第5話

「芹野部長、聞いてくださいよ。また来たんですよ、あの男。うちの研究室に」

 石垣から程近い甲府市内の和食レストランの個室。芹野の前に座っているのは、真野明日香。昨年まで芹野がリーダーを務めていた研究チームの研究員だ。

「御厨総司のことかい?」

「そうですよ。他に誰がいるって言うんですか」

 余程腹に据えかねる事情があるらしく、明日香の口調はきつかった。普段は白衣に身を包み淡々と仕事をこなす彼女だが、仕事を離れると、時折若者らしい一面を覗かせる。

「そのことも含めて、今日は最近の研究室の様子を聞きたかったんだ。悪かったね、急に呼び出して」

「いいんですよ。部長のお誘いなら、いつでも飛んできます」

 大きな声を出したことを恥じるように、明日香は掘り込み式の座敷にしかれた座布団の上で居ずまいをただした。

「君とこうして食事をするのも久しぶりだね」

「ええ。部長の送別会以来ですね」

 最初の剣幕はどこへやら、明日香は畏まって答えた。

「その部長というのはやめてくれないか。君にそんな風に呼ばれると、どうも落ち着かない」

「まだ慣れてらっしゃらないだけですよ」

 研究統括本部長というのが、芹野の新しい肩書きだ。前の肩書きはがん治療薬開発部D研究室長だった。当時の呼称は「室長」だった。今とさして違いはないのだが、かつての部下に別の肩書きで呼ばれるのは、何か面はゆい。

「いや、さすがにもう慣れては来たんだが・・・」

 明日香は首を傾げ、おかしみをこらえるような目で芹野を見た。

「じゃあ、何てお呼びすればいいかしら」

「名前で呼んでくれればいい」

 芹野はいい加減な返事をした。

「豊さん・・・でよろしいですか?」

 かすかなあだっぽさを目の奥に湛え、明日香はからかうように言った。

「芹野でいい」

 芹野は生真面目に訂正した。

「芹野さん・・・」

 明日香はその呼び名を吟味するように呟いた。

「ううん。何だかよそよそしいな」

「それでいいよ。肩書きが変わったからと言って、人間が変わるわけじゃない」

「でも、何ていうか、お互いの距離が離れてしまった気がします」

「まあね」

 それは明日香の言う通りで、昔の部下と一緒に仕事ができないことを芹野も寂しく思っていた。

「だけど、仕事場が本社に移っただけだから、会おうと思えばいつでも会える」

「本当は研究チームに残りたかったんじゃないですか?」

 芹野は返事をせず、寂しげな目で明日香を見つめた。

「研究統括部長なんて名前だけの役職じゃない。そんな仕事、芹野さんにさせることないんですよ」

「研究者とは言っても、所詮はサラリーマンだ。会社の命令には逆らえないさ」

「でも、ずっと研究者として働いてきて、業績も上げているのに・・・。適材適所って言葉を知らないんですかね、上の人たちは」

「新しいチームはどうだい?」

 芹野は話題をそらした。

「新しいって言っても、芹野さんの研究を引き継いだだけですよ。リーダーが入れ替わって、何だか私たちが芹野さんの仕事を奪ったみたい・・・」

「そんなことはない。君たちがいたから、私は安心してチームを去ることが出来たんだ」

「でも、チームの研究は芹野さんのライフワークじゃないですか」

 芹野は苦い笑みを浮かべた。彼にも諦めきれない思いがある。理不尽な人事に対する憤りもある。しかし、雇われの身でそれを言っても始まらない。会社を去ることも考えたが、長年苦楽を共にした同僚や住み慣れた場所への愛着を断ち切ることは出来なかった。何よりも、会社に留まる限り研究チームに戻る望みはある。他の研究機関に移るとなると、また一から研究を始めなければならない。一緒に同じ研究に携わり、経験を共有してきた仲間は、彼の人生の得がたい財産だ。

「僕のほうも気にはなっているんだ。その後、何か進展はあったかい?」

「研究のですか?特に言うほどのことはないですね」

「時間のかかる研究だ。粘り強くやるしかないな」

 テロメラーゼ遺伝子を用いたがん治療薬の開発が、D研究室の研究テーマだった。

 細胞の老化に関わる、染色体の末端部分の構造をテロメアという。細胞分裂が起こるたびにテロメアは短くなり、テロメアがある一定の短さに達すると、細胞分裂は起こらなくなる。これが老化を引き起こすメカニズムだが、テロメラーゼという酵素によって短縮されたテロメアが伸張することがわかっている。つまり、テロメラーゼを用いれば細胞の老化を防ぐことができるのである。

 このテロメラーゼの性質をがんの治療に応用しようというのが、芹野の長年携わってきた研究であった。世界中の研究機関で研究が進められているが、はかばかしい成果が上がったという報告は今のところない。芹野が研究室を去って数ヶ月で劇的な成果が上がるとは考えにくいのだが、それでも自分のいた研究室のことは気にかかる。

「たまには研究室の方にも顔を出してくださいよ。本社と研究所は目と鼻の先なんだから」

 明日香は芹野の無精を責めるように言った。

「すまん。僕も新しい仕事に慣れるまでなかなか時間が取れなくて。そのうち皆の顔を見に行くよ」

「そうそう。それと、あの御厨って男、何とかしてくださいよ。うちの研究成果を全部持って行かれちゃいますよ」

「それほど頻繁に来るのかい?」

「頻繁ではないですけど、来るたびに大事なデータをごっそり持って行きます。この間なんて、調合薬のサンプルまで持ち出して・・・。あれ他所に持って行ったら、うちと同じ研究が出来ますよ。あの人、企業スパイじゃないんですか?」

「いや、それはない。彼は社長の命令で動いているだけだ」

「それはまあ、そうみたいだけど・・・。この間は、事前に社長から連絡がありましたから」

「社長直々にかい?」

「ええ。以前御厨さんが来たときに、確認を取ろうと思って、社長に連絡したんです。でも、そのときはご不在で・・・。秘書の宮内さんに聞いても居場所が分からなかったんです。あの人に聞けば大体つかまるって聞いてたんですけど・・・。多分そのときの話がお耳に入って、社長が事前にお知らせくださったんだと思います」

「そうか。いずれにしても、御厨には目を光らせておいてくれ」

「芹野さんのほうにも何か気になることがあるんですか?」

「いや。ただ、気をつけるに越したことはない、という話だ」

 会社内部の権力闘争に明日香を巻き込む必要はない。

「水臭いじゃないですか。何かあるなら言ってくださいよ」

 お茶を濁す芹野の態度を訝しんで、明日香は言った。

「こちらも何かを掴んでいるわけじゃない。今の段階で話せることはない」

「残念。もうちょっと信用されてると思ってたのになあ」

 明日香はいかにも寂しそうに呟いた。

「君のことは信用しているさ。他の誰よりもね」

「他の誰よりも・・・。会社の中では・・・でしょ?」

 明日香は意味ありげに言い募った。

「それはそうだが・・・」

「それはそう・・・か。いいですよ、会社の中だけでも」

「・・・」

 会話が怪しい方向へ向かっているのを察し、芹野は口をつぐんだ。

 明日香は何かを訴えるような目で芹野を見つめた。

「楽しかったな。芹野さんのいた研究室。でも、芹野さんがいなくなったら、何だか張り合いがなくなっちゃった・・・。私のこと世話女房気取りだなんて言う人もいたけど、悪い気はしなかったな」

「不毛な会話はよそう」

「男の人ってずるい。肝心のことになると話をそらすんだもん。芹野さん、私のことどう思ってるんですか。はっきり言ってください」

 明日香は芹野を詰り、唐突に答えを迫った。

 芹野はしばしの逡巡の後、意を決したように明日香の目を見た。

「君のことは好きだ。しかし、それは人としてという意味だ。一人の女性として君を見たことはない」

「うそ・・・自分でも分かってるくせに」

 明日香は酔いの回ったような目つきをしている。

 しかし、彼女の言う通りだった。芹野の中には少なからず彼女に寄せる思いがある。だが、それは決して言葉にしてはならない思いだ。

「僕は妻子のある身だ」

 陳腐な逃げ口上は空々しく響いた。

「逃げるんですか」

「僕にどうしろというんだ」

「分かってるくせに」

 明日香の目に涙が浮かんだ。

 彼女が彼の研究室に来て何年になるだろうか。四年・・・いや、今年で五年目だ。大学の薬学部を出て新卒で配属されているから、年齢は二十八。今年で二十九になるはずだ。その間男がいるという噂は聞いたことがない。才色兼備の彼女を他の男性社員が放っておくはずはなかったが、彼女にはそれを寄せ付けぬ頑なな雰囲気があった。とっくの昔に身を固め、年の離れた芹野にはなお遠い存在だと思っていた。しかし、今にして思えば、彼にも思い当たる節がある。彼が遅くまで研究室に残って仕事をしているとき、いつも傍らにいるのは彼女だった。それが単なる仕事熱心であったはずはないのだが、彼自身すっかりそれを当て込んでいるところがあった。仕事に直接関係のない雑用も何くれとなくこなしてくれる彼女にすっかり甘えていた。彼女が来てからは、家庭で過ごすよりもずっと多くの時間を研究室で過ごしてきた。彼が研究に没頭できたのは、彼女に負うところが大きい。彼自身、彼女と共に過ごす時間を心地よいものと感じていたし、彼女とてそれは同じだろう。そして、若い彼女の中に芹野に対する思いが募ったとしても、彼女が責められる謂れはない。責められねばならぬのは、むしろ芹野のほうだ。彼女の好意に甘え、ずっと気付かぬふりをしてきたのだから。世話女房気取りだなどという噂も、決して不当な揶揄とは言えない。プライベートの時間などほとんど持てなかったであろう四年間、研究室で芹野と過ごす時間が明日香のプライベートを兼ねていたとすれば、彼女がそこに安らぎを見出そうとしたのはごく自然なことだろう。芹野の転属により、そんな日々が突然終わりを迎えた。会社の人事異動だということが頭では理解できても、心がついていかない。女とはそんな生き物なのかも知れない。

「わかってますよ、芹野さんのせいじゃないことぐらい」

 明日香の思考は正確に芹野の思考を追ってくる。

「でも、もう少し会ってくれてもいいじゃないですか」

 しかし、それでは、会うということの意味が違ってくる。明日香が求めているのは、上司と部下の関係を越えることだ。そして、芹野自身、それを望んでいないといえば嘘になる。

「私、芹野さんの為だったらどんなことでもします。御厨さんの情報がほしいんだったら、探りを入れる方法は・・・」

「やめたまえ」

 芹野の語気強く遮った。

 明日香は驚いた顔で芹野を見つめた。

「そんなことはしなくていい。いいか。彼は君が思っている以上に危険な相手だ。自分から面倒を招くような真似はするな」

 明日香は悲しみと口惜しさの入り混じった表情で、すっと視線を逸らした。

 彼女を危険に巻き込みたくない思いから出た言葉だったが、同時にそれは明日香を傷つける言葉でもあった。それを承知してはいたが、今の芹野にはそれ以外の言葉が見つからなかった。

「分かってくれ。これは僕の心の中だけに留めておきたい問題なんだ。決して君を信用していないわけじゃない」

「じゃあ、また二人だけで会ってくれますか?」

「・・・」

 いい加減な返事は出来ない。

「会ってくれるだけでいいんです」

 真っすぐに芹野を見つめる明日香の目には、有無を言わせぬ切実さがこもっていた。

「わかった」

 逢瀬を重ねれば、会うだけではすまなくなることは分かっていた。だが、芹野は頷くしかなかった。

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