第51話

 刀の先を下に向け、夜重月やえづき紗夜月さやづきはゆっくり近付いて来る。

 長い黒髪は、獲物を狙う蛇の舌の如くにシュルシュルとなびいている。

「二人とも……懐かしいね。あたしは夜重月やえづきだよ。覚えてる?」


 夜重月やえづきは人懐こく微笑んだが、その声音は恐ろしく平坦だ。

 合成音声のように、抑揚が無い。

 少し背の低い紗夜月さやづきも、同じ調子で話しかけてくる。

「故郷に帰っておいでよ……みんなで楽しく暮らそう。あの御神木が在る限り、不老不死でいられるんだよ」


「生憎ですが、よみがえりには不自由しておりませんので」

 一戸は皮肉を返し、『白鳥しろとりの太刀』を鞘から抜く。

 鞘を手から離し、両手で柄を握り、刃先を上に向けた。

 剣道で言う『中段の構え』だろう。

 

 和樹は鞘を拾い上げ、数歩下がって『白峯丸しろみねまる』の長い柄に触れてみた。

 『魔窟まくつ』で使う『白鳥しろとりの太刀』と『白峯丸しろみねまる』に触れることは出来る。

 そして、自分も一戸も実体のままで、この異界に居る。

 ここは『現世げんせ』と『魔窟まくつ』の狭間の世界なのだろう。

 

 だが、自分は『白鳥しろとりの太刀』を扱えない――。

 霊体で闘う時には自在に扱える太刀なのに――。

 落胆と後悔とが、断崖の如く押し寄せる。

 一戸に、剣道の基本を教わっておくべきだった。

 素振りの練習ぐらいは出来た筈だ。

 『自分自身が得物を持って闘う』ことなど想定していなかった――。



「どうするぅ? やる気満々の雨月うげつくんは、二人がかりで相手するぅ?」

 紗夜月さやづきは左手を腰に当てて立ち、余裕しゃくしゃくだ。

 夜重月やえづきも、小馬鹿にしたようにせせら笑う。


「そうねぇ……二対一は卑怯だし。後ろの腰抜けの方を、あんたに任せる」

「いいよぉ。どっちからっちゃう?」

「あたしが先に決まってるでしょ? あんたは座って見てなよ」

 そう答えて夜重月やえづきは、哄笑した。

雨月うげつく~ん、あたしと遊んでよ。きゃはははははははは!」


 そして、素早い摺り足で瞬く間に距離を詰めた。

 刀を斜め上から振り下ろし、一戸はそれを受け止める。

 鉄と鉄がぶつかり、白光が閃く。

 刀身が擦れ合い、弾かれる鋭利な金属音が和樹の耳を刺す。


雨月うげつく~ん、真剣で打ち合うのは初めてかな~?」

 夜重月やえづきいびつに微笑み、いったん身を縮めて力を抜く。

 ひらりと一回転し、後ろに飛び下がり、刀を水平に構えて斬りかかる。

 一戸の太刀はそれを受け止め、弾き返して、上段から振り下ろす。

 それを夜重月やえづきは、難なくかわした。


「君、木刀しか振ったことないよね~? でもね、木刀と真剣は違うんだよ!」

 夜重月やえづきは、下から刃を突き上げる。

 一戸は瞬時に見切り、巧みな足さばきで背後に下がった。

 しかし、一向に攻めに転じられない。

 受け止め、避けるのが精一杯に見える。

 夜重月やえづきが見抜いた通り、一戸は『真剣』と対峙したのは初めてなのだ。



「そんな……」

 和樹は『白峯丸しろみねまる』に触れたまま、目前の立ち回りを見て呆然と呟く。

 一戸の不利は、傍目にも明らかだ。

 彼は、剣道の中学の地区大会で優勝している。

 その彼の動きが読まれ、封じられつつある。

 

 夜重月やえづきは、超人的なジャンプ攻撃を繰り出している訳でもない。

 刀の振りも突きの速度も、一戸と大差ない。

 なのに、一戸は防戦に徹するのみだ。



「あ~ん。つまんなぁ~い。あはははははははははは!」

 寝転がった紗夜月さやづきは、足をバタバタさせている。

 耳障りな笑い声が、体育館の天井で反響している。

「木刀名人、もっと頑張りなよぉ。さもないと、腰抜けから刺しちゃうぞ~」



 その嘲りが耳に気入り、目前の剣戟けんげきを見守っていた和樹は唇を噛む。

 口惜しい。

 自分の無力さが情けない。

 一戸が追い詰められているのに、何も出来ない。

 割って入っても、彼の言う通り足手まといになるだけだ。

 彼らの動きの先が読めないのだから。

 

 一戸だって、竹刀と真剣の差は解っていただろう。

 怖くない筈はない。

 それでも、立ち向かった。

 立ち向かっている……



 

(せめて、一戸の盾になれば……!)

 和樹は覚悟を決める。

 夜重月やえづきたちは『時映ときうつしの術』を使えないだろう。

 魂を封印されなければ、また転生できる。

 母を悲しませるのは辛いが……笙慶さんが寄り添うだろう。

 二人が結婚して、子供が産まれたら……あの世から祝福しよう……

 

 

 唇を噛み締め、『白峯丸しろみねまる』の柄を両手で握り、腰を浮かす。

 重いが、持ち上げることは出来そうだ。

 夜重月やえづきに突進すれば、彼女は一瞬でも自分を注視する筈だ。

 その一瞬の隙を、一戸が突いてくれることを信じる。

 無様な死に方で良い。

 無抵抗で終わってはいけない。


 そして立ち上がろうとした寸前。

 一戸は腕の動きを止め、後退した。

 だらりと右手を下げ、その場に崩れ落ちるように正座をする。

 『白鳥しろとりの太刀』を横に置き――深々と土下座をして叫んだ。

 

夜重月やえづき様と紗夜月さやづき様に申し上げます。この雨月うげつの首と引き換えに、神名月かみなづきの助命をお願いいたします!」


「はあ?」

「ええぇ?」

「………!!」


 夜重月やえづき紗夜月さやづきは、赤い唇をしどけなく開けた。

 和樹は、愕然と身を竦める。

 

 一戸は静止したまま、同じ台詞を繰り返す。

夜重月やえづき様、紗夜月さやづき様。この雨月うげつの首と引き換えに、神名月かみなづきの助命をお願いいたします! 未熟者の神名月かみなづきを哀れと思い、お見逃しください!」



「きゃはははははははははは!」

 紗夜月さやづき様は高笑いしながら、四つん這いで近寄って来た。

「ちょっとぉ~。上流士族の雨月うげつくんが、ひれ伏してる~。たまんな~い」


「あはははは~ん! 勝った、勝った、あたしの勝ちぃ~~」

 夜重月やえづきは般若を思わせる顔で笑い、その場で飛び跳ねる。

 

 その狂気めいた有り様に、和樹は嫌悪と――憐れみすら感じた。

 妖月あやづきとは、雲泥の差だ。

 彼女には、まだ『心』が在った。

 魂を囚われていても、愛した男への慕情と誇りを失っていなかった。

 ゆえに、彼女を倒せずに敗退を繰り返していた。


 ところが、この二人は『空っぽ』だ。

 『近衛府の四将』の矜持など、かけらほども残っていない。

 剣術と、幼児のような無邪気な残酷さ――

 それが彼女たちの全てだ。

 それを造ったのは、神逅椰かぐやに他ならない……。

 

 


雨月うげつくんの、首ね、首ね♪」

 紗夜月さやづきは跳ね起きて楽しそうに口ずさみ、下草を刈るように刀を振り回す。

 一戸はゆっくり上半身を起こし、首を伸ばした。

 その横顔は気だるげで――少し哀しそうに見える。

 和樹の脳裏に、遠い記憶が溢れる。

 

 

『すべては、この大将たる雨月うげつの企んだこと。如月きさらぎ神名月かみなづきは、私の命令に追従ついじゅうしたに過ぎません』


 

 あの時――投降して捕らえられ、裁判に掛けられた時に、彼はそう弁明した。

 仲間のためなら、彼は『命』も『誇り』も躊躇なく捨てられる男だった。

 それを知っているから、自分たちは彼を『大将』と認め、揺るがぬ信頼を置いた。



 ……和樹の体は勝手に動く。

 ズカズカと一戸の前に進み出て、握り締めた拳を水平に振り抜く。

「バカあああああっ!」


 拳は一戸の左頬にヒットし、彼は体勢を崩して尻餅を付く。

 一戸は何が起きたのか理解できない顔で、頬を押さえて友を見上げる。

 和樹は、早口でまくし立てた。


「こんな奴らに謝るなよ! 謝るんじゃねーよ……!」

 和樹は『白鳥しろとりの太刀』を手に取り、一戸の手前に立ち塞がる。

「首が欲しければ、オレのを持ってけ!」



「ははははははははははっ!」

 夜重月やえづきの醜悪な笑いが空気を濁す。

「いいよいいよ~! 最初から、首を二つ並べて祝杯を上げるつもりだったんだ! 仲良く並べてやるから、感謝して死ね!」

 夜重月やえづきは和樹に向かって刀を振り下ろした。




「並ぶのは、テメーらの首なんだよ!」

 ――上野の声が刀音を打ち消した。

 天井が音も無く霧散し、上野と月城が――落ちて来た。


「オレたちに掴まれ!」

 上野たちは、ゆっくりと落下してくる。

 和樹は上野の腰にしがみ付き、一戸は月城の手を握った。


「このまま『魔窟まくつ』に降りる! 手を離すな!」

 月城が叫び、体育館の床は糸が解けるように四散し、底の見えぬ大穴がぽっかりといた。

 校舎もひしゃげ、捻じれ、渦を巻いて大穴に呑み込まれる。

 頭上の月も、彼らを追うように沈んでいく――。

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