第12話

 チンチンドンドンチンドンドン・・・。

 遠くに祭囃子の音が聞こえる。

 うろこ雲が赤く染まる夕暮れ時。吹きわたる風も爽やかなこの時間に、石垣の風物、秋の山鉾巡行を見ようと、通りには大勢の人が集まっていた。

 人並みに押されて歩いていると、夏美の手がそっと手の中に滑り込んできた。温かい手だった。それを拒む理由も思いつかず、拓海はその手を握り返した。

 チンチンドンドン・・・。

 音は近づいてくるが、山鉾の行列はまだ見えない。

 夏美は背伸びをして、人並みの頭越しに通りの向こうを見やった。

 真っ赤なもみじをあしらった浴衣姿があでやかだ。遠くを見つめる涼やかな眼差しと、夕映えに浮かぶその横顔に、拓海はしばし見とれた。

 夏美が振り返り、目が合うと、なぜだろうか、つないだ手に罪の意識を覚えた。

 屈託のない笑みを浮かべて、夏美は拓海に身を寄せて歩き出した。

 秋風にそよぐ彼女の髪から芳しい香りが漂ってくる。

 山鉾巡行を見に行こうと誘ったのは夏美のほうだった。

 最初の頃は彼女のなれなれしさに閉口した拓海も、この頃は夏美の存在を受け入れるようになっていた。自分でも不思議だったが、夏美がそばにいることを心地よく感じることさえあった。

 しかし、今日はまた格別の感がある。

 おれはこの子を愛することも出来るのかも知れない。

 心に芽生えたかすかな思いを自覚すると、自分の不実を思わずにいられない。

 夏の山荘での事件以来、拓海は環とも会うようになっていた。中学卒業以来接点がなかった二人に、あの事件は確かな結びつきを与えるきっかけとなった。と言っても、拓海は環の手を握ったこともない。秋祭りの最中、こうして二人で歩いていると、夏美との距離がずっと縮まった気がする。目を閉じると瞼に浮かぶ環の顔に、拓海は悩まされた。

 やがて、少し後ろの曲がり角から山鉾が現れ、見物人たちの足が止まった。

 チンチンドンドンチンドンドン・・・。

 賑やかな祭囃子が通り過ぎて行く間、二人は手を握り合ったまま山鉾を見つめていた。

 山鉾が通り過ぎると、それに合わせて人並みも動き始めた。

 暮れなずむ空を背景に、遠ざかる山鉾を追いながら歩く二人の間に、誰にも入り込めない静謐の時が流れた。

「こんばんは・・・」

 それが自分たちに向けられた言葉だと気付くのに、数瞬の間を要した。

 声の主のほうを振り向くと、そこには御厨総司の顔があった。

 品のよい微笑を浮かべるその顔が、やけに無粋なものに見えた。

 夕まぐれの陶酔から冷めた拓海は、相手に不審の目を向けつつ軽く頭を下げた。

 御厨は微笑を湛えたまま、二人のつながれた手に視線を落とした。

 拓海は夏美の手を離し、御厨と向き合った。悪事を見咎められたようないやな気分だった。

 いつから見られていたのだろう。

「夏美さん」

 御厨は拓海の存在を無視して、夏美に話しかけた。

「感心しませんね。龍児君という許婚がありながら、他の男とデートですか」

 夏美の表情が強ばった。

「そんなこと、あなたに何の関係があるんですか」

「大ありですよ」

 御厨は眉一つ動かさずに答えた。

「お二人の結婚が南雲製薬の将来を大きく左右するのですから。南雲に関わる人間は皆、この問題に注目しています。ことはあなたが思う以上に重大なのですよ。あなたは厳に行動を慎むべき立場にある」

「じゃあ、私の気持ちはどうなるの?誰にも私の将来を勝手に決める権利なんかないでしょ」

「すでにあなたのご両親は同意されている。お爺さまもね」

「私は同意した覚えはないわ」

 御厨は口元に冷たい笑みを浮かべた。

「まあ、いい。今日はあなたと話をしに来たのじゃない。用があるのは、こちらの上杉拓海君だ」

 そう言うと、御厨は改めて拓海と向き合った。

「長い話になる。君はもう帰りたまえ」

 夏美のほうを一顧だにせず、御厨は冷たく言い放った。

 夏美はその言葉に逆らうように、拓海に身を寄せた。

 御厨の目に有無を言わせぬ固い意思を読み取った拓海は、夏美の肩に手を回し、御厨に声の届かないところまで連れて行った。

「今日のところは帰ってくれ。おれも彼と話したいことがある」

 夏美は心配そうに拓海を見上げた。

「大丈夫だ。喧嘩なんかしない。あいつと二人で話したいだけだ」

 夏美は仕方がないというように頷いた。そして、顔を上げるとにっこりと笑った。

「今日はありがと。楽しかった。じゃ、またね」

 胸元で手を振ると、夏美は踵を返して歩き出した。

 人ごみにまぎれる夏美の後姿を見つめ、拓海はしばしその場に立ち尽くした。彼女の残り香が淡い記憶となって消えるまで・・・。

「ちょっといない、いい女だ」

 気付くと、御厨が彼のとなりに立っていた。

「君もそう思うだろう」

 拓海はじろりと御厨を睨みつけた。下世話な褒め言葉は侮辱に等しい。

「どんな気分だい?」

 御厨は拓海の目つきに頓着する気振りもない。

「気分・・・とは?」

 拓海は憮然と問い返した。

「美人を虜にする気分だよ」

「人聞きの悪い言い方はやめてください。僕らはただ一緒に歩いていただけだ」

「そんな風には見えなかったけどな」

 拓海はかっと体が熱くなるのを感じた。右手には夏美の手の温もりが残っている。

「ふふ・・・。君の気持ちが揺らぐのも無理はない」

 拓海は目を剥いて御厨を睨んだ。何もかもお見通しだと言わんばかりの口調が気に食わなかった。

「だが、彼女は君のものにはならない。あれは南雲家のものだ」

「誰にも彼女を自由にする権利なんかない」

「口を慎みたまえ」

 御厨の口調が厳しくなった。

「君と彼女は生きる世界が違うのだ。分を弁えることだ。君にはかわいいガールフレンドがいるじゃないか」

 御厨の言葉に含まれる侮蔑は故意のものだろうか。それとも、生来のものだろうか。

「何の話か分かりませんね。それから、女性はものじゃありませんよ」

「ふっ。女性ときたか」

 御厨は薄く笑った。

「君たちがやっているのは恋愛ごっこだ。大人の世界でままごとは通用しない」

「そんな風に言われると、余計に逆らいたくなるな」

 御厨は鼻頭に皺を寄せた。

「忠告しておく。君は南雲製薬や北村家とは無関係の人間だ。痛い目を見ないうちに手を引くことだ」

「あなたはどうなんです、御厨さん?あなただって南雲家とは無関係のはずだ。なぜ、そこまで南雲家に肩入れするんですか?」

 意外な反撃を喰って、御厨は口をつぐんだ。しかし、その口元にはすぐに不敵な笑みが戻った。

「私と南雲家の関係・・・か。まあ、無関係とは言えないな」

 その言葉は不穏な響きを帯びていた。

「あんた、一体何者だ?」

 正体の知れぬ相手を前に、拓海はだんだんと落ち着かない気分になってきた。

「ま、ここで立ち話もなんだ。場所を移そう」

 歩き出す御厨の後を、拓海は追わざるを得なかった。

 近くのコインパーキングに御厨の車が停めてあった。外国産の高級スポーツカーだ。二十代のサラリーマンが買える代物ではない。

 促されるままに、拓海は地面につきそうなほど低い車体に乗り込んだ。内装は豪華だが、シートは窮屈だ。

 御厨が鍵穴にキーを差しこみ、回転させると、力強いエンジン音が車内に響いた。

「おれ達をつけていたんですか?」

 始動時の轟音が収まると、拓海は尋ねた。

「平たく言えばそうだ」

 ダッシュボード中央に嵌めこまれたタッチパネルを操作しながら、御厨は答えた。

「いいタイミングで現れましたね」

 拓海は暗に御厨の無粋を詰った。

「見ていられなかったのでね。彼女にも一言言っておきたかった」

「放っておいてもらえないかな。なぜ僕らの問題に親でもないあなたが首を突っ込んでくるんですか」

「事情は承知しているはずだ。その話は後だ。今電話が繋がるから話したまえ」

 車内に電話の呼び出し音が響いた。スピーカーフォンで通話の内容が二人ともに聞こえる設定になっている。

「もしもし」

 知らない女の声が答えた。

「準備はいいか」

 御厨は前置きなしに言った。

「ええ。今代わるわ」

 電話の向こうで二言三言やり取りする声が聞こえ、拓海の知っている声が耳に飛び込んできた。

「もしもし・・・」

 環の声だ。

 どういうことだ?

 拓海は御厨の方を見たが、御厨は知らぬ顔を決めこんでいる。

「もしもし」

「拓海君?」

 切羽詰った声にただならぬ気配が滲む。

「環。一体どうなってるんだ。今どこにいる?一緒にいるのは誰だ?」

 混乱する頭を整理する暇もなく、言葉が堰を切って飛び出した。

「拓海君。落ち着いて、よく聞いて。今どこにいるかは分からないけど、一緒にいるのは龍児君のお姉さんの綺羅さんよ」

 姉?

 そう言えば、龍児には兄と姉がいると言っていた。山荘のパーティーで兄は見かけたが、あの時姉はいなかった。確か都心の大学に行っていると聞いた記憶がある。

 しかし、場所が分からないというのはどういうことだ。これは誘拐ではないのか。

「環。無事なのか」

「大丈夫。ちょっと話があるからって、ドライブに誘われただけ」

 なぜのこのことそんな誘いに乗るんだ。

 と、環を責めてみても始まらない。

「話って、何の話だ?」

「詳しいことは会ってから話すわ。それよりも、拓海君、聞いて」

 環は、拓海を落ち着かせるように、一呼吸置いた。

「お父さんが送った手紙、まだ持ってる?」

 芹野さんの手紙?何のことだ?

 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、拓海は横目でちらりと御厨を見た。

 手を頭の後ろに組んで無頓着を装っているが、二人の会話に意識を傾けているのは明らかだ。

「この間会った時、渡したでしょ?」

「ああ、家に置いてあるよ」

 拓海は環に調子を合わせた。

「今からそれを持って来てほしいの」

「でも・・・」

 現物がないのにどうしろと言うのか?

「お父さんが色々調べて書いたものだけど、会社の外に漏らしちゃいけないことが書いてあるかも知れないからって」

 環が言い添えた。

 ここは環の芝居に乗るしかない。

「でも、あれはおれ宛の手紙だ」

「いいの。そうしないと、お父さん自身が困った事になるの」

 自分で作り上げた話をネタに脅されているのか。向こうでどんな話になっているのかが読めない。

「分かった。持っていくよ」

「ということ。事情は伝わったかしら?」

 突然、電話の向こうの声が変わった。

「了解。手紙を持ってすぐそちらへ向かう」

 そう答えて、御厨は電話を切った。

「環を巻き込むな」

 拓海は御厨に食ってかかった。

「彼女は君以上の関係者だよ。何しろ、お父さんは我が社の研究統括部長だ」

 御厨は鼻でくくったような返事を返した。

「あんた達のやっていることは誘拐だぞ」

「悪いのは芹野部長だ。会社に不利益を招くようなことをしているのは彼のほうだ。私はそれを阻止しようとしているだけだ。さあ手紙を取りに行こうか。ナビを頼むよ」

 御厨は傾けたシートを起こし、ハンドルに手を置いた。

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