第2話
「ねえねえ、彼女来てるよ」
拓海の部屋にずかずかと上がりこんでくるなり、夏美は言った。
十畳一間広縁付きの和室は、本来は家族客用だろう。一人で泊まるには少々贅沢だ。
「わあ、この部屋、景色がいいのね」
自分の部屋にいるかのように広縁へ進むと、夏美は大窓の鍵を外した。
窓外に広がる緑の山並みから、夏の風が吹き込み、夏美の髪をなびかせる。白いワンピース姿の夏美の横顔に、拓海は一瞬心を奪われた。
「前にも来たことがあるんだろ」
心の動揺を打ち消すように、拓海はそっけなく言った。
「何回も来てるけど、この部屋は初めてだな」
拓海の眼差しに気付く様子もなく、夏美は無邪気に外を眺めている。
「山荘っていうよりもホテルだな、ここは」
気の利いたことの言えない自分がもどかしい。夏美と二人きりになると、どうも気分が落ち着かなかった。
「昔ホテルだったのを、会社が買い取ったんだって」
「そいつは景気のいいことで」
比べるべくもないが、拓海の父親の会社とは雲泥の差だ。
「彼女、来てるよ」
夏美は部屋に入ってきたときの言葉を繰り返した。
「彼女って?」
「芹野環」
かすかにとげのある口調で、夏美は告げた。
「・・・」
拓海は咄嗟に返す言葉が出てこなかった。
「あいつの親もここの社員だったのか」
何とかそれだけ口にしたが、タイミングを逸した言葉はぎこちない余韻を残した。
「別におかしな話でもないよ。南雲製薬あってこその町だもんね、石垣って」
石垣は富士の裾野にある小さな町だ。人口は二万人。一昔前は過疎の町だったという。町興しに企業を誘致したとき、名乗りを上げたのが南雲製薬だった。町に移設された本社と研究所だけで千人以上の社員を抱える。会社が設立した病院を合わせれば、南雲の名の下に働く人とその家族は数千人に及ぶ。今や石垣は南雲製薬の企業城下町として繁栄を享受している。
同じ町に住む環の父親が会社の関係者だったとしても何の不思議もない。しかし、拓海にとってこれは予期せぬ事態であった。どんな顔をして環と向き合えばよいのか。
夏美は誤解しているが、拓海と環の間に特別な関係があったわけではない。ただ、お互いに淡い思いを抱いていたにすぎない。いや、それさえも拓海の一方的な思い込みかも知れない。中学時代、たまたま帰り道が同じで、よく一緒になったというだけだ。周りの同級生がそれをはやし立てたせいで、いまだに妙な噂が収まらないのだ。拓海の側に相手を憎からず思う気持ちがあったことは確かだが、それを伝える機会はついに訪れなかった。二人はそのまま中学を卒業し、別々の高校に進学した。
「何よ。何とか言いなさいよ」
黙り込む拓海に夏美は口を尖らせた。
拓海はじっと窓の外を見つめたまま、返事をしなかった。その目に映るのは深緑の美しい景色ではなく、かつての思い人の顔だった。苦い思いがこみ上げる。思いを告げる機会がなかったというのは嘘だ。ただ、自分にその勇気がなかっただけだ。
「まだ好きなんだ、彼女のこと」
ぐさりと胸に突き刺さる言葉に、拓海は夏美の顔をにらみつけた。
「あら、図星だったかしら。あなた、意外と顔に出るタイプね」
怯む様子もなく続ける夏美の口調は挑発的だった。
「私が声かけてみよっか、彼女に。同い年だし、仲間は多いほうが楽しいよ」
「余計なことをするな」
怒気を含んだ拓海の声は、ひどく我儘に響いた。
「昔の彼女を放っとく気?案外冷たいのね」
「向こうは家族で来てるんだろ。邪魔するなって言ってるんだ」
「うちだって家族連れだよ。だけど、面倒くさい男の子二人も相手しなくちゃならないのよ。一人ぐらい助っ人を呼んだっていいじゃない」
面倒くさい男というのは拓海と龍児のことだ。口では女に勝てない。
「じゃ、決まりね」
嬉しそうに言うと、夏美はじっと拓海の顔を見つめた。
「何だよ」
唸るように言う拓海ににっこりと微笑みかけると、夏美はやおら身を翻した。そして、襖を開けて敷居を跨ぐと、拓海のほうを振り向いた。
「あなたたち、付き合ってたってわけでもなさそうね」
拓海に反撃する隙を与えず、夏美はすっと襖を閉じた。
軽やかな足音が廊下を遠ざかってゆく。
「よ、元気か」
わざとらしい台詞が馬鹿みたいだったが、他にかける言葉など見つからなかった。
「うん。拓海君は?」
「おれは、まあ・・・」
拓海は曖昧にうなずいた。素直に言葉が出てこないのが悪い癖だ。
気詰まりな沈黙が流れる。
梅雨明けの空はさわやかに晴れ渡り、遠くの山際にもくもくと入道雲が湧き立っている。
中学時代は「君」付けで呼ばれたことなどなかった。そのことが二人の間に流れた時間の長さを感じさせる。しかし、それでも、環を目の前にしてほっとする自分がいることを、拓海は強く意識した。それはきっと、相手も同じだろう。交わす言葉はなくとも、それは感じられる。
「何だよ。お前たち、お見合いしてるみたいだぜ」
横から龍児が冷やかした。
拓海は龍児を睨んだ。よもやこの再会はこいつが仕組んだものではないかという疑念が頭をよぎる。
そんな彼の顔を見て、龍児は拓海を脇へ連れて行き、首に腕を回した。
「変に勘ぐるなよ。彼女がお前の同級生だったなんて、俺はぜんぜん知らなかったんだからな」
龍児は首を回して環のほうを見やった。
「すっげー美人じゃん。何でお前ばっかりもてやがるんだ、ちくしょう」
そう言って、龍児は拓海の頬を拳で小突いた。
「二人でこそこそ何してんのよ。置いてっちゃうよ」
少し先で夏美が二人に呼びかけた。
夏美と環は二人の前を歩き始めていた。
大食堂で家族それぞれに昼食をとった後、夏美が環を誘い出したのだった。
食事の時は龍児と夏美と拓海三人だけのテーブルだったので、拓海が一人気まずい思いをすることはなかった。宿に到着した時に龍児の両親に挨拶したが、二人とも気持ちよく迎えてくれた。龍児との喧嘩のことには誰も触れなかった。
会社の恒例行事と言っても格式ばったところはなく、皆思い思いに休暇を楽しんでいる様子だった。とはいえ、集まっているのは社内でも相応の地位を占める社員ばかりらしく、会場には世に知られた企業の名に恥じぬ凛とした空気が漂っていた。
「どこへ行くんだよ」
後ろから龍児が夏美に声をかけた。
「散歩よ、散歩。食べてばっかじゃ太るでしょ」
夏美は勝手知ったる様子で、湖畔へ続く小道を下っていく。
龍児はその後を追って小走りに駆けて行った。
二人の間に、仲の悪そうな様子は窺えない。むしろ気のおけない幼なじみといった感じだ。
「環ちゃん、ここへ来るの初めてなの?」
拓海が追いつくと、前を行く夏美と環の会話が聞こえてきた。
木漏れ日の差す森の小道は、蝉の声が喧しい。
「ううん。何回か来たことあるけど、うちのお父さん、去年まで研究所にいたから、本社のパーティーに呼ばれたのはこれが初めて」
「道理で会ったことがなかったわけだ。会ってたら忘れるはずないもんな」
龍児が一人合点がいったように頷いた。
龍児に冷たい視線を送ると、夏美は環に向き直った。
「研究所勤めってことは、お父さん研究者なの?」
「うん。新薬の開発をしてるって」
「へぇー、かっこいい。ね、上杉君、知ってた?」
「いや」
環の親の話は聞いたことがなかった。
「へぇ、幼なじみでも、知らないこともあるんだ」
夏美は露骨に二人の過去に探りを入れようとしている。その態度を隠そうともしなかった。
拓海はそんな夏美を鬱陶しく思う反面、健気にも思うのだった。
「今年から本社に移ったの?」
横から龍児が聞いた。
「うん。でも、所属が変わっただけで、お薬の研究は続けてるみたい」
「そりゃそうよね。研究者なんだもん」
研究所と本社の社屋は目と鼻の先だ。転属したとしても、行き来に不自由はない。
「拓海君は?何でここにいるの?お父さん、町工場の社長さんよね」
環の疑問は当然だった。
「こいつは俺が誘ったの。親が友達も連れて来いって言うからさ」
拓海が答える前に、龍児が割って入った。
「へぇ、仲がいいのね」
「そう。仲がいいの、俺たち。な」
龍児は親しげに拓海の肩に手を回した。
「信じられる?この二人、こないだ、学校で大喧嘩したのよ。殴り合いの・・・」
夏美がにやにやしながら横槍を入れた。
「え?」
夏美の言葉をどう受け止めたものか戸惑うように、環は三人の顔を見比べた。
「余計なこと言うなよ。環ちゃんが恐がっちまうじゃねえか」
龍児が夏美を咎めた。
「いいじゃない、本当のことなんだから。でも、男の子って不思議よねー。喧嘩した後すぐに仲良しになっちゃうんだもん」
夏美は取り繕うように言ったが、環の顔は曇ったままだった。
「どうしたの?大丈夫よ。二人とも仲直りしたんだから」
夏美の言葉が耳に入らないかのように、環は拓海の方へ歩み寄った。
「拓海君、また喧嘩したの?」
拓海は環の視線を避けるように前を向いて歩き続けた。
「また?」
龍児が聞きとがめた。
「中学の時も一度大喧嘩したことがあるの」
環の声音には拓海への非難がこもっていた。
「よせよ。そんな昔の話」
拓海は歩調を速めた。少し距離を空けると、蝉の声が他の三人の声を遮ってくれた。
「またってどういうこと?」
説明を求める龍児に、環は話し始めた。
「地元の不良グループに私がからまれたことがあって、その時たまたま通りがかった拓海君が助けてくれたの。その時は向こうも手出ししなかったんだけど、今度は拓海君が目をつけられて、しつこく付きまとわれるようになったの。拓海君、随分我慢してたんだけど、ある日、学校の帰り道に待ち伏せされて、田んぼの畦道で喧嘩になったの。それが通報騒ぎになって・・・。拓海君一人に七人がかりだったらしいけど、警察が来たときには、七人とも道端に伸びてたって・・・」
「ひぇー、俺、そんなやつに喧嘩売ってたのかぁ」
龍児は目を丸くして前を歩く拓海の後姿を眺めた。
「それが原因で、ずっと通ってた空手の道場もやめさせられて・・・。元はといえば私のせいなのに」
「環ちゃんは悪くないよ。拓海も悪くない。何で道場をやめなくちゃならなかったんだ」
「破門されたの。拓海君、中学生の日本チャンピオンだったのよ。空手の世界で名前を知られていた分、道場では庇い切れなかったんだって」
「日本チャンピオンか。道理で強いわけだよ、あいつ。それにしても、悪いのは相手だろうに、納得いかねえな」
「でもね、後で私が謝りに行った時には、拓海君は案外さばさばしてた。喧嘩するぐらいなら、空手なんか習わないほうがいいって。本当は口惜しかったはずなのに・・・」
「そりゃ、そうよね。日本一になるぐらい頑張ったのに」
夏美が相槌を打った。
「でも、また同じようなことが起こったら、今度は拓海君が大怪我するかも知れないでしょ。だから、あの時約束してもらったの。もう二度と喧嘩はしないって。なのに・・・」
環は拓海の背中を見つめ、声を詰まらせた。
「ああ、それにはちょっとしたわけが・・・」
龍児は気まずそうに頭を掻いた。
目を泳がせる龍児のほうを見て、環は首を傾げた。
「要するに、その、あれは俺が悪かったんだ。喧嘩を売ったのは俺のほうだから」
「でも、喧嘩したんでしょ?」
龍児にではなく、前を歩く拓海の背中に向かって、環は言葉を投げつけた。
「悪かったよ。でも、いいじゃねえか。のされたのは俺のほうだし」
龍児は自分が責められているかのように、訳の分からない言い訳をした。
「じゃあ、また同じことをしたんだ」
「だから、俺が挑発したんだよ。誰でも怒るよ、あんなこと言われたら」
なぜか、拓海の代わりに龍児が弁解していた。
平生柔和な面差しの環が、キッと龍児を睨みつけた。
背の高い龍児が子猫のように体を縮めた。
その時、拓海が足を止め、環のほうを振り返った。
環も足を止め、拓海と向かい合った。
「わかった。もうその話はやめよう。みんな過ぎたことだ」
「本当にわかったの?」
「ああ」
「龍児君がいい人でよかったね」
環は龍児に感謝の眼差しを向けた。
その眼差しの意味を計りかねて、龍児は誤魔化すような照れ笑いを返した。
「いい人かどうかは、もう少し付き合ってみないとわかんないよ」
真面目くさった顔で夏美が釘をさした。
「一言多いんだよ、お前は」
龍児は口を尖らせた。
曇っていた環の顔に笑顔が戻った。
「夏美ちゃんのお父さんは、この会社の人?」
「うん。うちはしがないサラリーマン一家でござい」
重役令嬢の権高さなど微塵も見せず、夏美はおどけて見せた。
「そして、この俺様が南雲製薬の未来を背負って立つ南雲家の御曹司でござい」
龍児が夏美の台詞にかぶせるように続いた。
「本当に背負って立つ気があるのかしら」
夏美が呆れ顔に肩をすくめた。
「さあなあ。俺は次男坊だし、姉ちゃんもいるからな。会社のことは上の二人に任せて家を出たって構わねえんだよ、俺は」
龍児本人はいたって暢気だ。
「でも、それじゃ、私と結婚できないよ」
龍児は眉を吊り上げて見せた。
「お前がそのことを本気で考えるなら、俺も家を継ぐことを考えるよ」
「結婚・・・って?」
環は二人のやり取りに驚いた顔をしている。
「親はそう仕向けたいみたいだけどね。本人同士がうまく行くとは限らないでしょ」
夏美が説明した。
龍児は複雑な顔をしている。
「南雲家の御曹司にお嫁入りかぁ。こういうの、政略結婚って言うんだよね。私たちまだ高校生なのに、何考えてんだろうね、大人って」
「なあんだ」
「本気で好きになれる相手なんてそう簡単に見つかるわけないじゃん」
夏美はちらりと拓海に視線を走らせたが、拓海はさっさと歩き出し、話に加わるそぶりもない。
「・・・もともと私は医学を志した人間でね、製薬で道を立てることになるとは思っていませんでした。高校卒業後、すぐにアメリカに渡り、向こうの大学で学を修めました。代々医者の家系に育ちましたから、その影響がなかったと言えば嘘になりますが、親の世話にならなかったのが唯一の自慢です。大学時代は、学費も生活費も全て奨学金で賄いました。その点、アメリカは鷹揚な国でね、外国人でも努力する人間には出し惜しみしない」
四百畳敷きの大広間。膳の並べられた座卓の前で、一人ひとりが襟をただして上座でスピーチをする人物に目を向けていた。
南雲京輔。
龍児の祖父であり、一代で南雲王国と呼ばれる大会社を築きあげた男。齢七十は下るまいが、立ち居振る舞いは矍鑠とし、その眼光にはいまだ壮年の覇気が漲っている。
「大学卒業後、私はアルツハイマー病の研究チームに加わり、研究者としての一歩を踏み出しました。大学時代の私の研究テーマがアルツハイマー病で、指導教授が私の研究論文を高く評価してくれたことがきっかけです。そのチームは大手の製薬会社と提携して病気の治療薬の開発に取り組んでいました。足掛け七年を研究生活に捧げましたが、ご存知の通り、アルツハイマー病を根治させる治療薬はまだ開発されていません。しかし、その間、病気の進行を遅らせる薬の開発に着手する段階まで研究は進んでいました。私自身、製薬についての知見を得ることも出来ました。
さて、いよいよ臨床実験に入ろうという頃、研究チームと提携していた製薬会社が経営難に陥り、研究費の支給が打ち切られました。成功の一歩手前まで来ていた我々は、突然の挫折に愕然としました。何しろこの薬の市場は巨大ですから、製品化にこぎつければ巨額の収入が見込めます。傾いた会社の経営を立て直す秘策ともなりえた。その点をおして掛け合いましたが、会社には研究を続けるだけの余力が残っていなかった。
行き場を失った研究成果を抱えて途方にくれていたところ、一人のベンチャーキャピタリストが名乗りを上げました。いわゆる起業投資家というやつですな。当時の日本ではまだ馴染みの薄い職業でしたが、アメリカでは、有望な研究やアイディアに投資をする制度はすでに確立していました。その投資家が日本人だったというのが皮肉でもあり、また、私にとっては幸運でもありました。真島幸三という名のその投資家は、同じ日本人である私を研究チームのリーダーとすること、そして、薬の製品化は日本で行うことを条件に、資金の提供を申し出たのです。チームの他のメンバーは一も二もなくその条件をのみました。チーム自体が多国籍のメンバーで構成されていたこともプラスに働きました。アメリカ人で固められたチームであれば、チームそのものが瓦解していた可能性もあります。本来はアメリカで開発されるべき薬でしたからな。
研究の地を日本に移した我々は三年で薬の製品化にこぎつけ、正式に南雲製薬としてスタートを切ったのです。その後の我が社の発展は、皆さん、ご存知の通りです。あれから四十年が経ち、創業当時のメンバーは皆会社を去りました。私自身、そろそろ一線を退く潮時かと考えています」
一堂にどよめきが広がった。
京輔は一人ひとりの反応を確かめるように一座を見渡した。
どよめきが収まる中、落ちつかなげに視線を交わす者もいた。
「その前に一つ大きな仕事が残っています。私の後継者を指名するという仕事です。
ご承知の通り、我が社の重役会には五人のメンバーが名を連ねています。その中で私の後継者と目されているのは、二人。わが息子、南雲誠司とそのよき友人にして同僚の北村武臣君です」
京輔は自分と並んで上座に座る二人のほうを手で示した。龍児の父親と、夏美の父親だ。
「息子には幼い頃より帝王学を叩き込んできました。私の事業を引き継がせるためです。それを認めることにやぶさかではありませんが、私は別に南雲製薬を一族経営の会社にしたいわけではありません。今や我が社は年間売り上げ一兆円以上、グループ全体で数千人の社員を抱える大企業です。そのトップに立つ人間には、その立場にふさわしい資質が求められます。息子の誠司にしろ、北村君にしろ、その資質は充分に備わっていると私は信じています。どちらが社長の座に就こうと、押しも押されもせぬ立派なリーダーとなることでしょう。
一方の北村君は、もとはスイスの大手製薬会社シュナウザーに籍を置く研究員でした。かの地で勇名を馳せた彼をヘッドハントし、我が社に迎えたわけですが、彼の奥さんはシュナウザーの現会長の娘でもある。シュナウザー会長とは同業のよしみで私も懇意にしていますが、北村君を譲り受けるに当たっては相応の見返りを求められました。向こうにとっては娘夫婦を手放すわけですから、当然といえば当然ですな。経営、販売、研究開発、あらゆる面で協力体制を築くため、南雲、シュナウザーの両社がお互いの株式を持ち合うことで合意に至りました。シュナウザーは百年以上の歴史を持つ一族経営の会社です。北村君の奥さんのハンナさんは、将来、父親のシュナウザー氏から相当額の株式を相続する事になる。そうなれば、我が社とシュナウザーの関係はより強固なものになります。私の後継者を決めるに当たっては、その点も考慮せねばなりません」
ここまで聞いて、拓海は南雲龍児と北村夏美の関係がただならぬものであることに気づいた。次期社長が龍児の父親になろうと夏美の父親になろうと、二人の結婚が実現すれば南雲とシュナウザーの提携関係は将来も長く維持される。会社の合併と二人の結婚は、いわば織り込み済みの未来というわけだ。若い二人に婚約などという重荷を負わせる背景にはそうした事情があったのだ。夏美の意向がどうあろうと、周りはこの結婚をおし進めようとするだろう。
なるほど、企業の社長というのは一国一城の主である。その下に集う人たちの生活を守る大きな義務がある。舵取りを誤れば国は傾き、多くの人が路頭に迷う。彼らの下す決断はそれだけ重い。そして、一度決断が下されれば、国はその方向へ向かって動いてゆく。誰かが異を唱えたところで、その流れを変えることなど出来ない。そんな中で個人の感情を押し通すなど、ただのわがままでしかないのかも知れない。
しかし、それは大人の理屈だ。意にそまぬ結婚を迫られる夏美を、拓海は気の毒に思った。そして、図らずもその渦中にある自分の立場に胸のざわめきを覚えるのだった。
宴会が終わった後、高校生四人組に環の弟の健人を加えて肝だめしをやろうということになった。湖畔の森を抜ける小道には別荘が立ち並んでいるが、シーズン前のこの時期にはあまり人が入っていない。人気のない林間の夜道は、肝だめしにうってつけだった。
「健人君、今何年生?」
夏美が健人に尋ねた。
「小六」
健人は辺りの暗闇をきょろきょろと見回しながら答えた。
「へぇ。じゃ、私たちとは五つ違いだ」
夏美は年下の健人の気を引こうと、会話の糸口を探っている。
だが、健人は心ここにあらずの体で暗闇に目を走らせている。
「姉ちゃん、おれ、恐いよ。こんなとこ、一人で歩けないよ」
後ろを歩く環を振り返って、健人は怯え声で訴えた。
最初はコースを決めるために、全員で一緒に歩いているのだった。
「あら、健ちゃん、意外と恐がりだったのね。お姉ちゃん、知らなかった」
環のほうはいかにも暢気に構えている。
「大丈夫、大丈夫。私が一緒に歩いてあげるから」
夏美が健人を宥めた。
「よし。じゃあ、俺も一緒に行ってやろう」
龍児が健人の頭に手を置いて言った。健人をだしに夏美とペアになろうというはらだ。
「だめよ。大人はひとりで行くの」
夏美はあっさりと拒んだ。
「ええ。お前だけ健人を連れて行くなんてずるいじゃん。俺たち、まだ大人じゃねえし」
龍児が抗議した。
「高校生といえば、もう大人よ。ね、健人君」
夏美は不安顔の健人の顔を覗き込んだ。
「じゃ、夏美ちゃん、健人をお願いね」
と、環。
「オッケー。何かあったら私が守ってあげるからね、健人君」
「守ってもらわなきゃならないのは、お前のほうじゃねえのか。お化けが出ても逃げ出すなよ」
龍児がちゃちゃを入れた。
「うるさいわね。本当は自分が一番恐いくせに」
鬱蒼と木々の生い茂る森の中、時折懐中電灯の明かりに、別荘の建物が浮かび上がる。
「人のいない別荘って不気味だぜ」
龍児はふと気付いたように呟いた。
暗く聳え立つ灯りのない建物を見上げ、五人はしばし沈黙した。
「どうする?やめるなら今のうちだよ」
「誰が。ここまで来て後へ引けるかよ。なあ、拓海」
「あ、ああ」
拓海は曖昧な返事を返した。
「何だよ。お前、恐いのか」
「恐いさ。だから肝だめしなんだろ」
「おうともさ。そうこなくちゃ面白くねえ。さあ、早いとこ、コースを決めようぜ」
「あ、あそこの家、灯りがついてる」
健人が暗い道の先を指差した。
「あ、本当だ」
五人は灯りに導かれるように、そちらの方向へ歩き出した。
「でも、これって目的が違うんじゃねえか」
明かりの灯った家が近づいてくると、龍児が指摘した。
「あの家の明かりをコースの目印にすればいいじゃない」
夏美が返した。
「そっか。なるほど」
龍児が頷いた時、懐中電灯の明かりの中にぬっと人影が現れた。
「うわぁ」
「きゃっ」
誰のものともつかぬ叫びが上がった。
現れたのは、ポロシャツに半ズボンといういでたちの大男だった。薄明かりの中でもわかるほど日焼けした肌に、耳には金色のピアスが光っている。
不意の闖入者に驚いて立ち止まった拓海たちを前に、男はものも言わず、威圧するような目を向けている。
「おう、エイジ、誰かいやがったか」
灯りのある家のほうから怒鳴り声が飛んできた。
「うるせえと思ったら、ションベンくせえガキどもでさ。生意気に女連れて、大人の真似事でもしようってんじゃねえすか」
目の前の男が、拓海たちに目を据えたまま怒鳴り返した。
口のきき方から、相手がまともな人間ではないことが分かった。
拓海と龍児は他の連れを庇うように、黙ってその場を去ろうとした。
「女だと?」
家へ続く小道から懐中電灯の明かりが近づいてくる。
奥から現れたもう一人の男は、無頓着に懐中電灯の明かりを拓海たちに向けた。
「ほう、別嬪さんが二人もお揃いじゃねえか」
男達は下卑た忍び笑いを漏らした。
「よう、姉ちゃんたち。こっちへ来なよ。そんなガキども相手にしてねえでさ」
脇を通り抜けようとする男を、龍児が押し返した。
「その辺にしとけよ、おっさん。こっちは大人しく引き下がってんだ」
「ちょっと、龍児・・・」
夏美が止めに入るより前に、男が龍児の手首を掴み返した。
「何だ、坊主。この俺に喧嘩売ろうってのか」
龍児は相手の手を振りほどいて身構えた。
「エイジ、そっちのやつじゃねえ」
エイジと呼ばれた男は、突然向きを変えて拓海に襲いかかってきた。
拓海は咄嗟に相手の巨体を組みとめた。見た目に違わぬ怪力で男は上からのしかかってくる。力勝負では分が悪い。その上、相手は相当喧嘩慣れしている様子だ。
一瞬、環に詫びるような眼差しを向けると、拓海は体を外して一歩下がり、返す勢いで男の鳩尾に拳を打ち込んだ。
うっと呻くと、巨漢は体をくの字に曲げてその場にくず折れた。
「エ、エイジ」
後から来た男は一瞬の勝負に目を白黒させて、倒れた男に呼びかけた。
「なんの騒ぎですかい、アニキ」
気がつくと、拓海たちは別荘のほうから現れた数人の男に取り囲まれていた。
「まだいやがったのか。ヤクザの集会でもやってたのかよ」
龍児は軽口を叩く余裕がある。さすがの偉丈夫だ。肝は据わっている。
拓海は内心冷や汗をかいていた。相手は五人。全員喧嘩のプロだとしたら、勝てないかも知れない。自分ひとりならともかく、仲間を守りながら戦うのは容易ではない。
「はい、そこまで。皆さん、おやめなさい」
暗闇に凛とした声が響き渡った。
やくざたちの輪の間に割って入ったのは、スーツ姿の若い男だった。
猛り立った男達が一瞬気を飲まれるほどの胆力は、細身の体からは想像できない。
「誰だ、てめえ」
チンピラの一人が新来の若者の前に立ちはだかり、大きな体を覆いかぶせるように上から見下ろした。
若者は怯む様子もなく、落ち着いた目で頭一つ背の高い相手を見上げた。
「南雲製薬の者です」
「南雲製薬ぅ?」
「この先の山荘で社の研修会を開いておりまして、こちらの方々は、我が社の社員のご子弟です。手を出せばただでは済みませんよ」
「なんだとぅ。手を出したのはそっちのほうだぜ」
男は倒れてうずくまっている仲間を顎で指した。
「この落とし前はどうつけるつもりでぇ」
「さ、ここは私に任せて、あなたたちはもう帰りなさい」
若い男は拓海たちを促して、帰り道の方角を示した。
「おう、人の話を聞いてやがるのか」
「もういい。さがれ、タツ」
一座の兄貴分が後ろから声をかけた。
「でも・・・」
タツと呼ばれたチンピラは、不服そうに倒れた仲間のほうに視線を走らせた。
「俺の言う事が聞けねえのかい」
どすの利いた声ですごまれると、タツはすごすごと後ろに引き下がった。
「さ、早く行きなさい」
若者は再度拓海たちを促した。
この場は早く退散したほうがいい。
拓海と龍児は視線を交わすと、女たちを先に立たせて山荘のほうへ歩き出した。
「あの人、誰?」
拓海は急場を救ってくれた恩人のことを尋ねた。
「うちのじいさんの秘書だ」
龍児が答えた。
「秘書?」
「ああ、うちの家にもしょっちゅう出入りしてる」
「夜中にあんなところで何してたんだ?」
助けてくれた相手に不審の目を向けたくはなかったが、偶然あの場に居合わせたとは思えない。
「多分、俺たちの後をついて来てたんだと思う」
「お目付け役ってわけね」
騒動の現場から離れて落ち着きを取り戻した夏美が会話に加わった。
「ま、そんなとこだな」
龍児は頷いた。
時代劇のお姫様でもあるまいに、大企業の御曹司など案外窮屈なものだ。
拓海がそう言うと、龍児は溜息をついた。
「ああ、参っちまうぜ。実を言うと、肝だめしをやるなら別荘地のほうでやれって言ったのもあの人なんだ」
「なあんだ。お仕着せの肝だめしだったの」
夏美はすっかり興醒めした様子だ。
「そう言うなよ。別の意味でスリルあったじゃねえか」
「二度とごめんよ。あんな連中に関わったら気分が悪くなるだけ。それにしても、さすがね、上杉君。あんな大男、一発でやっつけちゃうなんて」
夏美は何の屈託もなく感心しているが、拓海は自分の行為を誇る気にはなれなかった。
環のほうに目を向けると、弟の健人と手をつないで黙々と歩いている。敢えて会話に加わるまいとしているようだ。
不可抗力とは言え、環との約束をまた破ってしまった。拓海には環にかける言葉が見つからなかった。何か言おうとしても言葉が出てこなかった。
その様子を察した夏美と龍児も黙り込んでしまった。
暗い森の中、五人はすっかりしらけたムードでとぼとぼと歩を進めた。
「もう知らないよ、拓海君」
不意に環が沈黙を破った。
拓海は横を歩く環を見つめたが、返す言葉はなかった。
「ヤクザと喧嘩なんて・・・、子どもの喧嘩じゃすまないよ」
消え入りそうな環の言葉は、今にも泣き声に変わりそうだった。
拓海の中に訳の分からぬ怒りがこみ上げた。
「じゃあ、何もせずにやられてりゃよかったのかよ」
「そんなこと言ってないでしょ。でも、もう喧嘩はしないって、拓海君、約束したじゃない」
環の言っている事は筋が通らない。だが、その気持ちは痛いほど伝わってくる。
環は恐かったのだ。
だが、それは自分の身に迫った危険に対する恐怖ではない。拓海の身に起こったかもしれない出来事がまざまざと実感されたのだ。いつか取り返しのつかないことになるという実感を伴った予感だ。
拓海も同じ恐怖を感じていた。もしも自分の力が及ばなければ、自分は大事な友達を守ることもできない。今夜は助かったが、いずれはそんな時が来る。大切なものがより大きな力によって自分の手からもぎ取られる。そんなことは考えたくもなかったが、自分の非力を思い知らされる以上の恐怖はない。
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