第11話

 黒光りする木製の大扉に大理石の床、黒檀の板材とアイボリーの漆喰を組み合わせた壁、高い天井に吊るされたシャンデリア。豪奢で調和の取れた佇まいは、銀行というよりは大邸宅の大広間といった風情だ。

 高い敷居を跨いで建物の中に入るや、南雲京輔はその荘重な趣に目を瞠った。

「スイスのプライベートバンクともなると、さすがに格式が違いますな」

「ここを訪れるのは、社会でそれなりの地位を占める人間だけです。あなたはここに入ることを許された幸運な人間の一人なのですよ、ヘル南雲」

 カール・ハインツ・シュナウザーには上流階級特有の鼻持ちならないところがある。しかし、その身に染みついた傲慢さは、この場にふさわしいものだった。

「選ばれし者たちの宝物殿ですな」

 京輔は相手に調子を合せた。宝物殿とは、われながらうまい形容だ。そう。ここは単なる金庫ではない。世界の富の集積所なのだ。

 シュナウザーは横目で京輔を見やり、鼻梁に皺を寄せた。

「こちらは我が銀行の財務顧問を務めるエルネスト・ローウェル氏です」

 二人を建物の中に招きいれ、脇に控えていた男が京輔に向かって軽く会釈をした。

「ヘル南雲。ご芳名はかねがね伺っております。この度はわがクルタナ銀行をご用命いただき感謝いたします。クルタナはかのテンプル騎士団(ナイツ・テンプラーズ)の流れを汲む由緒正しき銀行でございます。我々の提供いたしますサービスは必ずやあなた様のご期待に沿うものとなるでしょう」

 取り澄ました感じの初老の紳士はほんの形ばかりの口上を述べた。

「テンプル騎士団というと、十字軍の?」

「古くはその時代に遡ります。あの時代に、テンプル騎士団が旅をする兵士や商人のお金を預かったことが、銀行の始まりと言われております」

「ほう」

 京輔は興味深げに頷いた。

「貸金庫の準備は出来ておるだろうね」

 銀行の由緒など聞き飽きたとでも言うように、シュナウザーが話を遮った。

 ローウェルはクライアントを一瞥すると、心得顔に頷いた。

「準備万端整ってございます。さ、どうぞこちらへ」

 そう言うと、受付カウンターを通り越して、広間の奥へ二人を先導した。

 建物の奥へ続く扉は金属製の重い扉で、そこから先は扉ごとに掌紋認証用のパネルと暗証番号入力用のキーパッドが設置されていた。

「貸金庫は地下の岩盤をくり貫いて敷設されておりますので、外部からの侵入は不可能でございます」

 長い廊下の奥のエレベーターに乗り込むと、ローウェルは説明した。

「このエレベーターだけが唯一の出入り口となります。たとえお二方といえども、担当者の私を介さずに地下金庫へアクセスすることは出来ません」

 エレベーターを降りると、エレベーターホールから左右に通路が延びていた。大理石の床に絨毯の敷かれた通路は迷路のようにいくつにも枝分かれしていた。

「こちらでございます」

 アルファベットのTの飾り文字が彫られた扉の前で立ち止まると、ローウェルはナンバーキーに暗証番号を打ち込み、掌紋読み取り機に手を置いた。

「さて、ここからはお二方の暗証番号と掌紋も必要になります。この場で登録をお願いいたします。暗証番号はくれぐれもお忘れなきよう」

 二人はローウェルに示された手順に従って暗証番号と掌紋を登録した。重い扉の奥で、錠の落ちる音がした。

「万が一、我々のどちらかが死亡した場合はどうなるのかね?」

 京輔が尋ねた。

「扉はどちらかお一方と私がいれば開けることができます」

「つまり、私たちのどちらかが単独でここへ来ても、金庫にアクセスできるということだね?」

「ですから、金庫番として私が居るわけです。お二人一緒にお越しにならない限り、地下金庫へはお通しいたしません」

「どちらか一方が死亡した場合を除いては、ということだね」

「左様でございます。さらに、ここに入る扉の暗証番号は定期的に変更されます。暗証番号は当行の行員にしか知らされません」

「大事なものを預けるのに、これ以上安全な場所はないというわけだな」

 ローウェルは誇らしげに頷いた。

「ただ、爆薬や腐食性の薬物、病原菌といった類のものはお預かりできません。その点については誓約書の提出をお願いしております。後ほど書面にご署名を頂きますが、ご了承下さい」

「預かる側としては当然の用心だな」

「では、どうぞ中へお進みください。私はここでお待ちいたしております。金庫番号はT81でございます。中のコントロールパネルで掌紋と暗証番号をご登録いただければ、収納金庫を呼び出せる仕組みになっております」

 そう言って、ローウェルは重い金属の扉を引きあけ、二人に中に入るよう促した。

 内装こそ豪華だが、何か地下牢にでも閉じ込められる気分だった。重い扉は地獄の門を象徴しているかのようだ。

「内側からは手動で開けられるようになっております」

 京輔の不安を察してか、ローウェルは一言添えて扉を閉じた。

 臙脂色の絨毯の敷き詰められた小部屋には小さなテーブルと椅子が二脚据えられ、壁には果物を描いた静物画が飾られている。

 京輔は手に持っていたアタッシュケースをテーブルの上に置いた。

「その中に例のものが入っているのかね」

 テーブルの前に座り、アタッシュケースの鍵を開ける京輔を眺めながら、シュナウザーが問うた。

 京輔は黙ってケースの蓋を開け、中身が見えるようにシュナウザーのほうへ向けた。

 天鵞絨(ビロード)の中敷の上には香水の小瓶のようなものが並んでいた。一つ一つに凝った意匠が施されている。

 シュナウザーが一つを手にとって明かりにかざすと、淡青色の液体が透けて見えた。

「これが・・・?」

 京輔はしかつめらしく頷いた。

 ためつすがめつ手の中の小瓶を眺めた後、シュナウザーは胡散臭げな顔で瓶をケースに戻した。

「まだ、完成品ではない」

 長い沈黙の後、京輔はぽつりと言った。

「うむ」

 シュナウザーは訳知り顔に頷いた。

「完成していたら大事(おおごと)だ。研究はどの程度進んでいる?」

「世間が思うよりはるかに・・・。この分野では、世界の最先端を行っているだろう」

 自信に満ちた京輔の声は、不穏な響きを帯びていた。

「自分で飲んでいるのか」

「臨床試験の認可を取っていないのでね」

 シュナウザーは含み笑いを漏らした。

「君は狂っているよ、ヘル南雲」

 京輔はシュナウザーと目を合わせると、にたりと笑った。

「君も飲んでみるかね?」

「遠慮しておくよ。私はもう少し長生きがしたい」

 地獄で悪魔に出会ったとでもいうように、シュナウザーは怖気をふるった。

「副作用の心配をしているのか」

 京輔は相手の怯懦を詰るように言った。

「そんなもの、どうということはない。使った後、少々疲れが出るだけだ」

「薬の作用には個人差がある。その点、非合法の薬には信頼がおけん」

「被験者は多いほうが助かるんだがね」

「いや、だめだ。私には出来ん」

 シュナウザーは頑なに首を振った。

「いいものだぞ。たとえ一時的にでも、若い肉体を取り戻すというのは」

 京輔の言葉は、さながら悪魔の囁きだった。

「本当に若返るのか」

「ほんの数時間だがね」

「信じられんな」

「全盛期の気力と体力が甦る。無論、見た目もだ」

 シュナウザーはアタッシュケースの中の小瓶に目をやり、ごくりと唾を飲み込んだ。

「体の底から湧き上がってくるあの感覚を、もう一度感じてみたいとは思わんかね?世界を思い通りに出来る気分を味わえるぞ。そう、世界が君のものだったあの頃の気分を・・・」

 シュナウザーは目を細めて、京輔に視線を戻した。

「いや、実際、今の我々の力をもってすれば、文字通り世界を支配することも可能だ」

「この薬を使ってか?」

「そう。この薬と、南雲とシュナウザーの財力があれば、思い通りに世界を動かせる。かのロックフェラーやロスチャイルドのように」

 シュナウザーは半ば呆れ顔に京輔を見つめた。

「何を考えている、キョウスケ?」

「まず、南雲とシュナウザーを合併させる。それが先決だ。合併を阻止しようという動きもあるようだが、そんなものは捻り潰してやる」

「その後は?」

「我々の権力基盤を磐石に保たねばならん」

「だが、君はもう社長の座を退くつもりだろう」

「表向きはね」

「院政を敷くつもりか」

「そんな月並みなプランは立てておらんよ。会長職に就いたところで、十年もすればお払い箱だ。そこで、こいつの出番というわけだ」

 京輔はアタッシュケースから薬の小瓶を一つ取り出し、謎めいた笑みを浮かべた。

「自分の会社を乗っ取るというのも、面白いものだ」

「会社を・・・乗っ取る?」

「すでに手筈は整っている。後は計画を実行に移すだけだ」

「はっきり言ってくれないか。私には君が何を考えているのかさっぱり分からん」

 シュナウザーは、まるで未知の生き物とでも遭遇したかのような顔をしている。

「計画の第一段階は会社の合併だ。全面的な協力を期待しておるよ、ヘル・シュナウザー」

「その点に異論はない。しかし、計画の全貌が分からんことには、協力のしようもないじゃないか」

「君は君の会社で合併話を進めてくれればいい」

「しかし・・・」

 抗議しかけるシュナウザーに、京輔は薬の小瓶を差し出した。

「これを飲みたまえ。そうすれば、君を私の真の仲間として迎えよう」

「・・・」

 シュナウザーは差し出された小瓶を手に取り、それをじっと見つめた。

「踏ん切りがつかんようだな。まあ、いい。気が変わったら、連絡をくれたまえ。その瓶は持って帰って構わんよ」

 京輔はアタッシュケースの蓋を閉じて立ち上がると、金庫呼び出し用の操作盤のある台座まで進み、ローウェルに教えられた金庫番号を入力した。そして、表示板にRegistrationの文字が浮かび上がると、自らの掌紋と暗証番号を登録した。

 表示板にOthers?の文字が表れた。

 京輔は脇に下がり、シュナウザーに場所を譲った。

 シュナウザーが同じ手順を踏み、操作完了のボタンを押すと、壁の向こうで機械の作動するくぐもった音が響いた。大理石の壁の一部が観音開きに開き、台座の上に1メートル四方もある大きな金庫が押し出された。扉には電子ロックキーがついている。

「何もかもが機械仕掛けだな。電気の供給がストップしたらどうなるんだ」

 一連の機械の動きを眺めながら京輔は呟いた。

「勿論その備えはある。ここは予備電源だけで七日は持つそうだ」

「七日?核シェルター並みだな」

「実際、そうした事態も想定しているのだろう」

「大したものだ」

「暗証番号をどうするかね?」

 金庫の電子ロックキーを見下ろしながら、シュナウザーが尋ねた。

「君が設定したまえ」

 シュナウザーが設定した暗証番号を確認すると、京輔は金庫の蓋を開けてアタッシュケースを中にしまった。

「ケースの中に薬の製法を記録したデータも入れている。これまでの研究の最新データだ。私の身に何かあれば、君のほうで薬を再現できる。万が一の時には、君に研究を引き継いでもらいたい」

 シュナウザーは目をすがめて京輔を見た。

「なぜ私に?」

「誰よりも君を信頼しているからだ」

 シュナウザーは鼻頭に皺を寄せて笑った。

「その言葉を信じろ・・・と?」

 京輔は苦笑した。つくづく食えない男だ。人のことを言えた義理ではないが・・・。

「失礼・・・」

 シュナウザーはわざとらしく詫びた。

「私とあなたの仲だ。頼まれるまでもない」

 京輔は渋い顔で頷いた。

「ところで・・・」

 シュナウザーは続けた。

「南雲の次の社長には誰を指名するつもりかね?」

 京輔は小卓のほうへ戻り、椅子に腰かけた。

「まだ決めかねている」

 しばし考える風を装い、ようやくそれだけを口にした。

「私としては、北村武臣を推したい」

 北村はシュナウザーの娘婿だ。シュナウザーとしては当然の要求だろう。

「そうすると、新しい会社でのあんたの影響力が強くなる」

「いやいや。あれは私の思う通りに動く男ではない。それに、一度は私を裏切った男だ」

 シュナウザーは京輔に含みのある視線を向けた。

「ただ、私としては、形だけでも南雲との結びつきがほしい」

「我々双方の孫を結婚させるだけでは不足だと?」

 二人の間では、夏美と龍児の結婚はすでに確定した未来であった。

「それはそれ。まだ先の話だ。問題は次の世代をどうするかだ。南雲誠司・・・あなたの息子を社長に就けた場合、会社は創業者一族である南雲家の色の濃い会社になる。北村は私の娘婿には違いないが、直接血の繋がりがあるわけではない」

「今ほど、我々との結びつきがほしいと言われたばかりだが・・・?」

 京輔は指摘した。

「だからこそだ。北村ならば、我々二人の老兵と程好い距離を保つことができる」

 京輔は頷いた。

「本当のところ、私としてはどちらでも良いのだ。息子を後釜に据えるというのもやりにくいものだ。ま、いずれにせよ、あの会社は再び私のものになる」

「何を企んでいるのか知らないが、それが夢物語に終わらないことをお祈り申し上げるよ」

 現実味のない話には興味がない。シュナウザーの口調は露骨にそう告げていた。

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