第7話

「夏美も大きくなったね。私が知っている頃はまだ小さな女の子だったが、もう一人前の女性だ」

 スヴェン・アイゲマンは言った。

「ああ、早いものだ。あれからもう十年以上の時が経つ」

 北村武臣は峻険な山に挟まれたトゥーン湖を見下ろしながら、ドイツ語で答えた。

 スイス中部の町、トゥーン。アルプスの北壁に接する細長い湖の西端に位置する古い宿場町。急峻な山塊に沿って伸びる湖の対岸はスキーリゾートのインターラーケンだ。湖畔のカフェから見下ろす湖の情景は絵に描いたように美しい。

 二週間の夏休みを利用して、北村は家族と共にスイスを訪れていた。妻のハンナにとっては一年ぶりの里帰りになる。一家はチューリッヒにある義父の家を拠点にスイス国内を観光しているところだ。彼を誘ったのは昔の同僚スヴェン・アイゲマン。義父の経営する製薬会社シュナウザーの出世頭だ。

「お母様の美貌も受け継いでいる。君は幸運な父親だよ、タケオミ」

 アイゲマンの偽りのない賛辞に、北村は過ぎ去った十年の感慨を噛みしめた。

「君のお子さんはどうなんだ、スヴェン。確か一姫二太郎だったね」

「一姫二太郎?何だそれは?」

「日本の古い言い習わしだよ。上が女の子で下が男の子だと子育てがうまく行くという意味さ」

 日本人は面白い考え方をすると言ってアイゲマンは笑った。

「うまく行ったかどうかはわからんが、二人とももう独立したよ」

「ほう。もうそんな年か」

 北村とアイゲマンは同い年で、今年五十になる。北村は三十二でハンナと結婚し、三十三で夏美を授かった。ハンナは彼の四つ下だ。日本では決して遅くはないが、ヨーロッパ人の目から見れば少し遅いかも知れない。

「上のエマは教師になったよ。高校で歴史を教えている。下のトーマスは職業訓練校を出て、ドイツのカーメーカーに勤めている」

「ドイツか。珍しいね、スイスを出て他の国で働くというのは」

 スイスはヨーロッパ随一の裕福な国だ。国内で働くほうが給料は高いはずだ。

「何か車に携わる仕事がしたかったらしい。こと車造りにかけては一流だからね、あの国は」

「でも、大変じゃないか、国外で働くというのは」

「そうでもないさ。お隣の国だし、言葉も同じだ。ヨーロッパ内は行き来が自由になったしね。他所の国へ行ったという感覚はないな」

「シェンゲン協定か。普通は他の国の人間がスイスに来たがるんじゃないのか?」

「国内でも今そいつが問題になっている。外国人の労働者を国に入れるなってさ。昔はそんな心配はしなくてよかったんだが・・・」

「EUは域内の経済不均衡をなくしたいわけだろう」

「スイスはEU加盟国じゃない」

「今にそうは言っていられなくなるぜ」

「時代の流れというやつだな。だが、仮にスイスがEUに加盟したとしても、不均衡が是正されるとは思えんね」

「まあな。結局EU域内でも、ドイツが一人勝ちしているのが現状だ。好景気の中で、価値の低いユーロを使い続けられることがこの状況を生んでいる」

「いずれにしても、スイスがユーロを導入することはあり得んがね。我々はスイスやドイツで暮らせることをもっと感謝せねばならんのかも知れん。ところで、日本のほうはどうだい?」

「日本か。国内で格差が広がっていると言われているな。ヨーロッパのように目に見える変化はないが、格差社会なんて言葉があちこちから聞こえてくるよ」

「世界的な傾向なんだろう。それにしても、不思議だな。アメリカに次ぐ借金大国の日本が、一向に破綻する気配を見せないというのは。それどころか、日本円は世界の通貨の中でも無類の安定感を誇っている」

「借金が自国内に留まっているうちは大丈夫なんだろう。だが、実際のところ、日本はスイスのような豊かさを享受しているわけじゃない。あの国が本当の豊かさを知ることはないのかも知れない」

「物質的な側面を見ればそうかも知れない。しかし、不思議な魅力を持った国だよ、君の国は。何か底知れない力を秘めている・・・」

「そろそろ本題に入ったらどうだ、スヴェン」

 唐突に北村は言った。

「世間話をするために僕を呼び出したわけじゃないだろう」

「参ったな、武臣。旧交を温めたいと思っていたのは本当だぜ」

「いいから、言えよ。本題は何だ?」

 アイゲマンは彫りの深い目で北村を見やり、冷めたコーヒーで唇を湿した。

「いま、吸収合併の話が持ち上がっているだろう、シュナウザーと南雲製薬の・・・」

「ああ」

 北村は椅子の上で居ずまいをただした。

「君はどう思っている?」

「どう・・・とは?」

「会社の合併に賛成か、反対かということだよ」

「それを僕に聞くのか。僕はシュナウザーの義理の息子だぜ。シュナウザーは是が非でもこの合併話を成立させるつもりだ」

「跡継ぎがいないからな、シュナウザーには」

「だから孫の夏美を南雲の御曹司とくっつけて、会社の経営権を一族の手中に収めておこうとしている、と」

「そこまで露骨な言い方はしていないぜ」

 アイゲマンは抗議した。

「だが、要するにそういうことだ」

 アイゲマンは湖畔の風景を見やり、溜息をついた。

「君はどう思っているんだ、そういうやり方を」

「僕に何を言わせたい?夏美を南雲の倅にくれてやるのはいやだ、とでも言えと?」

 北村は鋭くアイゲマンに詰め寄った。

「君の本音を聞かせてくれ」

 アイゲマンの目は真剣そのものだ。

 北村は椅子の背にもたれ、溜息をついた。

「僕はシュナウザーからハンナを奪った男だ。シュナウザー製薬にいた頃は、散々世話になり目をかけてもらった相手の娘を、だ」

「シュナウザーは君に期待していたんだ。だからこそ、娘を君に託した」

「僕はその期待を裏切り、南雲製薬に鞍替えした」

「君はヘッドハンティングの対象になっただけだ。それを恥じることはない」

「いや、自分の娘を人身御供に差し出せと言われて、初めて僕は義父の気持ちが分かった。孫の結婚によって会社の合併が成立すれば、義父と夏美の間にはより強い絆が生まれる。日本にやった娘の代わりに、シュナウザーは孫の夏美を取り戻すことが出来る」

「その口ぶりからすると、君はこの結婚には反対なんだな?」

「義父と夏美の距離が縮まるのは喜ばしいことだ。二人とも、僕にとっては大切な人だからな。だが、夏美を政争の道具にしたくはない。娘には自分で決めた人生を歩んでほしい。それが親心というものだろう?」

「その通り。政略結婚など前世紀の遺物だ」

 アイゲマンは力強く頷いた。

「聞きたいなら言ってやる。僕はこの結婚話を進めたくはない」

 アイゲマンはもう一度頷き、北村のほうに椅子を引き寄せた。

「よく言った。ここだけの話だが、シュナウザーの社内にも合併に反対している者がいる。一人や二人じゃない」

 北村は視線を上げ、なぜ、と目顔で問うた。

「私もその一人だが、シュナウザーで働く我々の目から見て、この合併に利があるとは思えないのだ」

 確かに、世界有数の企業である二社が合併すれば、新しく出来た会社は製薬業界における存在感を増すだろう。その一方で、同じ製薬を生業としてる企業同士の合併でもある。企業内における同一部門は統合され、その結果、余剰人員がカットされるのは、当然予測されるシナリオだ。

 アイゲマンはそのことを言っているのだ。

「南雲製薬の主戦場はがんやアルツハイマーといった難病の治療薬の開発だ。一方、シュナウザーはインフルエンザなど流行性感冒のワクチン開発に力を入れている。それらの部門は重複することがないため、会社の合併にも意味があるように見える。だが、うちも君のところも、エイズ治療の研究をしている。こうした部門は経営合理化の名の下に整理される可能性が高い。細かく見ていけば、経営合理化の対象となる部門が他にもいくつかある。となると、二社が合併しても期待されているほどの事業規模にはならない上、何人もの人がリストラの憂き目を見る。我々はそうした状況を何としても避けたいのだ」

 アイゲマンは熱っぽく語った。

「で、僕にどうしろと?」

 北村にしてみれば、合併反対派の先鋒に担ぎ上げられるのは願い下げだ。義父や南雲社長と反対派の間に立つことは考えられない。

「君に反対運動の旗を振ってくれとは言わない。しかし、南雲の側にも、反対者がいるはずだ。誰かこちらの力になってくれる人物に心当たりはないか?」

 北村はほっと胸をなで下ろした。

「ああ、そういうことか。ならば、一人思い当たる人がいる」

「名前を教えてくれないか」

「南雲の取締役会に鹿島秀樹という男がいる。南雲社長の盟友だが、彼は一貫してこの合併に反対している。一本筋の通った男だが、頑固者だ。話を持っていくなら、慎重にアプローチすることだ」

 アイゲマンは椅子に身を沈め、思案するようにしばし口をつぐんだ。

 北村は通りかかったウェイトレスにコーヒーのおかわりを注文し、湖の風景を見やった。

 湖畔の船着場に連絡船が入ってくるところだった。この後、その船に乗ってインターラーケンまで行くことになっていた。冬場はスキーリゾートとして知られる町だ。彼らはそこを経由して、マイリンゲンという小村を目指す。名もない小さな町だが、ここにライヘンバッハの滝と呼ばれるちょっとした名所がある。『最後の事件』でシャーロック・ホームズがモリアーティ教授と対決した場所だ。シャーロキアンの北村としては、一度は訪れたいと思っていた聖地だ。

「その男はなぜ合併に反対しているんだ?」

 おもむろにアイゲマンが口を開いた。

「ああ、鹿島さんのことか」

 旅の行程に思いを馳せていた北村は、話の糸を手繰り寄せるのに少し時間がかかった。

「真に会社の発展を願うなら、創業者一族による世襲という慣例を作るべきじゃないというのが彼の考えだ。別に南雲社長と折り合いが悪いわけじゃないが、彼は一貫してそう言い続けている。正面を切って社長にものを言える人間は、うちの取締役会でも、もう彼だけかもしれないな」

「なかなか面白い男のようだな」

「ああ、社内でも彼を支持する人間は一定数いる」

「君はどうなんだ?」

 アイゲマンは面白がるように尋ねた。

「僕か?僕は体制側の人間さ」

 北村は自嘲をこめて言った。

「そういうのを日和見と言うんだぜ、タケオミ」

「日本ではそのほうがうまく行くのさ」

「日本人の処世術ってやつか。一体どうなっているんだ、日本人の精神構造は。まったく理解に苦しむよ」

「そうだろうな。ヨーロッパ流の合理主義ってやつは、日本では通用しない」

「私が不思議でならないのはそこだ。組織を運営するにも、ビジネスを進めるにも合理性は必要だろう」

「日本人に合理性がないとは言っていない。説明するのは難しいが、日本では個人よりも社会が優先される。まず社会というものがあって、個人はそれを構成する一つの要素に過ぎない」

「それはどこの世界でも同じだ。人間は社会を構築する生き物だ」

「だが、ヨーロッパやアメリカでは、個人と社会は対等だ。日本人にその発想はない」

「個人は社会の従属物ということか?」

「そういう見方も出来るな。そのほうが個人間の平等が保たれる。君たちの思う平等とは少し違うかもしれないが」

「でも、それは社会主義そのものじゃないか」

「社会主義の理念そのものが間違っているわけじゃないさ」

「しかし、社会主義の国は悉く衰退の途を辿った。失敗だったんだよ、社会主義という社会実験は・・・。二十世紀という時代がそれを証明している」

「我々は二十世紀とは違ったやり方で、その道を探しているのかも知れない。いずれにせよ、日本はソ連や中国のようにはならんよ」

「だとしても分からんね。完全に私の理解を超えている」

 アイゲマンは肩をすくめて見せた。

「考え方の違いさ」

 そんな簡単な言葉で片付けられる問題ではないが、北村はそれ以上議論を続けるのが面倒になった。

「そういうところかも知れん、私が日本の将来に不安を覚えるのは」

「それも君が会社の合併に反対する理由の一つなのか?」

 アイゲマンは頷いた。

「今の世界情勢を考えると、日本がこれまでの経済規模を保つのは困難だ。南雲の繁栄もそう長くは続かないというのが私の見立てだ。南雲とシュナウザーの合併は短期的には利があるように見えても、長い目で見れば繁栄を維持していくのは難しい。シュナウザー側から見れば、南雲の衰退に引きずられることにもなりかねない」

「確かに、今後日本の経済規模が縮小することは避けられんだろう。しかし、日本にはアジアという市場がある。さらに、南雲は世界でも勝負できる製品をいくつも持っている」

「うむ。シュナウザーもそこを見込んでいるのだろう。だが、先行きの見えぬこの時代に、それだけのリスクを冒す価値があるかどうかが問題だ。君も自分の身の振り方をよく考えておいたほうがいい。今度の合併話が不調に終わっても、シュナウザーが失うものは何もない。現状を維持できれば、我々が困ることは何もないわけだ。もし君が協力してくれれば、こちらに君の席を用意することだって出来る。重役会の議題に載せるよう、私が上層部に掛け合ってやるよ。

 何も合併などと回りくどいことをせずとも、シュナウザーも家族を取り戻せるじゃないか。そうなれば、君が合併を阻止したからと言ってシュナウザーに恨まれることもあるまい。君だって、娘を人身御供に出すような真似をせずに済む」

「僕は一旦は自分の祖国を選んだ人間だ。そう何度も宗旨替えするわけにはいかんよ」

「誰しも祖国への思いはあるだろう。だが、それを言うなら、奥さんのハンナはどうなる?夏美だって、生まれはスイスだろう?彼女にとっては、スイスも日本もどちらもが祖国だ。どこに住んでいたって、祖国を思うことは出来るさ」

 北村は腕を組んで椅子に身を沈めた。

 アイゲマンはコーヒーを運んできたウェイトレスに声をかけ、しばし地元の人間との会話に興じた。

「実は南雲の社長就任を打診されている」

 出し抜けに、北村は打ち明けた。

 アイゲマンはさして驚いた風もなく、肩をすくめて受け流すような仕種を見せた。

「受けるのか?」

「・・・」

 北村は目に戸惑いを浮かべた。

「夏美の南雲家への嫁入りと引き換えにって話だろ?」

「・・・」

「君らしくもない。そんなにまでして欲しい社長の椅子でもあるまいに」

「だが、シュナウザーはそれを望んでいる」

 目に苦渋を浮かべ、北村は吐き出すように言った。

「さっきも言ったじゃないか。君がシュナウザーに戻れば、ことは解決する。君の椅子はこちらで何とか用意するよ」

「いや、これはシュナウザーの復讐かも知れん。娘を奪ったこの僕に対する・・・」

「そいつは考えすぎだ。シュナウザーだって本当に夏美のことを思うなら、彼女の自由を奪ったりしないさ。何と言ってもかわいい孫娘だ」

「すでに南雲との間で密約が交わされているとしたら?」

 そう語る北村の顔は深い憂いを帯びていた。

「現時点での企業規模は、南雲がシュナウザーを上回っている。吸収・合併はシュナウザーにとって決して悪い話ではない」

「考えすぎさ。とにかく、こちらでも探りを入れてみるから、結論を急ぐなよ。それから、さっきの件、頼むぜ。こちらから出向くから、何とか鹿島さんとの約束を取り付けてくれ」

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