第8話 上司と言う名の箱【4】

 俺の予想通り、その後も地獄は続いた。佐川は俺から会社で受けた仕打ちを家に帰って来て俺に返す。生身の俺は痛くも痒くもないが、箱の俺は苦しみ続ける。箱である俺一人苦しむのは不条理だ。だが、そう思っていても俺の地獄は続いた。



 俺が箱になってどれぐらいの日にちが経ったのだろうか。ある朝、いつものように佐川が挨拶をしてきた。今日はどんな苦しみを俺に与えようかと、嬉々としている。


「おはようございます。調子はどうですか?」

「良い筈ないだろ。地獄だよ地獄」

「おや、口の利き方がなっていませんね。これは懲らしめないと」

「勝手にしろよ。俺が何言おうとどうせするんだから」


 その日、俺はヤケクソになっていた。もう逃れられない地獄の日々に絶望を通り越していたのだ。


「良いのか、僕にそんな事言って」


 俺の無礼な態度に佐川の言葉が荒くなる。


「可哀想な奴だなお前は。いくら人工頭脳の俺に復讐しても、生身の俺はピンピンしてるぜ。今も毎日いじめられているんだろ? お前は無能だからな。いい歳して、仕事も出来ず女も出来ず、根暗な童貞なんて生きている価値は一つも無いぜ」


 俺は箱になって初めて、佐川を罵った。佐川は驚き、見る見る顔が赤くなる。


「許さんぞ……」

「悔しければ、生身の俺に歯向かってみろよ。怖くて出来ねえか。小心者の童貞だからな」


 俺はそう罵ると、大笑いしてやった。佐川は激怒してキーボードを叩く。


「がががががーーーー」

「じゃあな」


 俺に最大限の痛みを与えて佐川は出て行った。


 苦痛の中でも痛みが一番強烈だ。一番辛いのは佐川も分かっていて、懲罰的な使い方をして長時間続ける事はこれまで無かった。外出時に痛みを入力したまま出て行くのは今日が初めてで、俺の言葉が相当屈辱だったのだろう。



 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い……。


 佐川が出て行ってどれぐらいの時間が経ったのか。数時間なのか数日なのか、いつもより長い気がするが、正確に分からない。頭の中が痛いで充満しているからだ。


 その時、玄関のドアが開く。


 佐川が帰って来たと、俺は喜んだ。朝の非礼を詫びよう。痛みを解除して貰えるように頼もう。もう二度と逆らわない。痛みだけは避けて貰えるように。


 玄関から人の話し声と、数人の足音が聞こえる。俺の予想に反して、ドアが開いて入って来たのは複数の人間のようだ。今までに無かった事だ。


「警部、ここに有りました! 供述にあった、人工頭脳の箱です!」


 一人の男が俺の前に来て叫んだ。続いて警部と呼ばれた四十過ぎの男が現れる。厳つい顔をした男だ。


「あなたは橋野さんですか?」


 男が俺の名を口にする。


「いい、はい、いい、はいいいいーーー」


 俺は痛みと戦いながら懸命に返事をする。もしかして助かるのか? 俺に救いの手が差し伸べられるのか?


「実は生身のあなたが殺害されたのです。容疑者はあなたの部下の佐川です」

「いいいい、佐川がああ」


 佐川が俺を殺した?


「普段から二人の間に確執があったようですが、ある日それが爆発してしまったようです」


 もしかして、俺があの朝罵倒したのが切っ掛けになったのか? 俺は自分の力で出口を切り開いたのか。俺は猛烈な痛みの中にも希望を見つけた。


「それで、佐川の供述から人工頭脳であるあなたの存在が判明したのです」

「いい、た、助けて、いい、痛み、痛みが酷いいいいい、た、助けて」


 俺の助けを求める声を聞き、警部はため息を吐いた。


「そうしてあげたい気持ちはありますが、何分あなたは証拠品なんです。今の法律ではあなたに人権はないのですよ。証拠品を私が勝手にいじる訳にはいきません」


 警部は少し間を空けて考えた。


「そうですね、裁判が終わり、証拠品の意味が無くなればあるいは……保証は出来ませんが。まあ、どちらにせよ長い裁判になります。状態保持の為にも度々電源は入れる事になるでしょう。もしかしたらずっと電源を入れっぱなしになるかも知れません」


 警部はさらりと、絶望的な事を言い放った。


「まあ、恨むんなら生身のあなたを恨んでください。部下をパワハラで殺人にまで追い込んだ上司に対しては社会の目も厳しいですよ」


 それまで無表情だった警部の顔に残酷そうな笑みが浮かぶ。こいつは俺を助けたい気持ちなどないのだと気付いた。俺が佐川を虐めていた事はもう知れ渡っていて、自業自得だと思われているのだろう。


「会社でネチネチと小言を言われ続けていた佐川が、とうとうキレてしまってね。給湯室から果物ナイフを持ち出したんですよ。何十か所もナイフで刺しまくったんですが、社員の誰一人止めに入らなかったそうですよ……。あなた随分嫌われていたみたいですね」


 警部は楽しそうにそう話した。


 俺の日頃の行いが元で地獄に落ちてしまった。しかも俺の地獄はこれからまだまだ続くのだ。俺は痛烈な痛みの中で絶望の底へと落ちて行った。

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