第26話 息子と言う名の箱【2】

 翌日から、冴子の指示で性生活の管理をする事になった。予定に合わせて体調を管理して事を行う。義務的な行為になるかと思っていたが、冴子が気を遣ってくれたので楽しめた。そんな日々が続いて半年後。


「どうだった? 病院の結果は」


 俺は仕事から帰ると、玄関に出迎えてくれた冴子にいきなり訊ねる。前日に妊娠検査薬で陽性となり、冴子は今日病院に行っていた。メールで聞いても、直接言うと返事が来て教えて貰えなかった。意外にも俺は結果が気になって、仕事も手に付かなかったのだ。


「妊娠していたわ。三か月だって」

「そうか、良かった!」


 俺は冴子を抱きしめた。元々そんなに乗り気で無かったのだが、カレンダーと睨めっこしている冴子を見て、妊娠の望みを叶えてあげたいと思い始めていたのだ。


「これからは、体を大事にしなきゃな」

「ありがとう。今日は御馳走用意したから早く食べましょ」

「えっ? 今日は俺の当番じゃあ……」

「嬉しいから、作っちゃった。今日はサービスよ」


 ドライな関係で始まった二人だが、子作りを介して普通の夫婦のようになってきていた。



 幸いにも悪阻も軽く、高齢出産の割に妊娠過程も順調で、冴子はほぼ予定日通りに元気な男の子を出産した。


 子供の名前は賢人(けんと)。冴子の希望でそう名付けた。クレバーな人間になって欲しいと言う願いを込めた名前は冴子らしい。名前に限らず育児に関する一切の事を、俺は約束通り何も口出しせず冴子に任せた。


 母親としても冴子は優秀だった。約束通り、自分の寝室で賢人と寝て俺に負担を求めない。育児休暇が終わった後も、在宅勤務制度を利用して出来るだけ自分の手で育児をしている。俺も日に日に育っていく賢人に父親としての愛情が芽生え、元々要求されてはいなかったが、冴子に教えて貰いながら、入浴やオムツの取り換えなど積極的に協力した。冴子は俺の行動に驚いたが、それを止めようとせず素直に感謝してくれる。俺目線ではあるが、結構幸せな家族になっていると感じた。



 賢人の三歳の誕生日。その頃俺は仕事が忙しくて毎日帰宅が遅かったのだが、その日ばかりは調整して早く帰宅した。


 家族三人で囲んだテーブルの上には、三本のローソクを立てたチョコレートのケーキと、今日の為に有休を取った冴子が用意した御馳走が並んでいる。唐揚げにハンバーグ、卵焼きにポテトサラダと賢人の大好物ばかりの御馳走だ。


「いただきます!」


 俺の向いに座る賢人が、行儀よく手を合わせて挨拶した。賢人は子供用の小さなお箸を正しい持ち方で使い、取り分けて貰った料理を食べ始めた。


「おお、上手にお箸で食べられるようになったんだ。偉いな賢人」


 俺は笑顔で賢人を褒めた。しばらく一緒に食事を取れなかった間に、賢人はお箸を使えるようになっていたのだ。


「おかあさんにおしえてもらったんだ」


 賢人は横に座る冴子を見ながら、少し照れた顔でそう言った。


「三歳でこんなに綺麗にお箸を使えるなんて凄いぞ」

「少し教えただけで、すぐに覚えたのよ。本当に凄いわ」


 はにかんでいる賢人が可愛くて、二人してさらに褒める。こんな時がいつまでも続けば良いのにと、俺は幸せを嚙み締めた。


 その夜、冴子が俺のベッドに忍んで来た。普段冴子は自分の寝室で賢人と寝ているのだが、寝かしつけてから来たのだろう。俺達の夜の生活は、俺が誘って、その気があれば冴子が俺の寝室に来ると言うパターンが殆どだ。冴子から求める場合は夜になって俺の寝室に忍んで来る。今夜は俺が誘っていないので、賢人を産んで以来、初めて冴子から求めて来たのだ。


 俺は冴子の要求を拒んだ事は無かった。もう四十歳目前だが、スタイルに全く変化は無く、三十歳そこそこにしか見えない冴子は十分過ぎる程に魅力的だ。今夜もお互いを求め合い楽しい一時を過ごした。


「あなたと結婚して良かった」


 事が終わった後に俺達は抱き締め合っていた。俺の胸に顔をうずめている冴子がうっとりとした表情でそう言った。俺は心地よい気持ちで、冴子の髪を撫でる。


「賢人はね、あなたに褒められるのが嬉しくていつも頑張っているのよ」

「本当に?」

「本当よ。今日だって、興奮して中々眠らなかったわ。お父さんに褒められたって、プレゼントより嬉しかったみたい」

「そうか……」


 俺は冴子をぎゅっと抱き締めた。心の中が幸せで満たされる。


「あのさ、冴子……」

「んっ?」


 冴子が俺の顔を見上げる。


「もし、冴子がその気なら、仕事を辞めて育児に専念してみないか? 俺の稼ぎだけでも十分に生活出来るし、もう一人子供を産んでも良い。結婚前の約束と違うけど、冴子や賢人が幸せになれるなら、俺は頑張れるよ」


 冴子はキョトンとした表情で俺を見ている。でも俺の表情から、冗談ではなく本気だと分かっている筈だ。


 冴子は「ありがとう」と言って、顔を俺の胸に押し付け、力を込めて抱きついてきた。しばらく何も言わずにその状態のまま時が過ぎる。


 俺は急かす事なく、冴子の返事を待った。「ありがとう」という言葉からしても、嬉しい気持ちはあると思う。だが、今まで積み上げてきたキャリアを捨てるのは簡単ではないのだろう。


「すぐに返事をしなくて良いよ。ゆっくり考えてくれれば良いから」


 俺はもう一度、冴子の髪を優しく撫でた。


「ありがとう、本当にありがとう……」


 結局、答えは保留で現状のままの生活が続いた。



 賢人が有名私学の幼稚舎に合格したのに合わせ、俺達は文教地区にマンションを購入して移り住んだ。俺も冴子も通勤には不便になるが、二人とも転居に異論はなかった。


 引っ越しが終わり入居した最初の夜。


「怖いくらい自分の思う通りに賢人が育ってくれているの」


 ベッドの中で、冴子が潤んだ目をしてそう言った。


「冴子が頑張っているからだよ。冴子なら上手く出来ると思っていたけど、その予想以上に優秀な母親だよ」

「ありがとう。あなたも私が思っていた以上に育児を手伝ってくれるし、賢人自身が凄く頑張っている。……私ね、本当に怖いの。何かでこの順調な成長が狂ってしまったら、どうなるんだろうって」

「きっとそれが普通なんだろうな。でも、もしそうなったとしても、冴子は自信を持って慌てなくて良いと思うよ。冴子の子育ては間違っていない。だからどんな事になっても慌てる必要は無いさ」

「ありがとう」


 冴子は俺の胸に顔を埋めた。

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