第4話

「ねえ、上杉さん、起きてよ」

 揺り動かされて目を開けると、環の弟の健人が布団の傍らに跪いている。

 昨夜はいろいろあったせいで明け方まで寝つけなかった。ようやく寝入ったと思ったら、不覚にも部屋に人が入ってきたことに気付かなかった。

「ん?どうした、健人?」

 時計を見ると、六時半を過ぎたところだ。

 健人は何かに追われているような、怯えた顔をしている。何かのっぴきならない事態が起こったことは容易に察せられた。

「何かあったのか?」

 拓海は眠気眼を擦りながら体を起こした。

「ごめんなさい。ノックしたんだけど、上杉さん、起きてこないから・・・」

 健人は混乱して、何から話してよいか分からない様子だ。

「どうした?何があったんだ?」

 拓海は健人の両肩を掴み、顔を覗き込んだ。

「ねえちゃんが・・・」

 健人は嗚咽を漏らした。

「しっかりしろ。環がどうした?」

「ねえちゃんが・・・、昨日のやつらに捕まって・・・」

「昨日のやつら?あのチンピラたちのことか?」

 健人は頷いた。

「一体何があったんだ?最初から分かるように話してくれ」

「ねえ、一緒に来てよ」

 健人は拓海の手を引いて立たせようとした。

「わかった。ちょっと待て」

 拓海は急いで立ち上がると、傍らの座椅子の背に掛けてあった服を身につけた。

 拓海に顔を洗う暇も与えず、健人は彼の手を引いて戸口へ誘った。

 六時半の山荘は人影もまばらだった。ロビーを抜けるまでに、朝風呂を浴びに大浴場へ向かう二、三人とすれ違っただけだった。

 山荘を出ると、二人は昨夜肝だめしで通った別荘地を目指した。

「おい、他にも人を呼んだほうがいいんじゃないか?」

 十分な説明もしないまま先を急ぐ健人の後ろから、拓海は問いかけた。

「あいつら、上杉さんだけ呼んで来いって・・・。他の人には言うなって」

 やはり、敵の狙いは自分なのか。

 拓海は意の腑に鉛を詰められたような気分だった。しかし、環が向こうの手に落ちたとなると、行かないわけにはいかない。

「環はなぜ捕まったんだ?朝からあの場所まで行ったのか?」

 健人は頷いた。

「昨日あの恐い人たちに囲まれた時、おれ、父さんに電話をかけようと思って、電話を出したんだ」

「携帯電話か?」

「うん。子供用のちっちゃいやつ。何度もかけようとしたんだけど、圏外で繋がらなくて・・・。そしたら、上杉さんがあのヤクザと喧嘩を始めて・・・。おれよく覚えてないんだけど、あのとき電話を落としちゃったみたいなんだ。会社の人が来て、助けてくれただろ?早く行けって言われて・・・。皆慌ててたから、電話のことなんか気にしてられなかったんだ」

「それで今朝取りに戻ったのか」

 健人は頷いた。

「なぜ、俺か龍児に言わなかった?」

「ねえちゃんがだめだって・・・。それに、朝早く行けば誰にも会わないだろうって」

 拓海は奥歯を噛みしめた。

 環は拓海の身を案じたのだ。万が一、あのヤクザたちと鉢合わせたら、今度こそただではすまない。そう思ったのだ。

「お父さんかお母さんには相談しなかったのか?」

 健人はかぶりを振った。

「昨日帰った後、その話をしたら、もう子どもだけで外に出ちゃだめだって言われたから・・・」

「それで二人だけでこっそりと外へ出たのか。なぜ、携帯電話のことも話さなかったんだ?」

「・・・」

 健人は黙りこんだ。

「叱られると思ったのか?」

 健人は小さく頷いた。

 やれやれ。ちょっとした偶然が重なって、大事になってしまった。

「山荘を出たのは何時ごろだ?」

「五時過ぎぐらい」

 山荘から件の別荘まで普通に歩けば二十分ほどだろうか。そろそろ人が起き出していてもおかしくない時間だ。

「携帯は見つかったのか?」

 健人はかぶりを振った。

「昨日は夜だったから、どの辺に落としたか分からなくて・・・」

 辺りを探し回っているうちに、昨日の連中に見つかったのだ。

「で、連中が出て来て、捕まったんだな?」

 健人は頷いた。

「あいつら、俺だけ逃して、上杉さんを呼んで来いって・・・」

「連中、俺の名前を知っていたのか?」

「ううん。喧嘩の強い兄ちゃんを連れて来いとか何とか・・・」

 ひとまずそれを聞いて安心した。先方の目的が昨夜の報復だけなら、話は早い。とにかく連中の気の済むようにさせて、環を助け出すだけだ。また一騒ぎ起こすことになるが、向こうがその気ならとことんやるまでだ。

 健人が拓海を起こしにきた時間から考えて、環が連中に捕まった時間は六時前後だろう。もう四十分ぐらい時間が経っている。拓海の心ははやった。

 ようやく昨夜目印にしたと思しき別荘が見えてきた。

「あの別荘だな」

「うん」

「よし、健人。お前は山荘に戻って、このことをお父さんに知らせてくれ」

 拓海は足を止め、健人の肩を掴んだ。

「でも・・・」

 健人はためらいを見せた。

「大丈夫だ。お前の姉ちゃんはおれが必ず助け出す。でも、その後のことはおれの手には負えない。大人の助けが必要だ。お前のお父さんならうまく対処してくれるはずだ。いいか。まっすぐお父さんのところへ行くんだぞ」

 御厨への不審が心にわだかまり、今は誰を信用していいか判断がつかなかった。拓海が直接知っている相手で信用できるのは、環の父、芹野豊だけだった。

「う、うん」

 健人は拓海の剣幕に押されて頷いた。

「走れ」

 拓海に背を押されると、健人は今来た道を駆け戻っていった。

 木々の狭間に健人の姿が消えると、拓海は振り向いて、不気味に佇む別荘に向かって歩き出した。丸太を組んだ木造の建物はしんと静まり返り、人の気配がしなかった。中から洩れてくる明かりもない。

 妙だな。

 変な胸騒ぎがした。

「こっちだ」

 拓海が玄関口へ上る階段に足をかけると、横手から声がした。

 振り向くと、派手な柄のシャツを着た男が手招きし、建物の裏手まで拓海を案内した。

 ちょうど建物の真裏、表の道からは隠れたところに、車庫兼物置のような小屋があった。前面のシャッターは上がっており、小屋の前に大型のバンとSUV車が停めてある。奥を覗くと、暗がりに数人の男が屯していた。

 隅のほうに環の姿を認め、拓海はほっと胸をなで下ろした。作業用の椅子か何かに座らされている。

 拓海の姿を認めると、環は気丈に頷いて見せた。怯えと安堵の入り混じった目で彼を見つめている。

 拓海は環を安心させるように、頷き返した。胸にふつふつと怒りがこみ上げる。

「遅かったな。一人だろうな?」

 拓海の姿を認めると、一座の一人が声をかけてきた。昨夜、アニキと呼ばれていた男だ。

 拓海はまず敵の人数を確認した。

 小屋の中にいるのは六人。他にもいるかもしれないが、とりあえずこれだけは相手にしなくてはならない。

「高校生相手に人質をとるなんて、案外臆病だな、ヤクザってのも」

 拓海は静かに言い放った。

「おめえを呼び出すための餌よ」

「その子を放せよ。もう用はないだろ」

「放してやるさ。おめえと話がついたらな」

「話すことなんかないだろ。かかって来いよ」

「おお、おお。すっかりやる気だぜ、この小僧。本気でこの人数を相手にしようってのか」

 男たちの冷やかすような笑い声が広がった。

「お前たちが相手じゃ、負ける気はしないな」

 油断なく一人ひとりに目を配りながら、拓海は相手を挑発した。

「言ってくれるじゃねえか。だがおれ達にも面子ってもんがある。大の大人がよってたかって子どもをいたぶるなんて真似はしねえ」

 拓海の前に男が一人進み出た。昨日拓海にのされた男だ。

「エイジ。二度もおれに恥をかかすんじゃねえぞ」

 兄貴分が後ろから声をかけた。

「へい」

 エイジは拓海に目を据えたまま答えた。

「ぼうず。そいつに勝ったら、おめえのお友達は返してやる」

「そんな約束していいの?この人じゃ、おれに勝てないよ」

「大人なめんのもたいがいにせいや、こぞう。エイジ、たたっ殺したれい」

 その発破を合図にエイジはじりじりと間合いを詰めてきた。慎重に身構え、拓海の動きを牽制する。

 だが、拓海は躊躇しなかった。地を蹴って一気に間合いを詰め、相手の鼻面に先制の一撃を見舞った。間髪をいれず裏から回した足を相手の首にかけ、腕を絡め取って全体重を相手に預ける。

 ズン。

 巨体が音を立ててコンクリートの地面に倒れた。

「あう」

 股にはさんだ腕を捻ると、相手は思わずうめき声を漏らしたが、拓海は容赦しなかった。梃子の原理でそのまま腕を逆にねじりあげた。

 ゴリ。

 関節の外れるいやな音がした。もしかすると骨が折れたかもしれない。

 だが、そんなことにかまっている余裕はなかった。あと五人相手にしなければならない。声もなく腕を押さえてうずくまっている相手を尻目に、すばやく立ち上がると、兄貴分と対峙した。

「さあ、約束だぜ。彼女を放せ」

 兄貴分は拓海と目を合わせず、うずくまっているエイジを蔑むような目で眺めた。

「こいつはねえぜ、エイジよ。二度はねえって言ったよな。おめえのおかげで面目丸つぶれだぜ。この落とし前どうつけるつもりだい」

 その声が聞こえているのかいないのか、エイジはうずくまって腕を抱えている。

「おい」

 兄貴分は他の仲間に視線を走らせた。

「大人をなめたらどうなるか、このガキに教えてやれ」

 四人のチンピラが拓海を取り囲んだ。

「あれ、さっきの約束は?」

 拓海は殊更呆れた口調で相手を弄った。

「てめえと約束をした覚えはねえなあ」

「だから半端者なんだよ、あんた達は」

「ガキの分際で、このおれに説教垂れようってのかい。何してんだ、おめえら。こんなガキにいつまでも減らず口たたかせんじゃねえ」

 拓海を包囲する輪が縮まった。

 四人はいずれも百八十センチの拓海を上回る体格の持ち主だった。しかし、拓海の戦いぶりを見た彼らは、完全に萎縮していた。体力自慢で生きてきただけに、相手の強さを見抜く本能は人一倍なのだろう。

 二の足を踏む四人の輪に、拓海は自分から突っ込んで行った。正面の男の顔に拳をめり込ませ、引き寄せた足でそのこめかみに蹴りを入れる。相手は膝を折り、そのまま地面にくず折れた。

 二人。

 心の中で倒した相手の人数を数える。

 拓海の動きを止めようと、三人目が彼の腰をめがけて突進してきた。その顎に膝蹴りを食わせたが、相手は構わず拓海の腰にしがみついてきた。拓海は上げた足を相手の内ももに滑らせてはね上げると同時に、くるりと体を入れ替えた。相手の両肩を押さえて、そのまま頭から地面にたたきつける。側転の要領で相手の体の向こうに着地し、すぐさま残りの二人に向き合う。

 三人。

 残った二人は同時に殴りかかってきた。しかし、バランスの崩れた攻撃をかわすのは造作もなかった。相手の繰り出した腕の内側に拳を滑らせてカウンターを食らわせ、その反動を利用して、もう一人の胸部に横蹴りを見舞う。カウンターを食った相手は、そのまま地面に伸びてしまった。

 四人。

 蹴りを喰ったほうはかろうじて踏みとどまったが、すでに攻撃のタイミングを逸していた。拓海が踏み込むと、顔面をガードするのがやっとだった。鳩尾に蹴りを入れて、体がくの字に折れたところを、顎に鉤突きを入れた。意識が飛んで白目を剥いている相手に、拓海はとどめの一撃を食わせた。

 五人。

 拓海は怒っていた。

 最後の一人、兄貴分と向きあった時、その手に拳銃が握られていることに、拓海は初めて気付いた。

「やるじゃねえか。こいつらが束になっても敵わねえとは、呆れた強さだ。だが、お遊びはここまでだ」

 兄貴分はゆっくりと拳銃を持ち上げ、拓海の額に銃口を向けた。

 拓海は構えを解き、真正面から相手と向き合った。

「ほう、いい度胸だ。それとも、頭のねじが一本ぶっとんでるのか」

 兄貴分は自分の優位を毛ほども疑っていないようだ。

 拓海は相手を見据えたまま足を踏み出した。

「動くと撃つぜ」

 兄貴分は腕を伸ばし、拳銃を前に突き出した。

「撃てるのかよ」

 拓海はさらに一歩前に踏み出した。相手から視線は外さない。

 絡み合う視線の中で二つの意思がぶつかり合う。

 さらに一歩。

 突如、相手は腕を翻し、銃口を部屋の隅に向けた。

「動くなっつってんだろう」

 銃口の先には環がいた。

 拓海は止まった。選択の余地はなかった。

「よし、それでいい。最初からそうしてりゃいいんだよ」

 その時、横から人影が飛び出し、兄貴分の前に立ちはだかった。銃口の前に身を晒し、銃と環の間の軌道を塞いでいる。

 エイジだった。折れた方の腕がだらりと体の横に垂れている。

「エイジ。てめえ、何のつもりだ」

「アニキ、もうやめましょうや」

「どけ、エイジ」

「おれ達の負けだ。ここまでやられちゃ、お手上げだ。相手が悪かったと思うしかねえ」

「てめえが役立たずだからだろうが。どけ」

「上島さん、みっともねえ真似はやめてください」

 エイジは拳銃を上から掴み、スライド部分を押さえ込んで引き金を引けないようにした。

 名前を呼ばれた男は目を剥いてエイジを睨んだ。

「おれに逆らったらどうなるか分かってるよな?」

「承知の上でさ。もうあんたにゃ、ついていけねえ」

「何だと?」

「子ども相手に拳銃(ハジキ)向けるなんざ、極道の名が泣きますぜ」

「てめえがだらしねえからだろうが」

「じゃあ、自分で相手しなよ。こんなオモチャ振り回さずにさ」

 エイジは手の中の拳銃をねじり、上島の手からもぎ取った。

 上島は抵抗しなかった。エイジを睨む目には怯えが浮かんでいる。

「親に逆らってただで済むと思うなよ」

「ガキとの約束も守れねえ人間に親は務まりませんや」

「何ぃ?」

「そろそろずらかった方がいいんじゃねえですか」

 エイジは痛む手で銃のスライドを引き、銃口を上島に向けた。

「そう簡単に抜けられる世界じゃねえぜ、エイジ。お前の入った世界はな」

 捨て台詞をはくと、上島は他の子分と共にぞろぞろと小屋を出て行った。

 エンジンのかかる音に続き、車の走り去る音が響いた。

 ひとまず、危機は去ったようだ。

 片手で拳銃を弄んでいるエイジに警戒の目を向けつつ、拓海は環のそばへ駆け寄った。

 環は椅子を蹴って立ち上がると、拓海の胸に飛び込んできた。

 思わぬ展開に戸惑いつつ、拓海は環の両肩にそっと手を置いた。

「ごめん。おれのせいで・・・」

「ううん。拓海君のせいじゃない」

 環は拓海の腕の中でかぶりを振った。

「いや。おれのせいだ。お前の言う通りだよ。喧嘩ばかりしてたら、今に取り返しのつかないことになる」

「でも、私を助けにきてくれた」

「いや、おれがお前を巻き込んだんだ」

「でも・・・」

「いや、そうなんだ。おれがこんな人間だから、厄介ごとが起こるんだ。昨日だって、おれが手を出さなきゃこんなことにはならなかった」

「でも・・・」

「すまない。本当に取り返しのつかないことになるところだった」

「聞いて」

 環は拓海から少し離れ、真正面から彼を見据えた。

「助けに来てくれて、嬉しかった」

「・・・ああ」

 拓海には他に答えるべき言葉が見つからなかった。

「邪魔して悪いがよ、お二人さん」

 声のしたほうを振り向くと、エイジがそばまで来ていた。

「お暇する前に、一言言っておきてえ」

「・・・」

 拓海は目をすがめて相手を見つめた。急場を救ってはくれたが、信用してよいものか、判断がつかない。

「おめえ、上杉拓海ってんだろ。参ったぜ。高校生でここまでやる奴がいるとはな」

「なぜ、おれの名を?」

 嫌な予感に、胸が沈む。

「まあ、聞け」

 エイジは手に持っていた拳銃をポケットにしまい、空いた手で痛めた腕をさすった。

「おれはな、この腕一本で生きてきた男よ。ガキの頃から喧嘩に明け暮れて、負けたことがねえと言やあ嘘になるが、ここまでこてんぱんにやられたのは初めてだ。ショックだぜ。腕っぷしの強いのだけが自慢だからな、おれは・・・。お前を殺って、ムショへ行く覚悟も出来てたってのに・・・」

「おれを殺すつもりだったの?」

 驚きを通り越して笑いがこみ上げてきた。余りにも子どもじみた発想だ。なのに、話している本人は大真面目だ。

「場合によってはな」

「場合によっては?」

「最初は、お前を痛めつけるだけの予定だった。だが、昨日の一件で、お前の強さが分かった。こっちも命とるぐれえのつもりでかからなきゃ、足下をすくわれる。それでお墨付きをもらったわけさ」

「お墨付き?」

 この男は何の話をしているのだろう。

「あの男・・・。名前は知らねえが、昨日騒ぎを止めに入った男だ」

 御厨のことだ。

「あいつには気をつけろよ。少し前の事になるが、あいつがうちの事務所に来て金を置いて行きやがった。たかが高校生のガキ一人痛めつけるのに一千万だ。その時だよ、あいつがお前の名前を告げたのは。お前の顔写真を添えてな」

「一千万・・・」

 途方もない金額だ。

「ああ。今日びそれだけ払や、人殺しを請け負う奴だっている。昨日お前たちが帰った後、あいつと話し合ったんだ。そしたら、あいつこう言いやがった。こっちがその気なら、それでいいと」

「それでいいって・・・、おれを殺すってこと?」

 現実味のない言葉に滑稽さが滲む。

「命狙われてんのはお前だぜ。ちっとは真面目に聞けよ」

 エイジは気分を害したように言った。

「ヤクザなんてのは、世の中で行き場を失った人間の集まりでな、まっとうな世界じゃ生きられねえ奴ばかりだ。鉄砲玉やれって言われりゃ、皆喜んでやるよ。娑婆にいるよりはムショ暮らしのほうが楽だからな」

「でも、なぜおれが?」

「そんなことは知らねえ。とにかくお前は命を狙われている。せいぜい気をつけるこった」

 ふいにポケットから拳銃を取り出すと、エイジは利かぬ手でもどかしげに弾倉を外し、装填された弾丸を抜きとった。それを弾倉に詰め直してグリップエンドに押し込むと、拳銃を拓海に差し出した。

 その意味が分からず、拓海はエイジに問いかけるような眼差しを向けた。

「また、お前のところに妙な連中が現れるかも知れねえ。身を守るもんが必要だろう。持って行け」

 何を言っているのだ、この男は。高校生に拳銃を持たせるなど、まともな人間の考えることじゃない。

 だが、エイジの目は真剣だった。

「グロック17。オーストリア製の軍用拳銃だ。弾は十七発。撃つ時は安全装置を外して上部をスライドさせる。あとは引き金を引くだけだ」

 安全装置の外し方を示して見せた後、エイジは拓海の手に拳銃を押し付けた。

「なぜ、こんなことを?」

 押し付けられた拳銃を呆然と眺めながら、拓海は訊いた。

「おれは強えやつが好きだ。ただそれだけだよ」

 エイジは真面目な顔でそう言うと、踵を返して去って行った。

 拓海が気づいたときには、その姿は木立の向こうに消えていた。

 どうしよう。

 拳銃を手に立ち尽くしたまま、拓海は環のほうを見た。

 環は忌まわしいものでも見るように、拳銃に視線を落とした。

「持っていたほうがいいと思う」

「え?」

 意外な言葉に、拓海は我が耳を疑った。

 拳銃などトラブルの元だ。

 環ならそう言うと思っていた。

「もしあの人の言ったことが本当だったら・・・、拓海くんの命が狙われているとしたら、次はこれぐらいじゃすまない。さっき、拓海くんが銃を向けられたとき、私、心臓が止まるかって思うほど恐くて、声を出すことも出来なかった。その銃が今度は私に向けられて、本当に殺されると思った。向こうがそんなものを持ってたら、こっちは身を守る術もない・・・」

 銃を向けられたときの恐怖は、実際にそれを経験した者でないと分からない。

 拓海は手の中の銃をじっと見つめた。

「私、そのピストルのことは誰にも言わない。だから、拓海くん、それを持っていて。あの人も護身用だって言っていたでしょ」

 拓海は曖昧に頷いた。

 そうすることが正しいのかどうかは分からない。だが、ことは正しいとか間違っているという問題ではない。そうしなければ自分の身を守ることが出来ないのだ。

 二人して小屋を出ると、環の父、芹野豊が別荘の建物の向こうから現れた。携帯電話を耳にあて、誰かと話している。二人の姿を認めると、ほっとした表情を浮かべ、電話の向こうの人物に何かを告げ、電話を切った。そして、二人に向かって手を上げた。

「警察に電話したよ。ここの住所が分からなかったのでね。今確認して電話したところだ。もうすぐここへやって来るだろう」

 そう告げる芹野の息は荒い。ここまで走ってきたようだ。

「会社の人たちは?」

 他に誰もいないことを訝しんで環が尋ねた。

「会社の人間には話していない。今は誰を信じていいのか分からない。ここまでは健人に案内させたが、健人はすぐに帰らせたよ」

 芹野は娘を安心させるように言った。

「ところで、君を誘拐した連中は?」

 環はくすりと笑った。身の安全が確保されると、誘拐という言葉が少し大げさに感じたのだ。

「拓海くんがやっつけてくれたよ」

 芹野は娘の顔をまじまじと見つめ、それから拓海に視線を移した。

 拓海は芹野に対して合わせる顔がなかった。どんな顔をしてよいのか分からなかった。

「すみません。また環さんを危険な目に遭わせてしまいました」

 芹野と目を合わせていられず、拓海は深々と頭を下げた。

 芹野は思案顔に頭を下げる拓海を見つめた。拓海の服はしわくちゃに乱れ、土埃にまみれていた。

「違うの、パパ。拓海君は私を助けてくれたの。私を守って・・・」

「何があったか話してくれるかな」

 拓海を弁護しようとする環の言葉を遮り、芹野は言った。その声は穏やかで、咎め立てる風はなかった。

 拓海と環は互いに言葉を補い合いながら、一部始終を語った。相手が拳銃を持ち出した件を除いて・・・。

 話を聞き終わった芹野の額には深い縦皺が刻まれていた。

「やはりこの一件には御厨が噛んでいるんだな」

「エイジってヤクザはそう言ってました」

「それにしても、一千万なんて金を一体どこから用意したんだ」

「会社のお金じゃないんですか?」

「だとしても、一介の秘書が自由にできる金額じゃない」

「御厨のバックに誰かいるってことですか?」

「うむ。考えたくはないが、我々の感知しないところで何かよくないことが起こっているようだ」

 芹野は具体的な話には踏み込まず、それだけ言うにとどめた。

「ところで、君と北村さんの娘との関係だが・・・」

 代わりに、昨日露天風呂で話したときには触れずにいた話題を持ち出した。

「関係と言っても、ただ同じ学校に通っている友達というだけで・・・」

 拓海はちらりと環のほうを見て、言葉を濁した。

 拓海と視線が合うと、環も気まずそうな表情を浮かべた。

 拓海に後ろ暗いところはないが、環の前で夏美の話はしたくなかった。

 それぞれが心に抱いている淡い思いを、お互いに感じてはいた。しかし、それを確かめ合う術も機会も持たぬまま中学を卒業し、再会を果たしたばかりの二人だ。奇しくも今日、拓海はその腕に環を抱いたが、それは危機的な状況を脱した後の、一時的な感情の高ぶりのなせる業だ

 「熱を上げているのは、夏美ちゃんの方みたいだね」

 環の表情がかすかに強ばる。

「でも、それは・・・」

 夏美には何の咎もない話だ。

「勿論、夏美ちゃんが責められる謂れはない。昨日風呂で会った時も同じ話をしたね。しかし、大人たちがこうも強引に首を突っ込んでくるとなると、そう暢気に構えてもいられない。もし君にその気がないのなら・・・」

「やめて、パパ」

 環が芹野の言葉を遮った。

「パパが口出しする事じゃない」

 いつになく強い口調だった。

「しかし・・・」

 娘の剣幕に押されて、芹野は空に目を彷徨わせた。

「そろそろ警察が来るな」

 芹野は腕時計を見て、お茶を濁した。

「二人に頼みがある」

 芹野は真剣な表情に戻って言った。

 切迫した声に、二人は芹野の顔を注視した。

「御厨のことは警察には伏せておいてくれないか」

「どうして?」

 環が問うた。

「どういう形にせよ、会社と暴力団との関わりが明るみに出れば、スキャンダルになる。それで企業イメージが下がれば、会社にとって大きな損失だ」

「そんなこと・・・」

「私たちの生活もかかっている」

 芹野は娘の反論を封じた。

「私たちだけじゃない。南雲製薬はたくさんの人の生活を支える大企業だ。何としてもスキャンダルは避けなければならない。御厨のことは警察が調べても大したことは出て来ないだろう。スキャンダルになれば、彼は切られる。これがどういう意味か分かるね?それよりもしばらくは彼を泳がせておくほうがいい。私のほうでも内密に調査を進めてみる。だから、少し時間をくれないか」

 拓海は考えた。

 肝心なのは、御厨の後ろで糸を引いている黒幕を暴き出すことだ。だが、御厨が罪を背負えば、捜査はそこで終わる。事件の背後にあるものを警察が嗅ぎ出すことはないだろう。ことの全貌を明らかにするには、当面は御厨を泳がせて、その間に黒幕を突き止めるほかない。

「わかりました。御厨のことは黙っておきます。おれ達はヤクザともめて、喧嘩になった。それでいいですね?」

 芹野は頷いた。

 環は承服しかねる顔をしているが、拓海の顔を見ると不承不承頷いた。

「調査の進捗状況はおれにも教えてください」

「勿論だ。ことをどう収めるかについても、君とは相談しなければならない。結局のところ、スキャンダルを避けることは出来ないかも知れない。だが、我々で出来るだけのことをやってみよう」

 その後警察が到着して型どおりの尋問が行われた。環と拓海は口裏を合わせつつ、ことの次第を説明した。

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