第10話 父と言う名の箱【2】

「それじゃあ、私は家事を済ませてパートに行きますので」


 俺にはもう用がないと言うように、芳江は立ち上がった。


「ええっ、お前パートに出ているのか?」


 俺は驚いて芳江に訊ねた。俺が元気で働いていた頃、芳江は専業主婦だった。世間の風潮はどうであれ、女房を働かせるなんて俺のプライドが許さなかったからだ。


「ええ、あなたが亡くなってから働き始めたんです。もう一ヶ月は続いているので、大分仕事にも慣れましたよ」


 芳江は充実した笑顔でそう言った。


「でも、俺の生命保険や退職金でお金は十分に有るんじゃないのか? 働かなくても大丈夫なくらい」


 俺は芳江が働き出した事を不満に感じた。楽して暮らして欲しいと思って、生命保険もちゃんと入っていたのだから。


「ええ、あなたのお陰で今は不自由なく暮らせますよ。でも、老後の事を考えると私の年金だけじゃ生活も苦しいですから。それに体が丈夫なうちは働いている方が生活に張りがあるんですよ。だから苦にはならないし」

「で、でもな……」


 俺が不満そうな声を出すと、芳江はまた膝を付いて俺の目を見つめた。


「大丈夫ですよ。家事も問題なく出来るし、子供達も応援してくれていますから」


 芳江は笑顔でそう言ったが、自分が残された家族の為に十分なお金を残してやれなかった甲斐性なしのような気がして、情けない気持ちが残った。


 俺が無言でいると、芳江は「じゃあ、行きますね」と言いながら立ち上がろうとする。


「パートを辞める訳にはいかんのか?」


 俺は納得いかない気持ちの持って行き場が無く、もう一度話を蒸し返した。


「心配してくれてありがとう。でも私は働いている方が……」

「俺は家族にお金の心配をさせる、そんな甲斐性なしの男だったと言いたいのか!」


 俺は気持ちを爆発させて、そう叫んだ。死ぬまで家族の為に必死で働いてきた事を否定されたような気がしたのだ。


「いいえ、そんな事は考えていませんよ」

「もういい、勝手にしろ!」


 芳江は小さくため息を吐き、リビングを出て行った。その後、芳江は慌ただしく家事をこなし、掃除などでリビングにも顔を出したが、俺は何も声を掛けなかった。家事を一通り終えたのか、芳江は昼過ぎに出て行った。一人取り残された俺は、誰かが帰るのを待つ間にインターネットで最近の世間の動きをチェックする事にした。



「ただいま」


 午後六時過ぎ、誰かが帰って来た。俺のカメラでは玄関は見えないが、声からして文也だと思う。文也は鼻歌を歌いながら、玄関を入ってすぐ右にある自分の部屋に入って行ったようだ。着替えでもしているのか、なかなか姿を現さない。


「ただいま」


 文也が帰ってきてから十分ほど経過し、芳江が帰ってきた。文也は俺の事を聞いているはずなのに一度も顔を見せていない。


「母さんお帰り!」


 文也の部屋のドアが開き、芳江を出迎えたようだ。二人は玄関で何か会話しているが小声で聞き取りにくい。途中、文也が「あっ!」と少し驚いたような声を上げたのは良く聞こえた。まさか文也は俺が箱になって帰って来ていることを忘れていたのか?


「ただいま」

「父さん? この箱が父さんなの?」


 すぐに芳江と文也が俺の視界に現われた。文也は物珍しそうな顔で俺の箱になった姿を眺めまわす。


「そうだ、お前達の為に俺は戻って来てやったぞ」


 俺は文也の表情に注目した。久しぶりの再会だ、さぞかし感激しているだろう。


「へー、テレビ電話みたいだね。記憶はちゃんとあるの?」


 文也は喜びと言うより興味が勝っているようだ。何か新しい電化製品でも見るような目付きをしている。


「ああ、ちゃんと今までと変わらない父さんだから安心しろ」

「ふーん、そうか、動けなくて退屈しそうだね」


 文也は変わらず素っ気ない態度で、喜んでいる様子はない。まあ、箱の姿のままではすぐに実感するのは無理なんだろう。追々時間が解決してくれる筈だ。


「何かあれば相談してくれて良いんだぞ」

「そうだね、ありがとう。何かあればそうするよ」


 そう言うと、文也は後ろを向き立ち去ろうとする。


「おいおい、もう良いのか?」

「え?」


 文也は少し驚いたように振り返る。


「もっと、俺に聞きたい事は無いのか?」

「ああ、でも俺、宿題とか忙しいから」


 文也は当たり前のようにそう言ってリビングから出て行った。その後ろ姿を見送り、俺はないがしろにされた気になり無性に腹が立った。想像していた再会とは程遠く、俺を忘れていた事といい、戻って来た事に対する感謝の気持ちは微塵も感じられなかった。


「さあ、夕飯の支度をしなくちゃ」


 芳江も文也に続き、リビングを出て行った。俺は話し相手もなく、一人リビングに残された。



 五月も後半の今は日が落ちるのが遅い。ようやく外も暗くなり、芳江たちが夕飯を食べている間、俺は点けて貰ったテレビで野球中継を観ていた。


 あれから文也は一度も顔を見せていない。愛理はまだ仕事から帰っていないし、時々芳江が様子を見に来てくれる以外は何も変化のない時間が過ぎた。


「あ、父さん野球観てるの?」


 不意に文也がリビングにやって来た。


「お、お前も観に来たのか。今、巨人が三点リードしてるぞ」


 きっと文也も野球中継を観に来たに違いない、と俺は喜んで返事をした。


 野球少年の文也は俺と同じ巨人ファンだ。最近は仕事が忙しくて出来なかったが、小さい頃は良く二人で一緒に野球を観たものだ。


 俺は腹を立てていたのも忘れ、一緒に野球を観られる事が嬉しかった。


「いや、野球を観に来たんじゃないんだ。他に観たい番組があるんだけど、チャンネル変えて良い?」

「えっ?」


 俺は意外な文也の言葉に驚いた。


「お前の好きな巨人戦なんだぞ。観なくて良いのか?」

「もう、野球は殆ど観ていないから良いよ」

「野球を観てないって、甲子園目指しているんだろ? プロのプレーを観なきゃ駄目じゃないか。どうして観ないんだ?」


 文也は小学生の頃からプロ野球に憧れ、甲子園目指して野球チームで頑張っていた。毎日かじり付くように野球中継を観ていた文也の言葉とは思えず、俺は問いただした。


 文也は俺の言葉を聞くと小さくため息を吐いた。


「何にも知らないんだな。高校では野球部に入らなかったんだよ」

「ええっ! 何故だ。あれ程甲子園目指して頑張っていたのに」

「野球部じゃなくて、今は軽音楽部でバンドやってるんだ」

「バンドだあ? お前ケツを割りやがったのか!」


 俺は文也が野球を続けていないと聞いてショックを受けた。あれ程甲子園に憧れていたのに諦めるなんて。そんな情けない男が俺の息子なんて認めたくない。


「ケツを割ったって、中学はちゃんと最後まで野球部で頑張ったよ。高校生になってから音楽をやりたくなったんだ。ちゃんとバンドを真剣に頑張っているんだから良いだろ」


 文也は口を尖らせて反論してくる。どんな言葉を聞いても、俺には言い訳にしか聞こえなかった。


「いや、違うな。お前は音楽が好きになったんじゃない。甲子園に行くのは無理だと悟ったから、自分に嘘を吐いて誤魔化しているだけだ。お前は逃げたんだ」


 俺に責められ、文也はチッと小さく舌打ちした。


「そう思いたきゃ思えば良いだろ」


 文也は怒ってリビングを出て行く。俺はその態度に益々腹が立った。


「芳江! 芳江!」


 俺は大きな声を上げて芳江を呼ぶ。


「どうしたんですか? 大きな声で」

「どうしたってお前、文也が野球辞めたのを知っていたのか?」

「もちろん知っていますよ」

「何故、俺に言わないんだ」

「相談しようとしましたよ。でもあなたは私が大事な話があると言っても、また今度にしろって聞いてくれなかったじゃないですか」


 芳江が怒ってそう言う。記憶を辿ってみると確かに文也が高校に入学した昨年は仕事が忙しかった記憶がある。その後すぐ余命宣告されて記憶をスキャンしたので聞いていなかったのだろう。芳江の話を断った記憶は全くないが。


「お前は何が重要な事なのか分かってないのか! たとえ俺が断ったとしても、無理やりにでも聞かせるべき事だろ。それで家庭を守っていると言えるのか」


 俺は大きな声で芳江を責めた。心の中は後悔と怒りが渦巻いていた。家庭内の事を芳江に任せっきりにしていたのは間違いだった。


「すみません、今度からはちゃんと相談します」


 芳江は憮然とした表情でそう言った。


「もういい! これからは俺が直接、子供達を指導するから」 


 子供と言えばまだ愛理が帰っていない。愛理にも色々と今の生活環境を聞く必要があるだろう。


「愛理はまだ帰らないのか?」

「今日は会社の飲み会があるって言っていたからもっと遅くなると思いますよ」

「もっと遅くってもう九時前だぞ。結婚前の若い娘が危ないだろ」

「そうは言っても、愛理はもう二十三歳ですよ。仕事での付き合いもあるし大人なんだから、仕方ないでしょ」

「お前は甘すぎる! 何かあってからじゃ遅いんだぞ」


 俺は箱になって良かったと心から思った。家族には俺の存在がまだまだ必要なのだ。幸い生きている時と違い時間はたっぷりと有る。家族をしっかりと教育し、導いて行かねば。

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