第32話 試験サンプルと言う名の箱【2】
次の日から本格的な試験が始まった。記憶のチェック、知識レベルのチェックなど、基本レベルの試験や、受けている俺自身が良く分からない脳組織の機能チェックなど、本のように分厚い試験マニュアルを順にこなしていく。神経回路は遮断して貰ったので、不快感も無く楽に過ごせた。情報漏洩の防止から、ネットに繋げないので退屈するのが一番の不満だ。ただ担当者の藤田さんが気を遣い、いろいろと気晴らしになる軽い話題を話し掛けてくれた。彼女は美人なだけでなく、話も面白いし一緒に居て楽しかった。生身の俺ではこんな素晴らしい女性と親しくなる事は無かっただろう。
宇津木は時々顔を出したが、試験の進行具合をチェックするだけで、特に酷い事はされなかった。
このまま無事試験が終了すれば、俺は存在を消されるだろう。それに不満はない。今の箱の姿で生き続けても良い事などないから、痛みも無く消えられるならそれが良いだろう。ただ、今大金を手にして普通に生活している生身の俺には不公平を感じる。向こうは俺の苦労など何も知らないままで過ごしている事に俺は何とも言えない怒りがあった。
俺が箱になってから一ヶ月が過ぎ、試験は順調だと藤田さんが教えてくれた。あともう少しで終了するそうだ。
藤田さんが担当で良かった。彼女は箱になって気持ちが落ち込みがちな俺の心に寄り添い助けてくれた。彼女が俺に対して優しいのは、あくまで試験の対象だからだろう。それは十分に理解している。俺自身も普通の男女のような感情を彼女に求めている訳じゃない。後少しとなる箱としての期間を穏やかに過ごせる事を感謝しているのだ。
今日も藤田さんと試験をしていると、宇津木が部屋に入ってきた。
「気分はどうだね、谷本くん」
奴は俺の前に座る藤田さんの肩に手を置くと、今まで見た事のない笑顔で話し掛けてきた。
「はい、藤田さんのお陰で気分よく過ごせています」
宇津木は嫌いだったが、藤田さんの評価が良くなるように愛想良く答えた。
「そうか、それは良かった」
宇津木は芝居がかった様子で、オーバーアクションを交えながら嬉しそうにそう言った。
「じゃあ、藤田君、これから谷本君の試験は私が担当するので、君は他の被験者の試験に回ってくれたまえ」
「えっ?」
宇津木の突然の言葉に、俺と藤田さんは同時に声をあげた。
「あの、私に何か問題でもあったんでしょうか?」
藤田さんが不安そうな表情で宇津木に訊ねる。
「藤田さんはとても親切で試験も……」
「そういう事じゃない。藤田君に問題があっての事じゃないんだ」
宇津木は俺の言葉を遮ってそう言う。
「とにかく藤田君、君は他にも担当を持っているだろ、そちらの試験を続けたまえ」
「はい……」
宇津木の指示に従うしかないのか、藤田さんはうつむき加減に部屋を出て行った。
宇津木と二人きりになった俺は不安だった。この男は俺の存在を一人の人間として見ていないと感じる事が良くあったからだ。
藤田さんが出て行ったのを確認すると、宇津木は俺に話し掛ける事も無く、無言でキーボードを操作したり、ディスプレイの数値を記録したり、何やら試験を始めるようだった。
「あ、あの……これから何の試験をするんですか?」
「ああっ」
宇津木は俺が居る事に初めて気づいたかのように少し驚いたような反応を見せた。
「あーまあ、説明しなくても始めれば分かる」
宇津木は面倒くさいと言うように、適当な返事をしてきた。
その後も俺の存在など無視して宇津木は作業し続ける。何をしているのか不安があったが、聞いてもまともに答えてくれそうもないので、俺は早く終わってくれと思い続けていた。
何も変化のないまま一時間程経っただろうか、急に体がむず痒くなってきた。いや、体と言っても正確には各パーツが無いのだから体かどうかもはっきりしない。どこから来るのか分からず、掻いてスッキリできる訳でもなく、ただ原因不明の不快なむず痒さを感じた。
「あ、あの、痒いです。どこかは分かりませんが、何か痒いんですが」
俺は堪らず宇津木に訴えた。
「うむ……」
宇津木は一瞬だけ俺を見たが返事は返さず、またディスプレイを見ながらキーボードを叩く。
「がああっ」
宇津木がキーを叩き終えた瞬間、猛烈な痛みが襲ってきた。生身なら気絶しているだろう痛みだが、人工頭脳である俺の意識は飛ばない。猛烈な痛みから逃れる事が出来ないのだ。
「凄いぞ……この数値、生身の体じゃ考えられんぞ」
宇津木はモニターを見ながら、驚いたように声を上げる。
「これはどうだ」
宇津木はまたキーボードを叩いた。
「死ぬ! 死ぬ! がああ」
「どうしたんですか!」
俺の叫び声を聞きつけたのか、藤田さんが部屋に飛び込んできた。
「なんだ、君は? なぜ戻って来た」
宇津木は慌てて俺の痛みを解除して、咎めるように問い質す。
「いや、渡し忘れていた谷本さんの試験データを持って来たのですが、中から悲鳴が聞こえたので……」
「そんな物は後で良い、さあ、出て行きたまえ」
部屋の入り口で立ち止まる藤田さんをそれ以上中に入らせないよう、宇津木はキツイ調子で言い放つ。
「でも……」
「助けて! 藤田さん助けてください!」
藤田さんは戸惑ったような表情を浮かべていたが、俺の助けを求める声を聞き決心したように歩み寄ってくる。
「一体谷本さんに何をしているんですか?」
「なんだ、出て行けと言っているだろ! それ以上中に入るならタダでは済まさんぞ」
「えっ?」
宇津木に脅され藤田さんの足が止まる。
「それはパワハラじゃないか!」
「そうだが。何か問題でもあるのか?」
宇津木は俺の言葉に慌てる事無く平然と応えた。
「し、失礼します」
結局、藤田さんは途中まで来たところで頭を下げて出て行ってしまった。
「さあ、もう邪魔が入らないから続きをしようか」
不気味な笑顔を浮かべる宇津木の顔が人間でない化け物のように見えた。
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