第9話

「こちらには船釣りにいらしたの?」

 湯飲みに注いだお茶を客に差し出しながら、女将は尋ねた。

「いえ、そういうわけでは・・・。釣りができるんですか?」

「この辺りは漁港ですからね。釣船屋が何軒かございます」

 広縁の方に目をやると、窓外に港を見下ろすことができた。何艘もの漁船が繋がれた入り江の向こうには、はるか水平線まで海が広がっている。

「そうですか。それは知らなかったな」

 上品な顔立ちの女将は首を傾げた。一人旅の男がこの辺鄙な漁師町に他に何の用があるのか、と訝るように。

「こちらの宿は一人で切り盛りされているのですか?」

 芹野は話題を逸らした。

「ええ。繁忙期には人を頼みますけど、今日みたいにお客の少ないときは・・・」

「今年はコロナ騒ぎで大変でしょう」

「ええ。普段と比べると、めっきりとお客は減りました」

「閉めているところも多いんでしょう?」

「そのようですね。でも、うちのような小規模の旅館は開けていても閉めていても同じなんです」

「釣り客が多いんですか?」

「こちらに来られる方はほとんどがそうです」

「釣った魚はこちらで料理してもらえるんですか?」

「ええ。ご要望があれば」

「女将さんが料理されるの?」

「私がするときもありますし、近所の仕出し屋に頼むこともあります。この界隈は皆知り合いですので、持ちつ持たれつ、何とかやっています」

「そうですか。じゃあ、今度来る時は釣りでもするかな」

「今度と言わず、明日にでもいらしたらいいのに。いい気晴らしになりましてよ。知り合いの釣船屋に、明日船を出せるか聞いて見ましょうか?」

「いえ、今回は別の用事があるので」

 何の疑いも抱いていない女将を前に、どう話を切り出したものか、芹野は迷った。見れば美しい女である。落ち着いた物腰から相応の齢を重ねていることは察せられるが、その美貌にはいささかの翳りも見えない。抗し難い魅力に惹かれる心を自覚しつつ、慣れぬ探偵の真似事などするものではないな、と今さら後悔の念が頭をもたげる。

「実は人を探しています」

 しばしの逡巡の後、芹野は意を決して尋ねた。

 女将の目に警戒の色が浮かぶ。

「人を・・・?」

 他愛のないおしゃべりが途絶え、旅館の女将と宿泊客の間にぎこちない空気が流れる。

「御厨総司・・・」

 その名前を耳にした瞬間、女将ははっと息を呑んだ。

「・・・という名前です」

 芹野は鋭い目で相手の反応を窺いながら言い添えた。

 女将は感情の変化を面に出すまいと表情を硬くした。しかし、その表情の変化が何よりも雄弁に彼女の心の内を物語っていた。

「この名前にお心当たりはありませんか?」

「いいえ・・・」

 女将は消え入りそうな声で答え、首を横に振った。

「彼は南雲製薬という会社の社員です。この会社の名前はご存知ですか?」

 女将は口をつぐんで首を横に振った。

「本当ですか?」

 芹野は追及した。いやな役回りだが、ここまで来て手ぶらで帰るわけには行かない。

「こちらの旅館の名義は南雲製薬になっています。あなたがこの会社をご存知ないということはあり得ないんじゃないですか?」

 女将はきっと芹野の顔を睨み据えた。

「これ、何かの取り調べですの?」

 美しい瞳の奥の警戒は敵意に変わった。

 自分が触れてはならないものに触れてしまったことに、芹野は気付いた。やはり、ここには来るべきではなかった。

「お引き取りください」

 そう告げる女将の声は冷たかった。

「尋問するなら、最初からそう仰ればいいじゃありませんか。客のふりをするなんて、卑怯ですわ」

 目に怒りをたぎらせて彼を詰る女将に追い立てられ、まだ解いていない荷物を手に取ると、芹野はほうほうの体で旅館を後にした。

 厳しい非難を浴びた自らの行為を、芹野は恥じた。その一方で、女将の激しすぎる反応は、御厨総司の過去をますます謎めいたものにした。そこに余人に明かせぬ秘密があるという彼の疑念は確信に変わった。

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