第3話

「やあ、上杉君だね」

 湯煙の向こうから近づいてきた人影が拓海に声をかけた。

 拓海が顔を上げると、四十がらみの優男がにっこりと微笑んだ。

 環の父親だった。直接言葉を交わしたことはないが、面差しが環と似ている。宴席でも環の隣に座っていたので、顔を覚えていた。

「芹野環の父です」

 波を立てぬように拓海の隣まで来ると、芹野はゆっくりと肩まで湯に浸かった。

 拓海は湯に浸かったままペコリとお辞儀した。

「今夜うちの子供たちが助けていただいたそうだね」

 拓海はどう答えてよいかわからなかった。見方によっては助けたことになるのかも知れないが、行きがかり上そうなっただけだ。

「環の話では、以前にも同じようなことがあったそうだね。そのせいで、君に大変な迷惑をかけたと聞いたけど・・・」

「それは環さんのせいじゃないんです。俺が我慢すればよかっただけの話で・・・」

「拓海、どこだ?」

 ばしゃばしゃと湯を蹴立てて龍児が近づいてきた。浴場での作法などあったものではない。

「あ、すみません」

 拓海の隣にいる芹野に気付いて、龍児は詫びた。

「君は南雲龍児君だね。芹野環の父です」

 拓海の時と同じように、芹野は穏やかに名乗った。

「あ、環ちゃんの・・・。どうも、今晩はっス」

 二人の間に割って入ることを躊躇うように、龍児はもじもじと立ち尽くした。

「二人とも、外へ出ないか」

 芹野は身ごなしよくすっと立ち上がった。やはり湯舟に波は立たない。

 芹野は二人の先に立ち、露天風呂へ続く扉を開けた。

 崖上に設えられた岩風呂の淵に三人は思い思いに腰を下ろした。

 月明かりに照らされた渓谷から吹き上げる夜風が、湯に火照った体に心地よかった。

「君にも助けてもらったそうだね、龍児君」

 芹野は龍児に向かって深々と頭を下げた。

「いや、俺は別に・・・、何もしてないっス」

 すぐに話題を察したものの、父親と同年輩の大人に頭を下げられて、龍児は戸惑った顔で頭を掻いた。

「実際、あの場を救ってくれたのは御厨さんです」

 御厨というのがあの秘書の名前らしい。

「御厨総司君だね」

「あの人を知っているんですか?」

 同じ会社の社員として、芹野が御厨を知っていることに不思議はない。しかし、その問いは拓海の口をついて出た。

「社長秘書という触れ込みだね」

 芹野は含みのある言い方をした。

「触れ込み?」

 拓海はその言葉に食いついた。

 答えたものかどうか判じかねる様子で、芹野はしばしの逡巡を見せた。

 その間は、拓海が御厨に抱いた不審を深めるには十分だった。

 拓海が御厨に対して不審を抱く理由は二つあった。

 御厨が龍児の御目付け役として影から拓海たちの行動を見張っていたことは頷けるとしても、御厨が現れた後、ヤクザ者たちがやけにあっさりと引き下がったことが腑に落ちない。あの手の輩はとにかくしつこいのが常だ。

 もう一つは、御厨が現れる前にヤクザの兄貴分が発した言葉だ。

「エイジ、そっちのやつじゃねえ」

 その言葉が記憶の底にこびりついている。

 あの時は頭に血が上っていて気にも留めなかったが、後で思い返してみると妙だ。

 あの時龍児に襲いかかろうとしていた男は、突然向きを変えて拓海に向かってきた。

 あのヤクザの一味の襲撃は仕組まれたものではなかったのか。

 だとしたら何のために?

 もしかすると、標的は自分ではなかったのか。

 拓海はそこまで疑っていた。

 誇大妄想と言われればそれまでだが、芹野の態度は御厨という男の怪しさを裏付けているようにも見える。

「とにかく謎の多い人物でね。社長の肝煎りで秘書課に配属されたんだが、彼の勤務実体は誰も知らない」

 芹野の言葉にも少なからぬ不審が滲む。

「でも、うちのじいちゃんはあの人を信用してますよ」

 芹野と拓海は龍児のほうを見た。

「うちにじいちゃんの書斎があるんだけど、じいちゃん、その書斎には誰も入らせないんです。身内の親父にさえ。でも、ある日ひょっこり現れた御厨さんが、勝手知ったる顔でじいちゃんの書斎に入って行ったんです。あの部屋は普段厳重にロックされていて、じいちゃん以外の人間は入れないようになってる。でも御厨さんはロックを解除する特殊なキーとパスコードを持ってる。それ以来、じいちゃんの使いだって言ってはしょっちゅううちへ出入りするようになって・・・。じいちゃんも御厨には自由にさせておけって言ってます」

 龍児の話に芹野は頷いた。

「社長が彼に全幅の信頼を置いていることはたしかだが、彼が社長の命令で動いているのか、彼自身の裁量で動いているのかさえ、我々には分からないんだ。時に研究の極秘データを持ち出すこともあってね。いくら社長のお気に入りとはいえ、少し度が過ぎる。今や研究開発本部では、御厨を社長と同列に扱う連中までいる」

「じいちゃんは御厨を次の社長に据えるつもりなんじゃ・・・」

「いや、それはない。今夜の社長のスピーチを聞いただろう。次の社長は君のお父さんか北村さんのどちらかだ。御厨は若すぎる。それに、会社の通常の業務との関わりが薄い」

「というと?」

「社長には御厨の他に二人の秘書がついている。通常の秘書の業務は彼らが十分にこなしている。御厨は実質的には秘書の仕事はしていない」

「御厨は何か別の目的のために雇われている、と?」

 芹野は頷いた。

 露天風呂には他に誰もいなかったが、芹野は他聞を憚るように辺りを見回し、声をひそめた。

 龍児と拓海は芹野の声が聞き取れるように、身を寄せて背を丸めた。

「新薬の開発こそが製薬業の要だということは、君たちにも分かるね?社長自身、アルツハイマー病の治療薬の開発に成功したからこそ、この会社を立ち上げる事が出来た」

 二人は頷いた。

「南雲製薬にはいくつもの研究チームがあり、そのそれぞれが日夜新薬の開発に向けて研究を続けている。その中に特に社長直々の任務を受けたチームがある。どのチームが特務を受けているのか、彼らが何をしているのかを知る人間は社内でも少ない。そもそも新薬の開発というのは、個人の研究の成果でもあるわけだ。特許権の絡む問題でもあるし、たとえ同じ会社の中であっても、自分の研究内容は秘密にしておきたいのが人情だ。必要な場合には協力はするが、研究の核心を秘匿するのは何も珍しいことじゃない」

「御厨はその特任チームとじいちゃんを結ぶ連絡係ってことですか?」

 芹野は頷いた。

「芹野さんは特任チームのメンバーなんですか?」

 芹野はふと空を見上げ、寂しげに微笑んだ。

「だったと言うべきかな。私は外されたよ。お聞き及びかも知れないが、私はこの春に研究所から本社に転属になった。端目には栄転と映るだろうが、体のいい厄介払いさ」

「でも、御厨さんとは今でも仕事上の関わりがあるんですよね?」

「特任チームを外れた私に、御厨は何の用があるのか、ということだね?」

「いや、別にそんな意味では・・・」

 龍児はごにょごにょと言葉を濁した。

「いいんだ。君の指摘はごもっともだ。これは私の憶測に過ぎないが、私を監視することも御厨の任務の一つなのだろう。私の子飼いの研究チームだったからね、私が任されていたD研究室は。D研究室の取り組んでいる薬の開発は私の研究テーマでもある。私の握っている情報を外に持ち出されては困るというわけだ」

 芹野はなぜ特任チームを外されたのか。

 それを尋ねるのは憚られた。何か複雑な事情があることは察せられたし、それは極めて個人的な問題かも知れない。

「それってどんな研究なんですか?」

 龍児は遠まわしに尋ねた。

「たとえ社長のお孫さんでもそれを話すわけにはいかない。企業秘密というやつだよ。私が言えるのは、御厨がおそろしく医学と薬学に精通しているということぐらいだ。おそらく、相当高いレベルの教育を受けているはずだ」

「御厨さんと個人的なお付き合いはないのですか?」

 拓海が尋ねた。

「いや。私を含めてどの社員とも親しくしている様子はないな。彼からの電話はいつも非通知設定になっていてね、こちらから連絡をつけることは出来ない」

「向こうはこちらの番号を知っているのに?」

 芹野は頷いた。

「連絡がつくのは、向こうが電話してくるときだけだ」

「芹野さんから見て何か怪しいところは?」

「怪しいところだらけだよ。なのに、彼は社長から全幅の信頼を得ている。それは疑いようのない事実だ」

「なぜ俺たちにこんな話を?」

「忠告しておきたかったのさ」

「忠告?」

「君たちはまだ子供だ。その君たちを会社の権力闘争に巻き込もうとする彼らのやり口には、どうしても賛同できなくてね」

 龍児の顔が険しくなった。

「俺と夏美の関係のことですか?」

「私が口出しすべき問題じゃないことは分かっている。しかし、自分の子供に危険が及んだとあっては、黙っているわけにはいかない」

「でも、それとこれとは・・・」

「今夜君たちを襲った連中が、ここにいる上杉君を狙ったのだとしたら?」

 芹野は龍児の言葉を遮り、拓海に視線を向けた。

「でも、拓海は会社とは何の関係も・・・」

 龍児の声は尻すぼみに消えていった。

「君と上杉君が学校で起こした乱闘事件は、うちの社内でも噂になっていてね」

 龍児は神妙な顔で頷いた。話の筋が見えてきたようだ。

「原因は北村夏美さんだった」

「それは・・・」

「あくまでも噂だ。だけど、当たらずとも遠からず、というところだろう」

「・・・」

 龍児は黙り込んだ。

 拓海は龍児を弁護したい衝動に駆られた。龍児には龍児なりの理由があった。それは会社の問題とは何の関係もない。

「君たちは高校生だ。君たちの問題は君たちで解決すればいい。大人がとやかく口出しすべきことじゃない。龍児君、君は南雲家の人間だ。君の親御さんのことを悪く言うつもりはないが、彼らは子供の問題に干渉しすぎる。私の目には、子どもの人生を支配しようとしているように見える」

「でも、うちの親があのヤクザ者を雇ったなんてことは・・・」

「もちろん、そんなことはしないだろう。しかし、御厨については何とも言えない。彼自身は、社長の意図を汲んで動いているつもりなのかも知れないが・・・」

「いずれにしても、憶測の域を出ない話ですね」

 拓海は釘をさした。彼自身、御厨に対する不審は拭えないが、憶測で人を判断するのは間違っているとも思う。

「だが、あの男にはそれを疑わせる怪しさがある」

 芹野の言葉は拓海の気持ちを代弁していた。


「ここのスタッフは一体どこから来ているんだ?」

 琥珀色の液体の注がれたグラスを手の中でゆっくりと回しながら、南雲誠司は問うともなく呟いた。

「さあ。近隣のホテルから出向で来ている人もいるようですね。学生のバイトも結構いますね」

 向かいのソファに寛いでいるのは、北村武臣だった。やはりウイスキーグラスを手にしている。

「これからシーズンに入ると、人員の確保が大変だろうな」

「ええ。ここも夏中開けておかなければなりませんからね。総務のほうで何とかやりくりしているようですが」

「社員の間じゃ評判がいいみたいだな、この山荘は」

「格安で利用できますからね。日本有数の避暑地で設備も整っている。その上温泉付きときたら、よそへ旅行に行くよりずっといい」

「いっそ年中開ければいいじゃないか」

「オフシーズンでも希望があればいつでも開けられます。常駐の管理人がいるので」

「いや、一般にも開放しないのか、という話だ」

「新規事業開拓ですか」

 ぐいとグラスを呷ると、北村は空になったグラスを上げて、バーテンに合図した。

 カウンターの向こうから年季の入った顔のバーテンダーがウイスキーのボトルを持って現れ、北村のグラスに酒を注いだ。

「ここはいいホテルになるでしょうね。でも、畑違いの分野に手を出すのは、わたしはどうも・・・」

 確かに、製薬業とホテル業に共通点はない。

「採算が取れればいいじゃないか」

「ホテルをやるとなると、その道に通じた人間を雇わねばなりません」

「総務の人間で賄えんかね。君も言った通り、うまくやりくりしているようじゃないか」

「今は、社員の福利厚生という形で会社から経費を落とせますが、事業として収益を上げようとすれば、色々と難しい問題が出てくるんじゃないですか」

「なるほど。しかし、うちはここと同じような施設をいくつも持っているだろう」

「ここと同規模のものは、伊豆と和歌山に一つずつあります。あとは小さな保養所がいくつか・・・」

「それを遊ばせておくのはもったいないじゃないか。維持費だって馬鹿にならん」

「それができるのも、本業が成功しているからこそです。うちは病院も抱えているし、中には採算の上がっていないところもある。リスクを負って他業種に手を出す理由はありません」

「そうかね。いい考えだと思ったんだが」

「成功企業のちょっとした贅沢の範囲に留めておくべきでしょうね」

「まあ、気にしないでくれ。思いつきを口にしたまでだ」

 南雲誠司はグラスをテーブルに置くと、ポケットから金属製の煙草ケースを取り出し、抜き取った煙草をテーブルの上でトントンと均した。

「ところで、今日の親父のスピーチだが、君はどう思う?」

 北村はソファに身を沈めたまま、答えなかった。相手の出方を窺うように、じっと誠司の顔を見つめている。

「社長の人事については、勿論取締役会に諮らねばならないが、そんなものはただの形式だ。親父の一存で全てが決まる」

「社長はすでに腹を決めておいででしょう」

 北村は軽くいなした。

「それは分からんぜ。案外悩んでいるのかも知れん」

「社長の心底は、我々の感知するところではありません」

 北村がこの話題を避けたがっているのは明らかだった。

「お前は社長になりたくないのか」

 誠司はズバリと言った。

 北村はキッと誠司の顔を睨み返した。

「あなたとは十年来の盟友だ。正直、争いたくはない」

「だが、親父がお前を選んだらどうする?」

 北村は誠司の顔を見つめたまま、答えを躊躇った。

 誠司は手にした煙草に火をつけ、ソファの背にもたれた。北村から視線は外さなかった。

 北村は観念したように溜息をついた。

「勿論、お受けします。そして・・・」

「そして?」

 誠司は先を促した。

「あなたには私の右腕として働いてもらう」

 誠司はニヤリと笑い、ソファから身を起こした。

「その逆もあるということだな?」

「その答えを知っているのは社長だけです」

「俺はそれでもいいと思っている」

「それでもいい・・・とは?」

「お前の右腕として働くことだ」

「随分と弱気ですね。あなたらしくもない」

「俺は経営が専門で製薬は素人だ。親父はおれに帝王学を叩き込んだなんて言っているが、俺が会社で身につけたのは、組織の中での立ち回り方だけだ。要するに、寄って立つバックグラウンドがないんだよ、俺には」

「それでいいじゃないですか」

「本当にそう思うのか。お前は俺の下で働くことに満足できるのか」

「企業経営など私の性には合わない。いらぬ苦労を背負い込むだけだ」

「学者肌なんだよ、お前は。だが、そこがいいところでもある。やはりお前がやるべきだよ、次の社長は」

「何だか社長の椅子を譲り合っているみたいで気味が悪いな」

「まったくだ。いっそ俺たちを飛ばして、次の代に移ってくれんかね」

「次の代と言えば、栄一君かな、それとも、龍児君かな」

「南雲家の人間とは限らんさ。おや、噂をすれば影、だ」

 誠司はバーに入ってきた人影に向かって手を上げた。

「お二人揃ってこんなところで密談ですか」

 新来の若者は二人のいるソファのほうへ向かってきた。

「やあ、栄一君。こんばんは」

 南雲栄一は北村に向かって会釈した。

「座れ。ちょうどお前の話をしていたところだ」

 誠司は点けたばかりの煙草を灰皿で揉み消しながら、背の高い息子を見上げた。

「僕の?恐いなあ。次期社長候補の二人の話題にされるなんて」

 誠司は不興げに口の端を歪めた。

「親に向かって皮肉を言うな」

「頼もしいじゃないですか。な、栄一君。まあ、かけたまえ」

 北村は自分の隣のソファを掌で示した。

「何の話をしていたんです?」

 北村に一礼すると、栄一は勧められた席に腰かけた。

「俺たちの次の社長の話だよ」

「それはまた気の早いことで」

「順当にいけば、君が継ぐのが筋だ、という話だよ」

「龍児じゃだめなんですか?」

「あいつはまだ子どもだ」

「でも、着々と準備を進めているじゃないですか。夏美ちゃんと龍児をくっつけるつもりなんでしょ?その話をしていたんじゃないの?」

 その言葉に、北村の目が翳りを帯びた。

「社長の座には興味がないのかな?」

「ないですね」

 栄一は言下に言ってのけた。

「出世だけが我が人生、なんて生き方には魅力を感じません」

「生意気を言うな。お前に人生の何が分かる」

「栄一君、今年でいくつになるんだね?」

 北村が尋ねた。

「二十六です」

「二十六か。なかなかしっかりしている。見どころがありますよ、彼には」

 北村は誠司に向かって言った。

「まだほんの若造だ」

 誠司は苦々しげにはき捨てた。

「会社なんて魑魅魍魎の巣窟に見えるんですよ、その若造の目には」

「はは・・・。魑魅魍魎の巣窟・・・か。違いない」

 北村は愉快そうに笑った。

「何を飲むね?」

「ビールを頂きます」

 北村が合図すると、カウンターの向こうのバーテンダーは心得顔に頷いた。

「今時、世襲なんて考えは古いですよ」

 しゃれた陶器のカップに注がれたビールを一口すすると、栄一は言った。

「いや、そうとも言えない」

 北村はソファに深く身を沈めると、考え深げに言った。

 誠司と栄一の親子は北村のほうを見た。

「今は格差が当たり前の社会だ。誰もが自分の地位を守るのに必死になっている。いずれ、格差を通り越して階級社会に逆戻りする時が来るだろう」

「階級社会とは、また大時代的ですね」

 軽口を叩く息子を、誠司は横目でじろりと睨んだ。

 栄一は肩をすくめ、助けを求めるように北村を見た。

「資本主義が行き着くところまで行けば、そうならざるを得ない。考えてみたまえ。会社組織など、れっきとした階級社会じゃないか。官僚の世界も同じだ。現代社会において、功なり名を遂げるためには、まず出世の階段を上るしかない。サラリーマンの夢が出世することだけだとしても、誰も責めることはできない」

 栄一は両手にビアカップを抱え、居ずまいをただした。

「こんな言い方をすると君は嫌がるかもしれないが、その意味じゃ、世間一般の人よりも君は恵まれている。その幸運をもっと大切にすべきだ・・・」

 北村は茶目を含んだ目で栄一を見た。

「・・・と、私は思う」

「だからだ」

 唐突に誠司が言い放った。

「だからこそ、我々は一つのファミリーとして会社を守っていかねばならん。南雲の名の下に集まった者は、皆ファミリーだ。それがステイタスになる。会社はそこに属する人々のよるべとして、彼らの人生を守らねばならんのだ」

 北村は頷いた。

「もはや国は当てになりませんからね」

「よく言った。北村、やはりお前こそ社長の器だ」

 誠司は酔いが回ってきたようだ。

 北村は苦笑した。

「その話はよしましょう。そろそろカビが生えてきそうだ。私は一般論を述べているだけです。ところで、栄一君。ここへは一人で酒を飲みに来たのかね?」

「そうそう、すっかり忘れてました。お二人を探していたんですよ」

「私たちを?」

「龍児たちがちょっとした騒動に巻き込まれたらしくて・・・」

 栄一は軽い口調で切り出した。

「騒動?」

「何があった?」

 誠司が身を乗り出した。

「この先の別荘に、素性の怪しい連中が泊まっているようで、龍児たちと揉めたらしいです」

「まったく。あいつはどうしてこう騒ぎばかり起こすんだ」

 誠司は嘆息した。

「いや、大したことにはなっていません。御厨さんが居合わせて、丸く収めたそうです」

「御厨か。あいつがいたんなら、まあ大丈夫だろう」

 誠司は安心したようにソファに身を沈めた。

「こんな夜遅くに何をしていたんだい?」

 北村が尋ねた。

「肝だめしをしていたそうです。夏美ちゃんも無事ですから、ご心配なく」

「いや、御厨のほうだよ。子どもたちと遊んでいたわけではないだろう」

「さあ。たまたまその場にいたとしか・・・」

「たまたま・・・か」

 北村は首を捻った。

「何だ。何か気になることでもあるのか」

 怪訝そうな北村の様子に、誠司はふと目を上げた。

「いや、あの御厨という男ですがね・・・」

「ああ、御厨がどうした」

「何者なんでしょうか?」

「親父のお気に入りだよ。ただの秘書だ。気にするほどの男でもあるまい」

「ええ。でも、会社の中枢に潜り込んでいる」

「まあ、仕事柄、やむを得んだろう」

「南雲家にも出入りしているそうじゃないですか」

「親父が許しているんだ。信頼するにはそれだけの理由があるんだろう。人事で身元の確認は取ってあるはずだ。素性の怪しい人間ではなかろう」

「天涯孤独だそうですね」

「ん、そうなのか?」

「調書ではそうなっています」

「それは知らなかったな」

「その調書ですが、きちんと裏はとってあるんでしょうか」

「さあな。身分証明書の確認ぐらいはするんだろうが・・・。何か疑わしい点でもあるのか?」

「気になるのは、彼の働きぶりです。まるで、外の人間が勝手に会社の中を歩き回っている感じだ」

「産業スパイか何かだと?」

「ううん。その可能性もなきにしもあらず、ですが・・・」

「何だ、はっきりしないな」

「社長はどこで彼と知り合ったんでしょう?」

「それは分からん。いろいろ人脈を持っているからな、親父は。だが、親父に対しては忠実に働いているようだ。だからこそ親父も信用しているんだろう。やつのことに関しては、我々が気を揉んでも仕方あるまい」

「おじいちゃんの隠し子だって、噂がありますよ」

 栄一が冗談めかして言った。

「ふん」

 誠司は鼻を鳴らした。

「口さがない連中は何とでも言うさ。くだらん噂に耳を傾けるな」

「でも、そう言われると、僕らと顔立ちが似てるんだよなあ、あの人・・・」

「ばかばかしい」

「それが本当だとしたら、ゆくゆく大きな問題になりますよ」

 北村が深刻な顔で付け加えた。

「噂は噂だ。何の根拠もない話に振り回されるほどばかばかしいことはないぞ。何にしても、子どもたちの窮地を救ってくれたんだ。そう悪し様に言うものでもない」

「あ、そうそう。例の上杉拓海君、龍児の友達の・・・」

「うむ。彼も一緒にいたんだろう?」

「ええ。ヤクザ相手に大立ち回りを演じたそうですよ」

「ほう」

 誠司はウイスキーグラスに手を伸ばし、話を聞く姿勢に戻った。

「御厨さんが駆けつけたとき、ヤクザ者の一人が地面に伸びていたそうです」

「相手は何人いたんだ?」

「五、六人はいたそうです」

「それを全部相手にするつもりだったのか」

「まあ、そのつもりだったんでしょう。その場には龍児もいましたが」

「喧嘩はからっきしだろう、あいつは」

「そうでもないですよ。学校ではけっこうな顔らしいから」

「そうやって調子に乗っているから面倒に巻き込まれるんだ。それにしても、なかなか肝が据わっているな、あの上杉という子は。大人のヤクザ相手に怯まないとは」

「腕っぷしには自信があるようです」

「うちに欲しいぐらいだ。なあ、北村」

 誠司は、ソファに身を沈めている北村に話を振った。

「ええ。活きのいい若手が入れば、会社も活気づきますね」

 北村はおざなりの返事をした。

「彼も石垣市民だろう。うちに就職すればいい。お父さんにも会ったが、ものの分かったいい人だ。筋の通し方を知っている。あの家の子なら大丈夫だ」

 誠司は勝手に拓海の就職話を練りあげていく。

「・・・夏美が熱を上げるのも無理はない」

 いきなり飛んできた言葉に北村ははっと顔を上げた。

 誠司はニヤニヤしながら彼の反応を窺っている。

「知っていたんですか」

「知らいでか。まあ、龍児の恋敵として不足はない」

「あれ、そんなこと言っていいの?夏美ちゃんと龍児の結婚話はどうなるのかな」

 と、栄一。

「俺はそれほど固い男じゃないぞ、栄一。龍児だって、恋敵の一人ぐらい何とかできんようでは、女などものに出来るか。そもそも、この話は親父・・・お前のおじいちゃんが言い出した話だ。シュナウザーとは個人的な繋がりがあるからな。お前はどう思う、北村。娘の父親として」

 北村は誠司を一瞥し、落ちつかなげに手の中のグラスをいじくり回した。

「私は、正直のところ、娘には自由にさせてやりたい」

「龍児では不足か」

「そういう意味じゃない。私自身、龍児君のことは好きです。しかし、親の決めた結婚など、今の時代には合わないのじゃないかと・・・」

「まあ、それが親心だわな。俺もお前と同じ考えだ」

 北村はグラスから視線を上げ、意外そうに誠司を見つめた。

「だがな、恐ろしいぞ、政略結婚というやつは。本人の意思など無関係に周りは話を進めていく。おれ自身、相当のプレッシャーを感じている。親である俺が、だぞ。本人達にいたっては何をやいわんか、だ」

「実は、うちも同じ状況でね。家内は乗り気なんです。父親の影響があるようですが」

「ほう。シュナウザー家はこの結婚に賛成というわけか。向こうは自由恋愛が一般的だと思っていたが・・・」

「向こうでもない話ではないようです。まあ、どこの馬の骨とも分からん相手に娘をやるよりはいいのかも知れない」

「確かに、夏美と龍児なら、お互い気心も知れている」

「実際のところ、本人にとってどちらが幸せかは分からない。親が決めた結婚に従って幸せになる人もいる」

「まあな。親のほうが人を見る目が肥えていることは確かだ。しかし、若者の直感というのも侮れんぞ。相手の本性を嗅ぎ分ける嗅覚は若者の方が鋭い。特に男女の関係など、当人同士の間でしか分からんこともある」

「結局、人間関係は当事者の間で育てていくものですからね。恋愛だ、お見合いだ、なんて議論に大した意味はない」

「政略結婚にも一理ありというわけだ」

「昔ながらのやり方には、それなりの意味があるということですかね」

「うむ。この先、お前の言う通り階級社会が訪れるとしたら、その傾向は一層強まるだろうな。時代が逆行しているというのも、あながち穿った見方ではないかも知れん」

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