第125話
「このような場にて、何のお持て成しも叶わず、恥ずかしゅうございます」
牛車の屋形と云う、姫君よりも高い座から移動することさえ出来ない。
斜め後ろの乳母も、神妙にひれ伏したままだ。
だが、屋形内の端――敷物の下が不自然に盛り上がっており、複数の太刀が隠されているのが見て取れた。
さすがは、元『近衛府の四将』の剣士と、その乳母である。
平和な時世であろうが、決して気は緩めない。
下手なことをしたら、命を幾つ搔き集めても追い付かないだろう。
近衛府を知り尽くした
「私どもが勝手に出歩いているのですから、お気になさらずに。……
姫君は幼子に釘付けの様子で、傍らの恋人の危惧には気付かない様子だ。
幼子も、きょとんと姫君を眺めているが、怖じたりはしなかった。
「正月に二歳になりました。あの……よろしければ。人見知りのしない子ですので」
「ええ、ぜひ」
姫君は嬉しそうに頷く。
乳母は空かさずに前に進み出でると、家来が下に
乳母の履いているのは長袴ではなく、切袴だった。
万一の事態に、すぐに太刀を握って飛び出すための周到な用意だ。
乳母は
若い家来は顔を伏せて、乳母の
黒塗りの
「
姫君は小さな手に触れ、軽やかに微笑む。
見上げる
それを見て、
学校祭の準備をしていた時に、一戸と共に異界に引き摺り込まれた。
その時に
「
そう口ずさんでいた
目の前の温かな情景を、一戸に見せたらどんな顔をするだろうか。
そして自分は……
「婚儀は、
「……派手なことは慎むつもりです」
姫君は、首を傾げてゆっくり答えた。
「国を挙げて祝うべきと進言する家臣が多数ですが、父上の甥御の庶子を
「私も同じ考えです」
「私の実家は、辺境の領主に過ぎません。『近衛府の四将』を勤め、『帝都士族』の身分を頂きましたが、やはり出自に拘る方々は少なくありません。私は、王都の政事には関わらず、『衛門府』にて剣士としてお仕えするのみです」
「それがよろしゅうございますね……」
「お勤めしていれば、中将殿の誠実さは周囲に自然と伝わりましょう」
「はい。それに
「ええ。お引き留めして申し訳ございませんでした」
「いいえ。
姫君は気取らずにお辞儀をし、幼子に手を振る。
こうして、
居並ぶ牛車の列を抜けると、また人々の喧騒が広がる路地に戻った。
生け垣や低い塀の向こうに立ち並ぶ民家が見える。
三人の子供たちが桜の枝を持って、民家に走り込んだ。
男児の明るい声が聞き取れる。
「ばあちゃん、桜を持って来たよ! 見て見て!」
家族を想う声は微笑ましく、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
来年も、この花びらは人々の目を楽しませるのだろう。
「不思議です……安心いたしました」
姫君は、眩しそうに空を見上げた。
「私……もう、怖いものは無くなりました。ここが何処であれ、平和な世界に生きる私たちが居るのですね……」
「はい……」
「私と姫さまは、
「ええ……嬉しくて泣きそうです」
姫君は、細い指先で目を拭う。
「この世界の私は、幸せになる……それだけで満足です」
「……
「……私は、私の『世界』を救います。私たちの苦しみを……終わらせてください」
姫君は顔を伏せ、
なぜ、それが起きたか分からない。
全てが悪しき方角を向いて絡まった。
ほとばしる熱情と想いを制することが出来ず、それが悪意と化し、血を求めた。
過去は変えられない。
だが、未来は戻り戻せる。
蘇った人々が新たな国を造り、桜を愛でるだろう。
「……姫さま、宿で休みましょう」
自然と、言葉が付いて出た。
きっと、この近くに今夜の宿を取っているのだろう。
夜が更け、日が昇る頃には、現世の浴槽の中に戻っているだろう。
もう少し、夢を見る時間が残っているようだ。
夢は短く、けれど美しく優しい――。
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