は片手をシフトレバーに置いたまま、もう片方の手でハンドルを握っている。運転には自信があるのだろう。鼻歌でも歌い出しそうな顔をしている。

 スピードメーターを覗くと、時速二百キロを超えていた。

「スピード出しすぎですよ」

「恐いかい?」

「別に・・・」

 体験したことのないスピードだったが、不思議と怖くはなかった。車の性能のせいもあるだろうが、御厨の運転には安心感があった。

「スピード違反で捕まりますよ」

「そんなへまはしないさ」

 御厨はさらにアクセルを踏み込んだ。

 メーターの針が二百五十まで跳ね上がり、さらに上昇してゆく。スピードが上がるにつれ、野太いエンジン音が甲高いイグゾーストノートに変わっていく。メーターの目盛りは三百を超えたところまである。そこまではスピードが出るということだろう。

「君は空手の達人だそうだね」

 御厨は前方を見つめたまま、話しかけてきた。さすがに少し緊張した面持ちだ。

 前を走る車が弾丸のように後方に飛び去ってゆく。

「目の前に飛んでくる拳をかわし、なおかつ自分の拳を相手に叩き込む。そのほうが、車の運転よりも余程難しい。車のスピードなんて、慣れてしまえばどうということはない。多少のスリルは味わえるがね」

「何が言いたいんです?」

「空手のほうがずっと奥が深いということさ。その業を身につけるには何年もの修行が必要だ」

「どんなことでもそうでしょう」

「それはそうだ。だが、若くしてその道を極めた君は賞賛に値する」

 拓海は今一度御厨の方を見た。

 口元を引き締めてハンドルを握るその額には汗が滲んでいる。

 尋常ではないスピードのために、前方の視界が狭くなる。

 この御厨という男は狂人ではあるまいか。

 そんな不安が拓海の脳裏をよぎる。しかし、この状況では、じりじりと上がっていくスピードメーターの針を眺めていることしか出来ない。狂人に生殺与奪の権を握られるのはあまり気持ちのよいものではない。

 スピードメーターが三百キロに達したところで、御厨はアクセルを緩めた。

 車は徐々にスピードを落とし、甲高いエンジン音が腹の底に響く重低音に切り替わってゆく。

 緊張から解き放たれた御厨は、ふうっと息を吐き出すとシートに身を沈め、体を弛緩させた。

 時速百キロで走る車が、まるで止まっているように感じられる。

 そこから先、御厨は巡航速度を保ち、無茶な運転はしなかった。

一時間あまりも走っただろうか、やがて高速を下りると、窓外に街の風景が広がった。週末の混雑した道路を抜けて郊外に出ると、じきに海が見えてきた。海岸沿いのドライブウェイをしばらく走った後、御厨は海側に道を折れ、仄かな明かりに照らされたパーキングエリアに車を入れた。

 広い駐車場の一隅に駐車して車を降りると、夜気に混じって潮の香りがした。

 黙って歩き出す御厨について行くと、ところどころ申し訳ばかりの照明の立つ岸壁のデッキに出た。淡い月明かりの下、デッキの向こうに不揃いな帆柱の列が浮かび上がった。

 そこは、海辺の別荘地のヨットハーバーだった。

 デッキは鉄の柵で仕切られ、柵の向こうに数本の桟橋が伸びている。波に揺れるヨットの索具が帆柱を打つカチカチいう音を除いて、辺りは静まり返っている。

 桟橋に入るゲートの前に数人の人影があった。一人は環だった。隣に白いドレスの女が立っている。龍児の姉だろう。もともと背が高い上にハイヒールをはいているせいで、余計に高く見える。

「早かったわね」

 二人の姿を認めると、女は御厨に話しかけた。

「いつもどおりさ」

 御厨は肩をすくめた。

「そちらの坊やを恐がらせたんじゃない?」

 女はからかうような口調で言った。

「それぐらいで恐がってくれる相手なら、苦労はないよ」

 おどけた調子で返すと、御厨は拓海の方を向いた。

「上杉拓海君だ。こちらは南雲龍児君のお姉さんだ」

「南雲綺羅です。よろしく」

 拓海は相手の目を見つめたまま、心持ち頭を下げた。少々不躾な挨拶だが、相手の狙いが分からないうちは心を許せない。

「愛想のない子ね。あなたの運転に酔ったんじゃない、総司さん」

 気分を害した分を差し引いても、綺羅の言葉には冷たい響きがある。

 環のほうを見ると、不安げな表情に微笑をのせて視線を返してきた。とりあえず無事を確認できて拓海は内心ほっとしたが、気の優しい環の気丈に振舞う様子が不憫であった。それだけに、彼女に対する御厨らの仕打ちが許せなかった。南雲綺羅が龍児の姉だとしても、誘拐まがいの行為にふつふつと怒りがこみ上げる。

「じゃ、行きましょうか」

 その言葉に答えて、制服に身を包んだヨットハーバーの管理人がゲートを開けた。

「ちょっと待った」

 拓海たちの後ろから声がかかった。

 桟橋の明かりの届かぬ暗がりから声の主が現れた。仕立ての良いスーツに身を包んだ五十がらみの男だった。拓海の知らぬ顔だ。

「久しぶりだな、お嬢。こんな夜更けにヨット遊びかい?」

 男は綺羅に向かって声をかけた。

「あら、鹿島のおじさま。お久しぶり。こんなところで何をなさってるの?」

 親しげな挨拶とは裏腹に、綺羅は悪戯を見咎められた子どものような顔をしている。

「悪いとは思ったが、お嬢、お前さんの車をつけさせてもらったぜ」

「私の車を・・・?なぜ?」

 綺羅の顔に動揺が浮かぶ。

「本当はそっちの御厨を追っていたんだが、あちこち動き回りやがるもんでな。最近よく一緒にいるお前さんの方を張らせてもらったってわけだ」

「なぜ、おじさまがそんなことを?」

「お前さんたち、何かよからぬことを企んでいるだろう」

 鹿島の言葉はあけすけでけれんがない。

 綺羅は顔を曇らせて、御厨のほうを見た。

 御厨は前に進み出て、鹿島と向き合った。

 二人の視線が絡み合う。

 息詰まるような沈黙の後、御厨が道をあけ、鹿島に向かって馬鹿丁寧に頭を下げた。

「招かれざる客だが、仕方がない。鹿島専務にもご同道願いましょう」

 御厨に先導されて、一行は乗船デッキに用意された大型クルーザーに乗り込んだ。流線型の船体から察するに、かなりスピードが出そうだ。

「すげえ船だな。誰のだい?」

 物珍しげに甲板から操縦室や船室を覗き込みながら、鹿島が尋ねた。

「おじいちゃんのよ」

 綺羅が答えた。

「へぇ。社長ともなると遊びのスケールが違うぜ」

 皮肉交じりの褒め言葉を意に介する気振りもなく、綺羅は邪気のない笑みを浮かべた。

「あら、おじさまだってこのぐらいの船は買えるでしょ。うちの役員報酬って悪くないって聞きますもの」

 綺羅の言葉には大企業の創業者一族の驕りが透けて見える。少なくとも、二十歳前後の娘が口にする台詞ではない。

「そうさな。船遊びなんて柄じゃねえが、おれも隠居したら考えてみるかな」

 鹿島は軽く受け流した。

 ゴォォン・・・。

 船底から地鳴りのようなエンジン音が響いてきた。

 見ると、操縦室に御厨が座っている。

「あいつが操縦するのか?」

 鹿島は訝しんだ。

「そうよ」

 綺羅は、さも当然という顔で頷いた。

「なんだい。おれはてっきり、お嬢が操縦するんだと思ったぜ」

「私、免許取りたてだもの。まだ慣れてないのよ」

 鹿島は首を傾げた。御厨が船舶免許を持っていることのほうが不思議だった。

 高級クルーザーを乗り回すなど、一介のサラリーマンには過ぎた遊びだ。

 乗船デッキで管理人が舫綱を解き、船上に投げて寄越した。

 綺羅は空中でそれを受け止め、甲板の隅に片付けた。巧みな手さばきから、船に乗ることには慣れている様子が窺える。御厨との船遊びもこれが初めてではないのだろう。

 彼女の家族は一体このことをどう思っているのだろうか。どこの馬の骨とも知れない若者に高価なクルーザーを貸し与え、娘の同伴まで許すとは・・・。

 御厨という男には、余人に明かされぬ謎がある。

 鹿島は操舵室の御厨に鋭い視線を向けた。

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