第125話

「このような場にて、何のお持て成しも叶わず、恥ずかしゅうございます」


 紗夜月さやづきは、ただただ恐縮して頭を下げる。

 牛車の屋形と云う、姫君よりも高い座から移動することさえ出来ない。

 斜め後ろの乳母も、神妙にひれ伏したままだ。

 

 だが、屋形内の端――敷物の下が不自然に盛り上がっており、複数の太刀が隠されているのが見て取れた。

 紗夜月さやづきと乳母の得物に間違いない。

 さすがは、元『近衛府の四将』の剣士と、その乳母である。

 平和な時世であろうが、決して気は緩めない。

 下手なことをしたら、命を幾つ搔き集めても追い付かないだろう。

 

 神名月かみなづきはふと微笑んだが、これだけ警戒心が深い将たちが揃っていて、誰も神逅椰かぐやを止められなかった。

 近衛府を知り尽くした神逅椰かぐやの功名さと強大さが伺える。



「私どもが勝手に出歩いているのですから、お気になさらずに。……大君おおいきみさまは、お幾つになられたのですか?」

 姫君は幼子に釘付けの様子で、傍らの恋人の危惧には気付かない様子だ。

 幼子も、きょとんと姫君を眺めているが、怖じたりはしなかった。


「正月に二歳になりました。あの……よろしければ。人見知りのしない子ですので」

 紗夜月さやづきは、遠回しに「近くでご覧になられますか?」と訊ねた。

 

「ええ、ぜひ」

 姫君は嬉しそうに頷く。

 乳母は空かさずに前に進み出でると、家来が下にしじを置く。

 乳母の履いているのは長袴ではなく、切袴だった。

 万一の事態に、すぐに太刀を握って飛び出すための周到な用意だ。


 乳母はしじに置かれたくつを履き、幼子を抱き上げて姫君の手前に進み出た。

 若い家来は顔を伏せて、乳母のうちきの裾を持ち上げている。

 黒塗りのながえ(牛車の引き棒)を挟み、女たちは向き合った。

 

大君おおいきみさま……何て愛らしいのでしょう。お目は父君に、お口元は母君に良く似ていらっしゃる」

 姫君は小さな手に触れ、軽やかに微笑む。

 見上げる紗夜月さやづきの顔は、母親としての幸福感に輝いている。


 それを見て、神名月かみなづきの心も自然とほころんだ。


 

 現世うつしよでの初夏。

 学校祭の準備をしていた時に、一戸と共に異界に引き摺り込まれた。

 その時にまみえた紗夜月さやづき夜重月やえづきの魂は、狂気の坩堝るつぼに在った。

 


雨月うげつくんの、首ね、首ね♪」

 そう口ずさんでいた紗夜月さやづきの狂態が、たちの悪すぎる冗談に思える。

 目の前の温かな情景を、一戸に見せたらどんな顔をするだろうか。


 火名月ひなづき近衛督このえのかみとなり、紗夜月さやづき雨月うげつの妻として愛娘と穏やかに過ごしている。

 夜重月やえづき三神月みかづきも、それぞれの道を歩んでいるのだろう。

 

 そして自分は……



「婚儀は、如何様いかようにされるのでしょうか?」

 紗夜月さやづきは、遠慮がちに訊いてきた。


「……派手なことは慎むつもりです」

 姫君は、首を傾げてゆっくり答えた。


「国を挙げて祝うべきと進言する家臣が多数ですが、父上の甥御の庶子を春宮とうぐう(皇太子)に推す声もあります。私は春宮とうぐうを退いても構わないのですが、それを私が決めることは出来ません。混乱を避けるためにも、中将さまの婿入りを披露するに留まりたいと思います」


「私も同じ考えです」

 神名月かみなづきの口は、勝手に動いた。

「私の実家は、辺境の領主に過ぎません。『近衛府の四将』を勤め、『帝都士族』の身分を頂きましたが、やはり出自に拘る方々は少なくありません。私は、王都の政事には関わらず、『衛門府』にて剣士としてお仕えするのみです」



「それがよろしゅうございますね……」

 紗夜月さやづきは、思慮深く頷いた。

「お勤めしていれば、中将殿の誠実さは周囲に自然と伝わりましょう」


「はい。それに水葉月みずはづきも、天文寮に入って学びます。いつでも会えますし、心強いです。では……御方さま。姫君もお疲れのようですし、これにてお暇をいただきとうございます」


「ええ。お引き留めして申し訳ございませんでした」


「いいえ。大君おおいきみさまにお会いできて、楽しゅうございました。忍んで来た甲斐がありました」

 姫君は気取らずにお辞儀をし、幼子に手を振る。


 

 こうして、神名月かみなづきたちは馴染みの先達に別れを告げた。

 居並ぶ牛車の列を抜けると、また人々の喧騒が広がる路地に戻った。

 生け垣や低い塀の向こうに立ち並ぶ民家が見える。


 三人の子供たちが桜の枝を持って、民家に走り込んだ。

 男児の明るい声が聞き取れる。

「ばあちゃん、桜を持って来たよ! 見て見て!」


 家族を想う声は微笑ましく、二人は顔を見合わせて微笑んだ。

 来年も、この花びらは人々の目を楽しませるのだろう。



「不思議です……安心いたしました」

 姫君は、眩しそうに空を見上げた。


「私……もう、怖いものは無くなりました。ここが何処であれ、平和な世界に生きる私たちが居るのですね……」


「はい……」

 神名月かみなづきは目を伏せ、赤い懸け帯の結び目が揺れる背に寄り添う。

「私と姫さまは、夫婦めおとになるのです」


「ええ……嬉しくて泣きそうです」

 姫君は、細い指先で目を拭う。

「この世界の私は、幸せになる……それだけで満足です」


「……玉花ぎょくかさま……」

「……私は、私の『世界』を救います。私たちの苦しみを……終わらせてください」



 姫君は顔を伏せ、御空色みそらいろの袿で隠した。

 神名月かみなづきは、無言で応える。


 なぜ、が起きたか分からない。

 全てが悪しき方角を向いて絡まった。

 

 ほとばしる熱情と想いを制することが出来ず、それが悪意と化し、血を求めた。

 

 過去は変えられない。

 だが、未来は戻り戻せる。

 蘇った人々が新たな国を造り、桜を愛でるだろう。




「……姫さま、宿で休みましょう」

 自然と、言葉が付いて出た。

 きっと、この近くに今夜の宿を取っているのだろう。

 夜が更け、日が昇る頃には、現世の浴槽の中に戻っているだろう。


 もう少し、夢を見る時間が残っているようだ。

 夢は短く、けれど美しく優しい――。

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