第3話 俺と言う名の箱【3】
箱になった俺に沙耶はいつも笑顔で接してくれた。家に居る殆どの時間を俺が居るリビングで過ごし、以前より会話が多くなったくらいだ。だが、そんな今までとは違う沙耶の態度が逆に俺を不安にする。
他にも、沙耶は俺に対して凄く気を遣っている。例えばテレビを見ていて食に関する事が出てくるとチャンネルを変えたり、好きだった旅行の話をしなくなったりとか。
生理的な欲求は最初から削除されているので、お腹が空く事はないし性欲も感じない。痛みや痒みなどの不快感もない。外部を見るカメラの他に、箱にはネット回線も繋がれており退屈する事もない。最悪は自分でタイマーを使い電源の入り切りが出来るので、一人の時間を持て余す事はないのだ。だからそんなに気を遣わなくても良い、自分の時間を持つ事も大切だと言ったが、沙耶の気遣いは変わらなかった。
生前、俺達はそれぞれ違う趣味を持ち、お互いを尊重し良い距離感を持って生活していた。今の沙耶は無理をしている。俺が箱になった事に対して過剰に気を遣っているのだ。
「中央公園に行って桜を撮って来てくれないかな。予約を取ったから、いつもの旅館で一泊してくればいい」
箱になって数ヶ月経った春の日。俺は沙耶にお願いをした。
この数ヶ月間、沙耶は仕事以外で殆ど外出する事もなく、俺の傍に居てくれた。だがこのままでは駄目だ。俺が箱になったからと言って気を遣う関係ではいずれ破綻するだろう。
俺から離れるのを嫌い、行くのを渋る沙耶を説得して追い出した。俺達の一番大切な思い出の場所である中央公園。その場所でなら何かきっかけを掴めるかも知れない。
生身の体だった頃も、俺はこうして旅行に行った沙耶を一人自宅で待っていた。
お互いを信頼していたから、離れていても心が通じていると信じていたから、待っている事に何の不安も感じなかった。今沙耶が俺の傍を離れたくないのは不安があるからだろう。無理にでも少し俺から離れて、俺が生身の体だった頃の気持ちを取り戻して欲しい。
「ただいま!」
旅行から帰った沙耶が俺のシステムを立ち上げて起こしてくれた。
「良い写真が撮れたよ。すぐにプリントするから待っててね」
笑顔の沙耶を見て旅行を勧めて本当に良かったと思った。生前と同じように、旅行から帰って来て嬉しそうに写真を見せてくれた。生きている時から、その笑顔が俺は好きだった。箱になっても俺達の信頼は壊れない。そう思えて嬉しかった。
沙耶がプリントアウトした写真を見せてくれて、その時の状況や苦労話を聞かせてくれた。俺もその都度感想を話す。
その中で一枚の写真に目が留まる。
桜の木をバックに沙耶が笑顔で立っている写真だ。
「あれ? これ誰が撮ったの」
「それは私と同じように桜の木を撮っている方がいて、記念に私が写った写真を撮ってもらったの」
「そうなんだ」
「斉藤さんと言って、私と同じで写真が趣味なんだって。上手く撮れているでしょ?」
「本当だ、本物より美人に撮れてる」
「もう!」
俺の冗談に沙耶が笑った。
斉藤と言う人物について沙耶は性別や年齢など詳しくは話さなかった。それは必要無いと思ったからだろう。俺も特に興味はなく聞く事はしなかった。
旅行以来、沙耶の態度にも少しずつ変化が見られた。俺にべったり張り付くのではなく、適度に一人の時間を作るようになった。
その都度報告はしてくれるが、会社の飲み会などにも出席するようになった。しばらく更新していなかったブログも再開したようで俺に見るように勧めて来たりもした。表情も明るくなってきた気がする。以前の関係に戻りつつあると実感出来た。
ある日沙耶が日帰りの撮影に行きたいと言ってきた。旅行の日に知り合った斉藤さんから誘われたそうだ。俺は快く送り出した。
斉藤さんがどういう人物か俺も少しは分かっている。沙耶のブログにコメントを書き込んでいたからだ。二人は写真の事で情報交換していたのだ。
三十代の独身男性。写真と仕事に夢中なあまりに婚期を逃してしまったと彼のブログに書いてあった。ブログの記事を読むと彼の人柄の良さが感じられる。不器用で真面目すぎて損をするタイプ、だが悪い事を憎む正義感の強い人間。友達になりたいと思わせる人物だった。
数時間後、沙耶が撮影会から帰って来て、俺を立ち上げて起こしてくれた。沙耶は俺が生きていた頃と同じように、撮影した時の事を話しながら、嬉しそうな顔で写真を見せてくれる。その姿は本当に昔のままで俺は幸せな気分に浸った。
写真には斉藤さんも写っていた。イケメンでもなく真面目そうな、どこにでも居そうなおっさんだった。
「斉藤さんから写真のサークルに誘われたんだけど入って良いかな?」
写真を見ている最中に沙耶が聞いてきた。
「ああ、もちろん入れば良いよ」
「ホント? でも、月に一、二回撮影会があるみたいなんだけど……」
「良いじゃないか、行ってくれば」
「ありがとう。サークルにはコンクールで入賞した人も居たり、上級者が多いの。いろいろ教えて貰えそうで入りたかったんだ」
「そうか、沙耶の腕前も益々あがりそうだな」
「うん、綺麗な写真をいっぱい撮って、あなたに見せるね」
そう言って沙耶は笑顔で箱の体に抱きついてきた。
日帰り撮影の日以降、沙耶の表情は益々明るくなり、俺達は以前の関係を取り戻したかのようだった。
あれから写真サークルの撮影会にも何度か出掛けていて、沙耶のブログはその時の写真や記事で頻繁に更新されている。コメント欄もサークル仲間で賑わい、中でも斉藤さんはマメに書き込んでいた。
数は多いが、斎藤さんの書き込みも話題のほとんどが写真に関する技術や被写体の事で、特に写真仲間以上のものは感じられ無い。だが、時おり冗談が混じるなど、最初の頃と比べてだんだん親しさは増しているようだった。
撮影会から帰って来た後の沙耶はいつも楽しそうに話を聞かせてくれる。そんな姿を見て、ふと、いつか斉藤さんと沙耶は愛し合うようになるんじゃないかと不安な気持ちになった。
今、斉藤さんの気持ちは分からないが、沙耶には彼を男として意識している事はないと断言できる。だがこのまま友達関係を続けていけばその人柄に惹かれてしまう気がする。
この気持ちは嫉妬なんだろうか? 俺は初めて感じる感情に戸惑った。
二人が俺に内緒で男女の関係になる事は絶対ないだろうし、もし俺が斉藤さんと会うことをやめるように言えば沙耶は何も言わずに従うだろう。
だが、俺はそれを言い出す気になれなかった。そうさせる事が沙耶の幸せに繋がるのかわからなかったからだ。
沙耶の幸せは死んだ俺の事を忘れ、良い人と再婚して幸せな家族を作る事だ。なら俺が身を引いて、このまま二人の関係が進展する方が良いかも知れない……。
むしろ、俺が箱になんかならずにあのまま死んでいれば、すでに二人は幸せな恋人になっていたかも知れない。そんな自虐な気持ちも湧いてくる。
逆に、今なら間に合う。沙耶を斉藤さんから引き離せば自分だけのものにしておく事が出来る。それは悪い事では無いはずだ。なぜなら、沙耶は俺の妻で家族だからだ。
そんな真逆な考えが入れ替わり立ち代わり頭の中を駆け回る。こんな事を考え続けないといけない、自分の存在の曖昧さがもどかしかった。
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