第25話 息子と言う名の箱【1】
自宅マンションの子供部屋で、俺と妻の冴子(さえこ)は五歳の息子、賢人(けんと)のデーターが入力されている箱を前にして見つめ合った。学習机の上に置かれた箱はまだ立ち上げられていない。手元にあるキーボードのリターンキーを押して初めて、賢人は人工頭脳の箱として蘇るのだ。
「さあ、早くリターンキーを押してよ」
冴子が待ちきれないように催促する。
「じゃあ、いくぞ」
俺は静かにリターンキーを押し、箱になった賢人が帰って来た。
俺と冴子は大学時代の同級生で、同じサークルで知り合い付き合い出した。卒業後、別々の一部上場企業に就職してからも交際を続け、二十五歳で俺からプロポーズ。冴子は結婚を受けるにあたり婚前契約書を出してきた。いろいろ書いてあるが大雑把に言うと次の通りだ。
一、結婚生活に掛かる費用は完全に折半とし、残りの収入は各自で管理する。夫婦が共同で購入した物に関しては共有財産とし、結婚前後に関わらず、個人で購入した物や財産は個人資産とする。
二、家事は決められた分担をローテーションで回す。もし出張や残業で担当をこなせない時は、次の週で担当を増やすか、罰金を支払う事。
三、子供は作らない。
四、相手から要求があった場合は離婚に応じる事。犯罪以外の離婚理由は慰謝料の発生がなく、共有財産の配分のみで離婚する。
かなりドライに感じるかも知れないが、俺達二人にとっては普通の事だった。お互い仕事にプライドを持っていて上昇志向が強い。一般的な、子供を作ってマイホームを買ってと言う結婚願望は無い。だが一生独身で生きていくのも寂しいと感じているのも事実だ。才色兼備で価値観も同じ、もちろん五年も付き合って愛情もある。俺にとって冴子以上の結婚相手は考えられなかった。それにお互い両親と死別していてこの条件に反対する家族もいない。親兄弟がいない事で苦労もしたが、その分自由だった。
冴子の出した条件を了承し、俺達は結婚した。お互いの通勤に便利な場所にマンションを借り、必要な家具と電化製品を折半で購入。帰宅時間に差がある日があるので、寝室は別にした。夜の生活に関して取り決めがある訳じゃないが、交際時からするしないで揉めた事はない。お互い淡泊な事もあるが、一夜限りの本当の意味での浮気は黙認していたからだ。
こうして書くと、結婚相手と言うよりただの同居人に感じるかも知れないが、俺達の間には確かな愛情はあった。長期休暇の時期に旅行したり、日々の休みに出掛けたり、一緒にいて楽しいのは冴子一人だ。話をしていて安らげるし、趣味や好みも良く合う。セックスに関しても、冴子以上の女はいない。申し分の無い相手なのだ。
俺達の結婚生活は何不自由無く続いている。お互いの収入や仕事の地位などは詮索しない。マウンティングに繋がる事をしないのが長続きするコツなのかも知れない。もちろん、冴子から相談される事もあるし、こちらから意見を尋ねる事もある。そう言う場合は親身になって応えた。二人とも相手の幸せを願う気持ちは確かにあるから。
そんな俺達の結婚生活も十年を迎え、お互い三十五歳になった。二人で記念日を祝って高級レストランで食事をしていたが、美味しい料理を前にしても冴子の表情が暗い。
「どうしたの? 体調が悪い?」
俺は心配になって訊ねる。実は最近、冴子が暗い表情をする事が多いと感じていた。何か仕事でトラブルがあったのか? 悩みを抱えていそうだが、こちらから聞く事はしない。それは暗黙のルール違反を犯すことになるから。
冴子は俺の問い掛けにも返事をせず、思い詰めた表情で黙っている。
「俺は冴子が自分で乗り越えられる問題なら、何も言わずに黙って見ている。でも手に余る問題なら、相談にも乗るし出来る限りの事をしたいと思っている。遠慮する事はないんだよ」
俺がここまでハッキリと気持ちを口にするのも珍しい。それだけ今までに無い冴子の様子が心配なのだ。
浮気などもお互い干渉しないでいたが、俺はもうここ数年、冴子以外は誰も抱いていない。ドライな関係は結婚を始めた時と変わりはないが、情も愛もその頃以上に深まっている。
「私はどうしても自分一人では解決出来ない問題で悩んでいるの……」
深刻な表情でそう言った冴子を、俺は無言で見守った。
「今更と呆れるかも知れないけど、私、子供を産みたいの」
「えっ? それは……」
「約束違反なのは分かってる。でも今を逃すと、もう私には自分の子供を抱くチャンスは一生無理なの。あなたに負担は掛けないからお願いします」
子無し希望の女性が、出産の限界あたりの年齢で心変わりをする事があるのは知っていた。だが、まさか冴子がそうなるとは予想していなかったので驚いた。冴子もまた普通の女性だったのだ。
「いや、約束違反もそうだが、その……もし妊娠したとしても俺の子供だと……」
俺はハッキリと言い辛く、口ごもった。冴子の男性関係を今更責めるつもりはないが、子供を産むとなると話は別だ。誰の子種か分からない子供と生活する気にはなれない。
「意外と鈍感なのね」
少し呆れたように冴子が言った。
「どういう意味?」
「私、結婚してからは、一度も他の男と関係した事は無いわ」
「えっ、そうなのか……」
「別にあなたに操を立てていた訳じゃ無いんだけどね。貞操観念が無いと思われると仕事にも影響するし、体で地位を築いたと陰で言われるのも気分が良くないのよ」
女性独自の事情がある訳か。確かに同僚の既婚女性社員が性に奔放だったら、見る目が変わる。
「それに……」
「それに?」
「やっぱり、私はあなたが良い。心も体も……」
照れて顔が赤くなった冴子を見て嬉しくなったが、子供の件は雰囲気に流される訳にはいかない。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、俺は子供を育てる自信がないよ。俺も冴子を最高のパートナーだと思っているが、仕事に全力を傾けたいし暮らしが変わるのは不安がある」
俺は正直な気持ちを打ち明けた。
「あなたに迷惑を掛けるつもりはないわ。育児休暇は私一人が取るし、出産前後の家事も今まで通りの分担で構わない。私が出来ない分は人を雇うし、あなたに負担させる事はしない。それに養育に掛かる費用も私が全て負担するから」
冴子がそう口に出したのなら、お金の件は試算して可能なのだろう。そういう意味で冴子は信頼出来る。
「ただ、あなたに一つだけ求めたい事は、子供を嫌わないで欲しい。父親らしい事はしなくても構わない。演技でも良いから、子供から微笑み掛けられたら、微笑み返して欲しい。それ以外はあなたに迷惑は掛けないから」
冴子は子供を欲しいだけじゃなく、ちゃんと育てて行こうと考えているんだ。俺への一つだけのお願い、それは子供の心を正しく成長させる為に必要な事だ。
俺は冴子の表情を伺いながら、しばらく考えた。どうやら冴子は思い付きで言っている訳じゃなく、相当な覚悟を持っているようだ。
「分かった。協力するよ。ただ俺へのお願いは確約出来ない。もちろん今現在は努力しようと思っているが、実際子供なんて想像もした事がないから生まれた子供を見て自分がどう言う感情を持つか分からないんだ。努力すると言う事で勘弁して欲しい」
俺は結局、冴子の提案に同意する事にした。冴子の雰囲気から、もし拒否すれば離婚も視野に入れていると感じたから。
俺は今まで通りの生活がベストだが、それは叶わぬ願いらしい。冴子はペナルティのつもりなのか、子供に掛かる労力の面ではかなり俺に譲歩してくれている。そう言う面も加味してどちらかを選ばないといけないのなら、離婚してバツ一独身になるより冴子の提案を受けて結婚生活を続ける方が良い。
「ありがとう! その言葉が何よりも嬉しい結婚記念日のプレゼントだわ」
冴子は満面の笑顔でそう言った。初めて会った日からも随分経つが、老ける事無くいつまでも美しい。
もし離婚したとしたら、冴子はすぐに新しい夫を見つけて子供を産むだろう。今の冴子の地位からすれば、収入は度外視して家庭的な男を選ぶのも可能だ。それを想像すると胸が苦しくなる。離婚してそれが続くと考えると俺の選択は間違いじゃないと思えた。
「子供に掛かる費用の件だが、今まで通り生活費と考えて折半しよう」
「えっ、でも……」
「俺の子供でもあるし、責任はあると思うんだ。もちろん、冴子の育児方針に口出しする気はないし、逆に手伝う気も無い。でも全ての負担を冴子に丸投げするのは違うと思う。最低限の義務は果たしたいんだ」
カッコイイ事を言ったが、実際俺はお金を持て余している。俺は高級な車や持ち物に興味はない人間で、余り気味のお金なら将来的に何もしなかったと言われるよりかは、出しておく方が得だと打算的に考えたのだ。
「分かった。有難く受け取るわ」
結婚十年目にして当初の契約の一つが崩れ、俺達は子作りを始める事となった。
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