第29話 息子と言う名の箱【5】

 次の日からも冴子は帰宅するとすぐに賢人の教育に全力を注いだ。賢人にネットは繋いでいないので、ストレスが溜まるだろうと、俺が先に帰った時は、絵本を読んであげたり、好きなアニメを見せたりと気晴らしさせた。だが、冴子がそれを見つけると激しく怒る。段々エスカレートして、俺を賢人の教育に害のある邪魔者と認定するようになった。


 そんなある日、俺が帰宅すると冴子が先に帰っていた。俺は玄関すぐにある自分の寝室で部屋着に着替え、ダイニングを通ってリビングまで来た。冴子の当番である夕食は作られてはいないし、部屋も散らかっている。賢人が人工頭脳として戻ってきて一か月、冴子は自分の担当である家事を一切していない。賢人の事が外部にばれると困るので、今は家事を業者に頼む事が出来ない。俺が出来るだけフォローしていたが、仕事との両立は難しく、家の中は荒れてきていた。


 出前でも頼むかと、スマホを取り出した時に子供部屋から「いたい」と言う賢人の声が聞こえた。


「どうした? 賢人!」


 俺がドアを開けて子供部屋に入ると、賢人の前に座りキーボードを叩いている冴子の姿があった。


「いたいよ、おかあさん……」

「嫌ならちゃんと勉強に集中して。でないとまた痛くなるよ」

「もういや……おべんきょうしたくないよ、おそとであそびたい……」


 可哀想に、ディスプレイの中で賢人は泣いていた。


「お前、何をしているんだ?」


 俺は冴子の肩を掴んだ。


「あなたは黙ってて!」

「お前、賢人に痛みを与えているんだろ? 虐待じゃないか!」

「こうでもしなきゃ、賢人の勉強が進まないの。同じ年齢の子は朝から晩まで知識を蓄えているのに、賢人は私といる数時間しかないのよ。効率良くやらなきゃ、追い付けないわ」

「ちょっと来い!」


 俺は冴子の腕を掴み、強引に部屋から連れ出した。賢人に聞こえないように俺の寝室に連れ込み、ドアを閉める。


「これはDVよ! 訴えるわ!」


 血走った目で叫ぶ冴子を見て、怒りよりも、どうしようもない悲しみが湧いてきた。冴子の心がここまで壊れていた事に気付けなかった。以前の冴子なら虐待など絶対にしなかったと断言できる。賢人の死が冴子を壊してしまったのだ。


「冴子……」


 俺は泣きながら冴子を抱きしめた。


「離して、私にはやらなければいけない事があるの」

「病院に行こう……お前は疲れているんだよ」


 俺は暴れる冴子を抱きしめ続ける。冴子は「いや、離して」と抵抗を続けていたが、やがて力が抜けて大人しくなった。


 俺はゆっくりと、冴子の体をベッドに横たわらせる。冴子の閉じた目から涙の雫が流れ落ちた。目は落ち込み、顔色も悪い。見た目の年齢も一気に年老いて、五十歳ぐらいに見える。そんな顔を見ても、醜いと思うより何とか助けたいと言う気持が強い。俺は自分が思っていた以上に冴子を愛していたのだと気付いた。


「病院に行こう。俺も有休取って一緒に行くから」


 俺は冴子の髪を撫でながら優しい声でそう言ったが、冴子は無言で首を振った。


「分かった。今日はもうゆっくり休むんだ」


 俺は冴子に布団を掛けておでこにキスをした。部屋着のままだったが、疲れていたのかすぐに眠ってしまった。俺は起こさないように部屋を出て、賢人の部屋に向かう。賢人は一人取り残されて泣いていた。


「賢人、ごめんな、一人にして」

「おとうさん!」


 賢人の顔がパッと明るくなった。どんなに不安だったかと思うと胸が痛くなる。


「痛かったか? ごめんな、お母さんはちょっと疲れているんだ。もうしないようにお父さんが言ったからな」

「おかあさんは、ボクがケガをしたからつかれているの? ボクがわるいの?」

「いや、賢人は全然悪くないよ。大丈夫、きっともうすぐ優しい元のお母さんに戻るから」


 俺は何も妙案が無かったが、賢人を安心させたくてそう言った。


「何か本でも読もうか?」

「ううん、いい。もうねたい。おきていたくないから、あかりをけして」


 やはり、体が無い事のストレスは感じないようにされていても、人工頭脳の体は幼い賢人に取って耐えがたい不安があるんだろう。自分が何になっているのかも理解出来ずに、毎日無理やり起こされて勉強をし続けるだけ。大人でも我慢ならないくらいだ。


「じゃあ、暗くするよ。おやすみ」


 俺は賢人をシャットダウンした。根本的な改善が出来ず、無力な自分が嫌になる。


 その後は出来るだけ、冴子の様子を見るように心掛けた。子供部屋に顔を出し、虐待していないか、時間が長くなり過ぎないか、言い争いになる事もあったが、無理に中断させる事もあった。


 ある日、俺が帰宅すると、冴子がご機嫌な様子で料理を作っていた。家の中も片付けて掃除したのか、綺麗になっている。


「ただいま。今日は休みだったのか? 家の中も綺麗になってるな」

「お帰りなさい。今日は頑張ったのよ。これからは毎日休みだから、ちゃんと家事も頑張るからね」


 エプロン姿の冴子が嬉しそうにそう言った。


「えっ? 毎日休みって……」

「私、退職するの。今日から有休でもう、仕事に行かなくても良いのよ」

「ええっ! どうして? 何か会社で問題があったのか?」


 退職の話は全く聞いていなかったので、俺は驚いた。


「いえ、全然。だってあなたが言ったじゃない、育児に専念しても良いって。これからはずっと賢人の教育に時間を使えるわ。遅れている分を取り戻さないと」


 笑顔の中に狂気の色が滲む。


「いや、それは賢人が生きていた時の話だろ」

「賢人は生きているわ!」


 冴子は大声で俺の言葉を否定する。


「違う、賢人は人工頭脳の箱なんだ。どんなに勉強したって、大学には入れないし、就職も出来ない。結婚も出来ないし、子供も作れない。いい加減目を覚ませ!」


 とうとう俺は本心をぶちまけた。辛い事実だが、直視しないといけない事実でもある。このまま教育し続けても、賢人自身も辛いだけなんだ。


「違う! 違う! 違う! 違う!」


 冴子は耳を塞いで叫ぶ。


「冴子、現実逃避していても未来はないよ! 仕事を辞めたのなら丁度良い。病院に行こう。物事を落ち着いて考えられるようになるまで、ゆっくり休めば良い」

「あああああああ!!!」


 冴子は叫びながら、両腕で払うようにして、テーブルの上の料理を全て下にぶちまけた。そして、叫び声を上げながら自分の寝室に籠ってしまった。


 俺はため息を吐いて、自分の席に座った。顔を上げて前を見ると、幸せだった頃が目に浮かんでくる。楽しそうに食べる賢人。それを優しい笑顔で見つめる冴子。どうしてこうなってしまったのか……。


 もう取り戻せないと思うと涙があふれて来た。確かに幸せだった。これ以上ないくらいの幸せだった。どうすれば良かったのだろうか? この苦しみは賢人の死をそのまま受け入れなかった罰なのだろうか。


 俺はいよいよ決断すべき時が来たのを悟った。

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