第31話 試験サンプルと言う名の箱【1】
「谷本さん聞こえますか?」
自分を呼ぶ女性の声で、俺は目を覚ました。
目の前が明るくなり、俺の前にはブラウスとスカートの上に白衣を羽織った二十代後半ぐらいに見えるショートカットの美しい女性が立っている。その少し後ろには、デスクの前に座ってこちらを見ている、白衣を着た目付きの鋭い初老の男がいた。男の横にあるデスクの上には縦に三台、横にも三台、合計九台のディスプレイが壁面のように並べられていて、何やら数値を表示している。
「ここは……俺はもう人工頭脳になったんですか?」
体の感覚が無く、とても不快感がある。今までに感じた事の無い感覚だ。
「うむ、成功したようだな」
後ろの男が、俺の問い掛けには答えず満足そうな表情を浮かべてそう言った。
「谷本さん、あなたは今、人工頭脳になっています。私は研究員の藤田、後ろの方は責任者の宇津木(うつぎ)教授です」
やはり、俺はもう普通の人間では無く、人工頭脳になっているのだ。
俺はサティエと言う企業が開発している、人工頭脳の実動作試験に使う人格サンプル募集に応募していた。
サティエは造船からナノテクノロジー、医療から金融までありとあらゆる産業に進出しており、永遠の生命をテーマにした人工頭脳の研究もその一つだ。サティエは人工頭脳の実用化の為に、実動作試験用の人格を募集していた。サティエの説明では脳をスキャンして人格データーを収集するだけなので体に全くリスクがなく、一日だけの適応試験を受けて、見事試験人格に選ばれれば高額の報酬を受けられると言う事だった。書類審査を通過して適応試験を受けるだけでも日当が貰えるとの事。二十代前半という規定に適合するし、フリーターでお金に困っている俺は迷わず応募した。
後日書類審査通過の知らせが届いた。競争率は高く自分が選ばれるとは思っていなかったので、通知が送られて来た時には宝くじが当たった気分だった。
「あの……何と言うか体が無いのが、凄く気持ちが悪いんですが……何とかなりませんか?」
俺は紹介を受けてすぐに、藤田と言う女性に訴えた。すぐにでも何とかして貰いたいほど不快感が強いのだ。
「教授、確かにストレス値が上がっていますね」
藤田さんは斜め後ろの、デスク上のディスプレイの一つを見て、宇津木と言う男に言った。
「うむ、今はまだ何も処理していない初期値のままだから不快感は仕方ないだろう」
宇津木もディスプレイの数値を確認して頷いた。
「それでは、体の実感に繋がる神経を遮断します」
藤田さんがデスクまで行き、ディスプレイの前に置いているキーボードを操作しようとする。
「おいおい、それは困る」
「えっ、どうしてですか?」
「人工頭脳になるストレスを測定するのも試験の一環なのだから、それを遮断してはいけないよ」
「元々、体が無い事に対しての不快感は人工頭脳から取り除く予定じゃないですか。その不快感を測定する事は意味が無いんじゃないですか?」
「確かに実用化する人工頭脳には体につながる神経回路は遮断する事になるだろう。だが人工頭脳の研究としてはこの試験にも意味がある。それぐらいは君にも分かるだろ?」
宇津木がそう言うと藤田さんは黙ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。試験に苦痛があるなんて聞いてない! 何とかしてくれよ」
俺は堪らず二人に訴えた。
「心配する事はない。生身の人間のように、ストレスによって体や精神に異常が出る事はないから大丈夫だ」
宇津木は平然と答えた。
「全然大丈夫じゃない! リスクは無いって言ったじゃないか、騙したのか?」
俺は精一杯怒鳴ったが、宇津木は椅子に座ったまま笑顔を浮かべて平然としている。
「騙しただと? 面白い事を言うね。事実、君は何もリスクを負っていないよ。恐らく今頃君は、大金を手にして浮かれて遊び歩いているんじゃないか? 何の不都合も感じずにね」
宇津木は笑いを必死に抑えながらそう言った。俺は重要な認識の誤りに気が付いた。確かに生身の俺は今頃何のストレスも感じる事なく、大金を手にして浮かれているだろう。そこには何のリスクも無い。しかし、人工頭脳の箱となった俺はどうだ? こいつらに逆らう事も出来ず、このままじゃ実験用のマウスにされてしまう。そう思うと、俺はとてつもない恐怖に襲われた。
「い、いや、俺は思い違いをしていたんだ。お金は返す。だからもう俺を試験に使うのはやめてくれ」
「お金を返すだと? 果たして生身の君はそう言うかな? 恐らく、箱になった君の事を見捨てて、自由に使ってくれと言うんじゃないか」
俺は何も言い返せなかった。宇津木の言う通りだと容易に想像出来たから。生身の俺には、箱の俺が今受けている苦痛や恐怖は想像出来ないだろう。それなら一旦手にした大金を手放す筈がないのだ。
「教授、それはあんまりです。箱になった谷本さんにも人権があります。彼を侮辱するような言葉は謹んでください」
藤田さんが語気を荒げて宇津木に抗議する。俺は藤田さんの言葉で宇津木が心変わりしてくれる事を期待した。
「人権? 君はこの人工頭脳を人間と同等だと考えているのか?」
「当然です。体がないだけで、生身と同じ人格を持つ人間だと考えています」
藤田さんは自分の考えをはっきりと主張したが、その途端、宇津木は大笑いした。
「馬鹿か君は? 神にでもなるつもりなのか? 人工頭脳は人類にとって素晴らしい研究だが、飽くまで「人工」だ。限りある命、日々成長していく心と体、人間と同等な物を人間が作れる訳は無い」
「そんな……私はこの研究が、人類が永遠の命を手に入れる初めの一歩だと信じています。ロボット技術が進歩し、機械の体に人工頭脳が入るようになれば、人間は死の恐怖から解放されます」
宇津木は藤田さんの主張を鼻で笑う。俺にはどちらの主張が正しいか分からなかった。
「たしか君は最近、日村常務の推薦でこのプロジェクトに参加したんだったな」
「はい、私はこの素晴らしい研究にどうしても参加したくて、サティエの中途採用に応募しました。その気持ちが認められて大変嬉しく思います」
「なるほどな、結構な心掛けだ。まあ良い、とにかく今日は何もしないで一日その状態でストレス値の推移を測定してくれ」
宇津木は小馬鹿にしたような口調でそう告げると、部屋を出て行った。
「すみません。私を信じて今日一日は我慢してください。データーが取れれば、神経回路を遮断してストレスの元をなくしますから」
藤田さんが申し訳なさそうに言う。
彼女は俺の事を人間扱いしてくれる。何とか彼女の主張が通れば良いのだが。
「仕方ない。あなたの所為では無いから気にしないください」
「私はあなたの味方ですからなんでも話してください。教授と対立する事があってもなんとかしますから」
「ありがとうございます」
藤田さんの言葉を嬉しく感じた。今の俺は自分の事をどうにも出来ないので味方になると言ってくれるのは本当に心強い。
藤田さんは計器のチェックを行い、部屋を出て行った。他にも試験中の人工頭脳があるようだ。
一人残された俺は周りを見渡す。何の装飾もされていない白い壁の小さな部屋。見える限りではディスプレイの乗ったデスクがポツンと置いてあるだけだ。何も気を引くものが無いのは試験の為なのだろうか。俺は体の不快感と戦いながら、眠る事も出来ずに気の狂いそうな一夜を過ごした。
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