第98話
「朝練の帰りかい?」
宇野笙慶氏は首を傾げ、偽りが背負う竹刀袋を覗き見る。
親切にも、木刀を収める袋まで入手してくれた。
その甲斐あって、クソ坊主も不審には思わない――とほくそ笑む。
とりあえずは、成りすましに成功した。
高貴な身分の象徴たる髪まで削いで、だ。
これで失敗したら、お笑い
「……墓……」
偽りは呟いた。
『墓』が何かは知っている。
死者の亡骸を納め、弔うための小さな塔だ。
だが……あちらで『墓』を見たことがあっただろうか……?
そう、『墓』など作られる筈は無いのだ……
「蓮くん、疲れてるんじゃないかい? ぼうっとしてるよ」
宇野笙慶氏は、少し屈んで顔を覗き込む。
サイズの合わない着衣にも気付き、やんわりと示唆した。
「着替えた方が良いよ。誰かの服を借りたのかい?」
「はい、ちよっと汚して」
偽りは相手に触れまいと、反射的に少し仰け反る。
相手から『
一戸家からも、『
こちらの接近を認知するために、家に置いているらしい。
だが『
気休め程度の効能しか無いだろう。
それでも、正体を気付かれるのは避けた方が良い。
(てめえの『安楽な死』のためにな。一刀で首を落としてやるよ!)
一戸家の玄関を潜りながら――ヒョロっとした男の背に嘲笑をぶつける。
中では、祖母が迎えてくれた。
「笙、突然どうしたの? 蓮も……お友達と動物園に行ったんじゃなかったの?」
「は?」
――偽りの声が裏返る。
『動物園』が、何のことか分からない。
本物の記憶を引き出すことは出来るが、咄嗟のことで儘ならない。
が、それっぽい言い訳を何とか思い付いた。
「……あの……
「ここに連れて来て、休ませたら良かったのに。他のお友達は動物園に行ったのね。和樹くん、大事ないと良いわね」
「僕が、お見舞いに行きますよ」
宇野笙慶氏は、草履を脱ぐ。
「蓮くんも行くよね?」
「……もちろんです」
「母さん、
「江梨子さんがお作りになったのね。風呂敷を用意しましょうね。まずは、みんなで頂ましょう」
親子の呑気な会話に頷きつつ――偽りは、密かに舌先を伸ばした。
(……テメエもババアもこの家から出られないんだよ!)
こいつらの首をどこに並べてやろうか、と想像しながら靴を脱ぐ。
見ると、横の棚に透明な壺が置いてある。
中に入っているのは『
(クソ坊主め、気付かなかったか。馬鹿め!)
悪態を付き、胸に力を込めると――白い上衣の一番上の留め具が弾け飛んだ。
これで、少し動きやすくなった。
(着替えるまでもないが……おはぎとやらを味わってみるか)
謎の食べ物に興味が湧く。
泡の出る奇妙な飲み物もあると聞いた。
『色と欲には勝てぬ』と云う教えは正しいらしい――。
こうして畳敷きの部屋に通された偽りは、親子が
引き戸で出入りする部屋で、中央の台盤の周りに座って飲食するようだ。
一戸蓮の記憶を必死に引き出し、この世界のしきたりを知ろうとする。
壁に開いた四角い穴は『窓』で、吊り下がっている和紙に描かれた動物は『虎』。
置いてあるのは『あんもないとの化石』に『羽子板』。
その隣には、『
中は、ほぼ空っぽだ。
(早く来やがれ、のろまが!)
しびれを切らし、舌打ちする。
避けられぬ運命なら、早く事を済ませたいのだが――台盤の空いている三方に目が止まった。
綿入りの四角い敷物だけが、無言の圧力で迫って来るようだ。
ふと、昨日の出来事が浮かぶ――。
「きゃははははははははは!」
「ふはははははははははは!」
「ひはははははははははは!」
「あはははははははははは!」
歓声が、薄灰色の空に駆け上がる。
「ねー、疲れたよー。少し休もうよ~」
「ねー、冷えたお茶くださーい」
すると、奥に控えていた女房が立ち上がったのが見えた。
「きゃはははは! お茶、早くね~!」
猫の玩具を抱いた
やがて茶が運ばれ、四人は仲良く喉を潤し、お喋りに花を咲かせる。
「ねー、
「来月の九日。それまで会っちゃ駄目って言われちゃったよ」
「どうしてえ?」
「
「御文は書いてるのぉ?」
「奥方さまの女房の代筆が返って来るだけ。うえでいんぐどれすも仕立て上がったし、見せてあげたいのにな~」
そんな雑談をしていると、
「申し上げます。
従者の声に、四人はあたふたと出迎えの準備をした。
茶器を背後に押しやり、狩衣の襟元を正し、烏帽子を真っすぐに整える。
――四人の前に現れた
すっきりした美男で、見苦しい部分は欠片も無い。
「宰相さま、ご機嫌よろしゅうございます」
「みな、健やかに過ごしているようだな」
「はい、兄上。御用でございますか?」
「うむ……」
「
「はい。でも、すでに生まれ変わられていらっしゃるようですが」
「だが、もう役には立たん」
「あの四人の魂は、死後すぐに御神木に捧げ、肉体を与えたものだ。だが、魂が浄化されて消えてしまった。御神木に残る
その言葉に、四人は顔を見合わせた。
つまりは、闘える者が少なくなったらしいが……
「そこでだ。
「はい?」
「はい、ではない。土偶がっ!」
目を瞬く家臣を、厳しく叱責する。
「奴は、敵の四将どもを統べる厄介な存在だ。殺せとは言わぬ。
「えーっ!!
だが、
「奴らを抹殺する手段は、殺害だけに
「何か分かんないけど、すごーい!」
「兄上は偉いなー。頭いいなー」
「うん、かっこいいね!」
「心配するな。一戸蓮が生きているうちに、お前の新しい
「でも……
「ああ、お前の馬か。だが、新しい
「忘れたか?
「うん、そうだよね~。きゃははははっ!」
……かくして、夜には
屏風で仕切った隣の部屋からは笛の音が流れ聞こえ、池の傍らに設えた舞台では、四人の乙女が舞っている。
台盤には、山海の美味珍味が惜しげなく並べられた。
干し肉では無い柔らかい炙り肉、新鮮な魚のなます、乳を煮詰めた
今宵の宴の
若い三人は脇目も振らずに皿を次々と空け、
宴もたけなわと云う頃――
席を離れる仕草だ。
「あふえ? りょこいぐの?
蜂蜜を頬に付けた
「……
舞台では――花冠を付けた乙女たちが、一糸乱れぬ優雅な舞を披露し続けている。
四方で焚かれる篝火を浴びる乙女たちは愛らしく――しかし、その笑顔は固い。
動く雛人形のように、延々と同じ所作を繰り返すのみだ。
笛の音も、
やがて――笛の音が遠くなった所で立ち止まった。
引き込んだ川の流れが、微かな水音を発している。
烏の鳴き声も聞こえる。
「
すると、闇の中から浮かび上がるように黒馬が出現した、
しなやかな黒いたてがみは風になびき、真紅の馬具はその姿を精悍に彩る。
磨いた宝玉のような瞳は、主人の顔を映し出す。
「……怖くないよ……心配ないよ……」
愛馬の頬を撫で、囁いた。
「……変だな……僕……泣いてる……」
濡れた指で手綱を取り、たくましい肩に縋り付く。
「……死にたくないよ……!」
うねる慟哭が闇夜を突き抜けた。
草の陰から、数匹の蛍の舞い上がる。
小さな光は篝火よりも明るく、深き闇を照らし出す。
愛馬の温もりは篝火よりも暖かく、冷えた肌を包む。
彼は初めて――『生』を望んだ。
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