第11話 父と言う名の箱【3】

「ただいま」

「お帰りなさい」


 午後十一時半。ようやく帰って来た愛理を芳江が出迎えた。


「えーっ!」


 小声で会話に続き、愛理の驚く声が聞こえる。


「愛理! ちょっとここに来なさい!」


 俺はリビングから大声で愛理を呼んだ。


 しばらくして、頬を少し赤くした、スーツ姿の愛理が無言でリビングに入って来た。


「お父さん?」


 俺の前まで来た愛理は、戸惑った表情を浮かべて箱になった俺を見つめる。


「そんな事はどうでも良い。そこに座りなさい」

「お父さん、せっかく戻って来た日なんだからそんなに怒らなくても……」


 愛理に続いてリビングに入って来た芳江は、なんとか穏便に済ませようとしてそう言った。


「お前は黙っていなさい」


 俺は極力感情を抑えて、芳江を制する。


「その言い方は確かにお父さんだね」


 愛理が馬鹿にしたように言った。


「今何時だと思っているんだ」

「十一時半」


 不貞腐れたように愛理が答える。


「結婚前の娘がこんな時間まで外を出歩いているなんて何を考えているんだ!」

「仕方ないでしょ、会社の飲み会なのよ。お父さんが生きている頃だって飲み会は行っていたんだよ。お父さんは帰るのが遅くて知らなかったでしょうけど。私ももう子供じゃないわ。付き合いがあるんだから」

「生意気言うな! 女の仕事なんて結婚までの腰掛なんだから、付き合いなんて気にしなくて良いんだよ。飲み会なんかでいい加減な男に隙を見せて変な事をされたらどうするんだ」

「話にならないわ。こんな古い考え方、定年目前の昭和生まれの上司でもしないのに」


 愛理はアルコールで赤くなった顔を、怒りでさらに赤くした。


「お母さん、元々お父さんはこう言う人だったよね。箱になるのを止めれば良かったよ」

「そうは言ってもね……」


 文句を言う愛理に、芳江がおろおろして言い訳しようとしていた。


「とにかく私はこの箱がお父さんなんて認めない。お父さんは死んだんだよ」


 そう言い放つと、愛理はリビングを出て行こうとする。


「こら、待て! まだ話の途中だぞ!」


 俺の引き止める声を無視して愛理は振り返りもせず出て行った。


「お前の教育が悪いからあんな娘に育ったんだ!」


 俺は怒りの矛先を芳江に向けた。芳江は何も言い返さずに悲しそうな目をして俺を見つめていた。



 次の日から俺は家族の指導を始めた。


 毎朝起きれば俺の前に来て挨拶させる。ちゃんと寝坊せずに起きているか確認する為だ。


 家を出る前や帰って来た時も、俺の前に来て報告させる。変な服装や帰宅時間など確認が必要だから。


 愛理と文也は嫌がったが、芳江からも促されて渋々ながらも従うようになった。俺より芳江の言う事を聞くのが気になったが、そこは我慢した。今の俺は力で従わせる事も出来ないから仕方ない。


 こうして始まった俺の指導のお陰で家族の生活態度も改まってきた。愛理のチャラチャラした服装は直させたし、午後九時には帰宅するようになった。文也も着崩した制服を直させたし、毎日の勉強時間も報告させた。さすがに芳江はパートに出掛ける服装も問題ないし、家事もしっかりとこなしているので安心だ。まだ五十歳手前の芳江は美しく、未亡人となった今はちょっかい掛けて来る男がいないか心配もあったのだ。



 俺が箱になってから一ヵ月が過ぎた。


 子供達は家に帰ると俺に顔を見せるが、すぐに部屋に入りリビングに来る事はない。


 文也は夕食が終わり、部屋に入るとすぐにギターを弾き始める。毎日毎日欠かさず練習している。アンプを通していないのか、音は大きくないが何度も何度も同じ曲を歌いながら弾いていた。


「なあ、文也は俺が生きていた頃からああやって毎日ギターの練習をしていたのか?」


 俺は横でテレビを見ている芳江に聞いた。


「そうですよ。あなたは帰るのが遅かったから知らなかったんでしょうが、あの子は前から熱心に練習していますよ。野球をしていた頃と同じように」

「うん……」

「でも、意識してあなたの居ない時に練習していたのかも知れませんね。あなたの帰る時間を気にしていましたから」

「そうなのか……」


 文也が俺に知られたく無かったのは少なからずショックだった。野球を辞めた事で俺に小言を言われるのが嫌だったんだろうか。男の癖に情けない奴だ。


「文也のバンドの事、認めてあげればどうですか? あの子軽音学部の部長に選ばれたし、バンドでもリーダーで頑張っているんですよ。勉強もクラスでトップレベルだし」

「お前は甘いんだよ! 野球は何年続けたと思っているんだ。少一の頃から九年だぞ。たかだか音楽を一、二年続けたからと言って簡単に認められるか。プロにでもなれたら褒めてやるがな」


 俺は素直に文也の頑張りを認めてやる事が出来なかった。どうしても野球を辞めた事が心にしこりとなって残っているのだ。


「そうですか……」


 芳江は小さな声でそう言うと立ち上がった。


「どうしたんだ? まだ番組の途中だろ」

「ああ、もう観たいコーナーは終わったのでお風呂に入ります。明日も早いので」


 芳江が出て行くと、俺はリビングで一人になった。テレビではお笑いのバラエティ番組が流れているが少しも笑えない。


 俺は孤独を感じたが、それも仕方が無い。誰かが厳しくならなければ、人間は楽な方に流れて駄目になるからだ。この孤独は今まで家族を芳江に任せっぱなしにしていた俺への罰なのだ。



 俺が箱になってから三ヵ月近くになる。俺は変わらず家族に対して気になる事はどんどん直させた。服装や言葉遣い、小さな事まで目を光らせた。その甲斐あってか、だんだん指摘する事も無くなってくる。俺は家族が良い方向に向かっていると実感できた。ただ一つ、家族と普通の会話が殆ど無い事が気掛かりだった。


 生きている頃から殆ど家族と会話が無かった俺に、今更話し掛ける話題など無い。向こうから相談でもしてくれれば的確なアドバイスをしてやれるんだが、まだ俺に対してそんな気持ちはなさそうだ。俺のお陰で自分達が良くなっていると実感出来ないのだろう。


 そんなある日、仕事から帰って来た愛理が、俺の前に正座した。


「お父さん、ちょっと良いかな」


 普段は帰宅の報告をするとすぐにリビングを出て行くのに、今日は遠慮がちに話し掛けてきた。


「なんだ、相談事か? 何でも聞いてやるぞ」


 ようやく俺が頑張って来た事が理解されてきたのかと喜んだ。


「相談事じゃないの。お父さんに会って欲しい人が居るんだけど」

「会って欲しいって……まさか男か?」

「そう、今お付き合いしている、笠原明人(かさはらあきと)さん」

「お前まさか結婚したいって言うんじゃないだろうな」

「……そう、結婚の挨拶をしたいって」


 愛理は少し恥らいながらもはっきりとそう言う。


「相手はどんな男なんだ? 歳は? 仕事は?」

「仕事は善凛寺商事に勤めているの」

「善凛寺? 大手じゃないか」


 善凛寺商事と言えば国内でも有数の大手でそこの社員ならかなりのエリートだろう。


「で、歳は?」

「歳は……」


 愛理は言いにくそうに口ごもった。


「いくつなんだ?」

「三十一歳」

「三十一だと? 駄目だ駄目だ! 八つも歳が離れているじゃないか。上手く行きっこない」

「どうして? お父さんとお母さんも八歳離れているじゃない」

「母さんは二十五歳で結婚したんだ。お前はまだ二十三歳だろ、早過ぎる」

「私はもう子供じゃないわ。笠原さんに会ってもいないのに駄目だなんて納得出来ないよ」


 俺に否定され、愛理は悲しそうな顔で訴えた。


「そうですよ、会う前から駄目だなんて愛理が可哀想じゃないですか」


 リビングの入り口で待機していたのか、芳江も入ってきて愛理に加勢する。


 まだ男を見る目が備わっていない二十三歳で結婚するなんて。おまけに相手は八つも歳が離れているし、バツ一になるに決まっている。


「おとうさん、お願い」


 愛理が中腰になり俺に迫る。


「うーん」 


 俺は許可するつもりは無かったが、少し考えた。このまま会わずに駄目だと言っても二人は納得しないだろう。なら一度会うだけ会って駄目出しした方が良いか。


「いつなんだ?」

「会ってくれるの?」

「ああ、だからいつなんだ?」

「来週の日曜日でも良い?」


 愛理は希望が出て来たのか、急に元気になった。


「分かった。その日に会おう」

「良かったね、愛理」

「うん、ありがとう」


 愛理と芳江は手を取り喜んでいた。まるで俺が結婚を許可したかのように。

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